和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

汗/今日の俳句 ≪第.1849号≫

2015年07月30日 06時05分07秒 | 今日の俳句
汗かきて草鞋はきたるすがたかな
        斉藤茂吉



汗の身のわれをわすれて飯食へる
        瀧春一


ちりりとろりと舌を刺す汗の記憶
        柴田いさを


汗しゆく山に一基の墓あれば
        上村占魚


汗ばみて余命を量りゐたらずや
        石田波郷

 

※ 汗・汗ばむ・玉の汗
 夏の汗は耐え難い。じっと動かずにいても汗がにじむ。大粒で、したたるように激しく出る汗を玉の汗といい、「汗みどろ」は全身汗びっしょりの状態。「汗にほふ」「汗ばむ」、みな暑苦しい。

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】





     ※☆*わが友に贈る*☆※



  事故が多発する夏。

  水難や火災に注意!

  車の長時間運転も

  無理なく安全第一で。

  強き祈りで油断を排せ!


        2015年7月30日





     ※☆*寸 鉄*☆※


「日蓮と同意ならば地涌の菩薩」御書。民衆の幸福へ!尊き使命の人生飾れ

        ◇

猛暑の中、会館を厳護する牙城会・王城会・宝城会に感謝!福徳は三世不滅

        ◇

汝自身が力をつけよ。汝自身が悔いなき信念持てー恩師。まず幹部(リーダー)が実践

        ◇

教員の7割、報告書作成や苦情対応に負担感と。改善急げ。子どもの為に

        ◇

政府機関の2割、帰宅困難者の対応未定。災害は忘れた頃に。備え懈らず

【聖教新聞:2015年(平成27年)7月30日(木)付】






     ※☆*北斗七星*☆※


沖縄県では37年まえのきょう、自動車が右側通行から左側通行となり、日本本土と同じになった。太平洋戦争末期の沖縄戦後、米国により右側通行に変えられていたのだ。それは本土復帰後も6年間も続いていた



沖縄の戦禍を物語る出来事の一つだ。その沖縄戦では大勢の若者が犠牲となった。「戦場に動員された十三歳から十九歳までの中等学校生徒、師範学校生徒のほぼ半数が、戦場で命を奪われたことになります。これが当時のハイティーンの学生にとっての沖縄戦でした」



元ひめゆり学徒隊の宮城喜久子さんが『ひめゆりの少女』でつづっていた。同書に、米軍に追い詰められ、絶壁の上で死を覚悟した少女たちの本音の叫びであった。「もう一度、弾の落ちて来ない空の下を、大手を振って歩きたい!」



「青春を謳歌することもなく戦場に倒れた、ひめゆりを含む若い学徒たち」(宮城さん)。この言葉を目にしたとき、児童文学作家の石井桃子さんが『エッセイ集』に記していた次の一文を思い出した



「ゆたかに物をかんじ、のび、力を貯えなくてはならない時代に、今度の戦争を経験した人たちの不幸を、私は何にもたとえることができない。失われは成長期は、もうとりもどすことができない」



若者が青春を謳歌できる社会であらねばならない。    (六)


【公明新聞:2015年(平成27年)7月30日(木)付】






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     日蓮大聖人の仏法

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

    --御生涯の教えーー

[1] 日蓮大聖人の御生涯


 (前号より)

(4)竜の口の法難と発迹顕本

 文永5年(1268年)、蒙古(「蒙古」は歴史的な呼称であり、当時のモンゴル帝国を指す)からの国書が鎌倉に到着しました。そこには、蒙古の求めに応じなければ、兵力を用いるとの意が示されていました。「立正安国論」で予言した他国侵逼難が、現実のものとなって迫ってきたのです。
 そこで大聖人は、時の執権・北条時宗をはじめとする幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧ら、あわせて11ヵ所に書状(十一通御書)を送り、予言の的中を明示するとともに、諸宗の僧らに公の場での法論を迫りました。
 しかし、幕府も諸宗も、大聖人のはたらきかけを黙殺しました。それどころか、幕府は大聖人の教団を危険視し、その弾圧に向かっていったのです。
 このごろ、蒙古の調伏(敵などを打ち破り服従させること)の祈祷を行う真言僧が影響力を増してきました。また、真言律宗の極楽寺の良観(忍性)が、幕府と結び付いて大きな力を強めていました。
 大聖人は、民衆と社会に悪影響を与えるこれら諸宗に対しても、一歩も退かず破折を開始します。
 文永8年(1271年)夏に大旱魃(長期間の日照り)が起こった時、良観が、祈雨(雨乞い)をすることになりました。そのことを聞かれた大聖人は、良観に申し入れをされました。
 それは、もし良観が7日のうちの雨を降らせたなら、大聖人が良観の弟子となり、もし雨が降らなければ、良観が法華経に帰伏(帰順し従うこと)せよ、というものでした。
 その結果は、良観の祈雨が行われた最初の7日間は雨は一滴も降らず、良観は祈祷の7日延長を申し入れて祈りましたが、それでも雨は降らないばかりか、暴風が吹くというありさまで、良観の大敗北となりました。
 しかし、良観は自らの敗北を素直に認めず、大聖人に対する怨みをさらに募らせ、配下の念仏僧の名で大聖人を訴えたり、幕府要人やその夫人たちにはたらきかけて、権力による弾圧を企てました。
 良観は、当時の人々から、徳のある高僧として崇められていました。しかし、実際には権力と結託して、権勢におごっていたのです。(次号へ続く)

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