汗かきて草鞋はきたるすがたかな
斉藤茂吉
汗の身のわれをわすれて飯食へる
瀧春一
ちりりとろりと舌を刺す汗の記憶
柴田いさを
汗しゆく山に一基の墓あれば
上村占魚
汗ばみて余命を量りゐたらずや
石田波郷
※ 汗・汗ばむ・玉の汗
夏の汗は耐え難い。じっと動かずにいても汗がにじむ。大粒で、したたるように激しく出る汗を玉の汗といい、「汗みどろ」は全身汗びっしょりの状態。「汗にほふ」「汗ばむ」、みな暑苦しい。
【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】
※☆*わが友に贈る*☆※
事故が多発する夏。
水難や火災に注意!
車の長時間運転も
無理なく安全第一で。
強き祈りで油断を排せ!
2015年7月30日
※☆*寸 鉄*☆※
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩」御書。民衆の幸福へ!尊き使命の人生飾れ
◇
猛暑の中、会館を厳護する牙城会・王城会・宝城会に感謝!福徳は三世不滅
◇
汝自身が力をつけよ。汝自身が悔いなき信念持てー恩師。まず幹部(リーダー)が実践
◇
教員の7割、報告書作成や苦情対応に負担感と。改善急げ。子どもの為に
◇
政府機関の2割、帰宅困難者の対応未定。災害は忘れた頃に。備え懈らず
【聖教新聞:2015年(平成27年)7月30日(木)付】
※☆*北斗七星*☆※
沖縄県では37年まえのきょう、自動車が右側通行から左側通行となり、日本本土と同じになった。太平洋戦争末期の沖縄戦後、米国により右側通行に変えられていたのだ。それは本土復帰後も6年間も続いていた
◆
沖縄の戦禍を物語る出来事の一つだ。その沖縄戦では大勢の若者が犠牲となった。「戦場に動員された十三歳から十九歳までの中等学校生徒、師範学校生徒のほぼ半数が、戦場で命を奪われたことになります。これが当時のハイティーンの学生にとっての沖縄戦でした」
◆
元ひめゆり学徒隊の宮城喜久子さんが『ひめゆりの少女』でつづっていた。同書に、米軍に追い詰められ、絶壁の上で死を覚悟した少女たちの本音の叫びであった。「もう一度、弾の落ちて来ない空の下を、大手を振って歩きたい!」
◆
「青春を謳歌することもなく戦場に倒れた、ひめゆりを含む若い学徒たち」(宮城さん)。この言葉を目にしたとき、児童文学作家の石井桃子さんが『エッセイ集』に記していた次の一文を思い出した
◆
「ゆたかに物をかんじ、のび、力を貯えなくてはならない時代に、今度の戦争を経験した人たちの不幸を、私は何にもたとえることができない。失われは成長期は、もうとりもどすことができない」
◆
若者が青春を謳歌できる社会であらねばならない。 (六)
【公明新聞:2015年(平成27年)7月30日(木)付】
☆彡------☆★☆★☆*------彡☆o☆:*:.♪☆★☆*------☆彡
日蓮大聖人の仏法
【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】
--御生涯の教えーー
[1] 日蓮大聖人の御生涯
(前号より)
(4)竜の口の法難と発迹顕本
文永5年(1268年)、蒙古(「蒙古」は歴史的な呼称であり、当時のモンゴル帝国を指す)からの国書が鎌倉に到着しました。そこには、蒙古の求めに応じなければ、兵力を用いるとの意が示されていました。「立正安国論」で予言した他国侵逼難が、現実のものとなって迫ってきたのです。
そこで大聖人は、時の執権・北条時宗をはじめとする幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧ら、あわせて11ヵ所に書状(十一通御書)を送り、予言の的中を明示するとともに、諸宗の僧らに公の場での法論を迫りました。
しかし、幕府も諸宗も、大聖人のはたらきかけを黙殺しました。それどころか、幕府は大聖人の教団を危険視し、その弾圧に向かっていったのです。
このごろ、蒙古の調伏(敵などを打ち破り服従させること)の祈祷を行う真言僧が影響力を増してきました。また、真言律宗の極楽寺の良観(忍性)が、幕府と結び付いて大きな力を強めていました。
大聖人は、民衆と社会に悪影響を与えるこれら諸宗に対しても、一歩も退かず破折を開始します。
文永8年(1271年)夏に大旱魃(長期間の日照り)が起こった時、良観が、祈雨(雨乞い)をすることになりました。そのことを聞かれた大聖人は、良観に申し入れをされました。
それは、もし良観が7日のうちの雨を降らせたなら、大聖人が良観の弟子となり、もし雨が降らなければ、良観が法華経に帰伏(帰順し従うこと)せよ、というものでした。
その結果は、良観の祈雨が行われた最初の7日間は雨は一滴も降らず、良観は祈祷の7日延長を申し入れて祈りましたが、それでも雨は降らないばかりか、暴風が吹くというありさまで、良観の大敗北となりました。
しかし、良観は自らの敗北を素直に認めず、大聖人に対する怨みをさらに募らせ、配下の念仏僧の名で大聖人を訴えたり、幕府要人やその夫人たちにはたらきかけて、権力による弾圧を企てました。
良観は、当時の人々から、徳のある高僧として崇められていました。しかし、実際には権力と結託して、権勢におごっていたのです。(次号へ続く)
斉藤茂吉
汗の身のわれをわすれて飯食へる
瀧春一
ちりりとろりと舌を刺す汗の記憶
柴田いさを
汗しゆく山に一基の墓あれば
上村占魚
汗ばみて余命を量りゐたらずや
石田波郷
※ 汗・汗ばむ・玉の汗
夏の汗は耐え難い。じっと動かずにいても汗がにじむ。大粒で、したたるように激しく出る汗を玉の汗といい、「汗みどろ」は全身汗びっしょりの状態。「汗にほふ」「汗ばむ」、みな暑苦しい。
【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】
※☆*わが友に贈る*☆※
事故が多発する夏。
水難や火災に注意!
車の長時間運転も
無理なく安全第一で。
強き祈りで油断を排せ!
2015年7月30日
※☆*寸 鉄*☆※
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩」御書。民衆の幸福へ!尊き使命の人生飾れ
◇
猛暑の中、会館を厳護する牙城会・王城会・宝城会に感謝!福徳は三世不滅
◇
汝自身が力をつけよ。汝自身が悔いなき信念持てー恩師。まず幹部(リーダー)が実践
◇
教員の7割、報告書作成や苦情対応に負担感と。改善急げ。子どもの為に
◇
政府機関の2割、帰宅困難者の対応未定。災害は忘れた頃に。備え懈らず
【聖教新聞:2015年(平成27年)7月30日(木)付】
※☆*北斗七星*☆※
沖縄県では37年まえのきょう、自動車が右側通行から左側通行となり、日本本土と同じになった。太平洋戦争末期の沖縄戦後、米国により右側通行に変えられていたのだ。それは本土復帰後も6年間も続いていた
◆
沖縄の戦禍を物語る出来事の一つだ。その沖縄戦では大勢の若者が犠牲となった。「戦場に動員された十三歳から十九歳までの中等学校生徒、師範学校生徒のほぼ半数が、戦場で命を奪われたことになります。これが当時のハイティーンの学生にとっての沖縄戦でした」
◆
元ひめゆり学徒隊の宮城喜久子さんが『ひめゆりの少女』でつづっていた。同書に、米軍に追い詰められ、絶壁の上で死を覚悟した少女たちの本音の叫びであった。「もう一度、弾の落ちて来ない空の下を、大手を振って歩きたい!」
◆
「青春を謳歌することもなく戦場に倒れた、ひめゆりを含む若い学徒たち」(宮城さん)。この言葉を目にしたとき、児童文学作家の石井桃子さんが『エッセイ集』に記していた次の一文を思い出した
◆
「ゆたかに物をかんじ、のび、力を貯えなくてはならない時代に、今度の戦争を経験した人たちの不幸を、私は何にもたとえることができない。失われは成長期は、もうとりもどすことができない」
◆
若者が青春を謳歌できる社会であらねばならない。 (六)
【公明新聞:2015年(平成27年)7月30日(木)付】
☆彡------☆★☆★☆*------彡☆o☆:*:.♪☆★☆*------☆彡
日蓮大聖人の仏法
【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】
--御生涯の教えーー
[1] 日蓮大聖人の御生涯
(前号より)
(4)竜の口の法難と発迹顕本
文永5年(1268年)、蒙古(「蒙古」は歴史的な呼称であり、当時のモンゴル帝国を指す)からの国書が鎌倉に到着しました。そこには、蒙古の求めに応じなければ、兵力を用いるとの意が示されていました。「立正安国論」で予言した他国侵逼難が、現実のものとなって迫ってきたのです。
そこで大聖人は、時の執権・北条時宗をはじめとする幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧ら、あわせて11ヵ所に書状(十一通御書)を送り、予言の的中を明示するとともに、諸宗の僧らに公の場での法論を迫りました。
しかし、幕府も諸宗も、大聖人のはたらきかけを黙殺しました。それどころか、幕府は大聖人の教団を危険視し、その弾圧に向かっていったのです。
このごろ、蒙古の調伏(敵などを打ち破り服従させること)の祈祷を行う真言僧が影響力を増してきました。また、真言律宗の極楽寺の良観(忍性)が、幕府と結び付いて大きな力を強めていました。
大聖人は、民衆と社会に悪影響を与えるこれら諸宗に対しても、一歩も退かず破折を開始します。
文永8年(1271年)夏に大旱魃(長期間の日照り)が起こった時、良観が、祈雨(雨乞い)をすることになりました。そのことを聞かれた大聖人は、良観に申し入れをされました。
それは、もし良観が7日のうちの雨を降らせたなら、大聖人が良観の弟子となり、もし雨が降らなければ、良観が法華経に帰伏(帰順し従うこと)せよ、というものでした。
その結果は、良観の祈雨が行われた最初の7日間は雨は一滴も降らず、良観は祈祷の7日延長を申し入れて祈りましたが、それでも雨は降らないばかりか、暴風が吹くというありさまで、良観の大敗北となりました。
しかし、良観は自らの敗北を素直に認めず、大聖人に対する怨みをさらに募らせ、配下の念仏僧の名で大聖人を訴えたり、幕府要人やその夫人たちにはたらきかけて、権力による弾圧を企てました。
良観は、当時の人々から、徳のある高僧として崇められていました。しかし、実際には権力と結託して、権勢におごっていたのです。(次号へ続く)
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