湖(うみ)を見て端居ごころを尽くしけり
西本一都
端居してかなしきことを妻は言ふ
村山古郷
父とわれありしごとくに子と端居
大橋櫻坡子
置物の如くに置かれ夕端居
村越化石
行く雲や家族集まり端居して
中山純子
※ 端居・夕端居
室内の暑さを避けて、縁先や風通しの良い端近に座を占め、庭の木々や草花などを眺め涼をとることをいう。
【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】
※☆*わが友に贈る*☆※
朗々たる勤行・唱題で
きょう一日を出発だ!
豊かな生命力と
智慧を湧かしながら
リズム正しい生活を!
2015年7月29日
※☆*寸 鉄*☆※
会長(SGI)は対話で人間精神を開き高めるー首相(イタリア)。心耕す友との語らいを我らも
◇
夏季フリー研修がたけなわ。学会魂を心肝に染める好機(チャンス)。躍進の英気養い
◇
強盛な信心の“一人”の力で広布は伸展ー恩師。本気の決意は周囲へ波動
◇
「法華を識る者は世法を得可きか」。現実の中で勝て。智慧と行動の賢者と
◇
子どもの誤飲事故が多発と。医薬品、ボタン電池等は放置せず、厳重管理を
※☆*名字の言*☆※
はがきの裏面いっぱいに、色鮮やかなアジサイが描かれている。隙間を埋めるように「会うたびに、いつも元気をもらっています」との文字ーー
▼
この絵手紙を受け取ったのは、車いす生活の壮年。大病の後遺症のため、左半身は動かない。それでも、家族や周囲の献身的な支えを得て活動し、学会の座談会でも地域のケアセンターでも、彼の周りには笑顔が絶えない
▼
絵手紙を作って送ったのは、壮年の後輩だった。車いす生活になった先輩を昨年、訪ねて驚いた。「先輩は、きっと落ち込んでいるだろうと思ったんです。それが、ものすごく元気で……かえって自分のほうが励まされました」
▼
後輩も2年半前、病を患った。がんの診断だった。1人暮らしで、身近に相談相手がおらず、不安で胸が押しつぶされそうになる時もあった。乗り越えることができたのは、同志の励ましだった。先輩の姿に奮起し、今年の年頭、決意を歌に託した。「病に打ち勝つ/弱い心に/負けまいと/祈りを深め/唱題す」
▼
負けないでほしい、幸せになってほしいーーそんな思いのこもった言葉は、どんな薬よりも、人に生きる力を与える場合がある。創価の友に息づく励ましの“連鎖”の素晴らしさを、2人の壮年の振る舞いから、あらためて知った。 (側)
【聖教新聞:2015年(平成27年)7月29日(水)付】
☆彡------☆★☆★☆*------彡☆o☆:*:.♪☆★☆*------☆彡
日蓮大聖人の仏法
【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】
--御生涯の教えーー
[1] 日蓮大聖人の御生涯
(前号より)
(3)「立正安国論」の提出と法難
しかし、幕府要人は大聖人の至誠の諫暁を無視し、念仏者たちは幕府要人の内々の承認のもと、大聖人への迫害を図ってきたのです。
「立正安国論」の提出後まもない、ある夜、念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと、草庵を襲いました(松葉ヶ谷の法難)。
幸い、この時は大聖人は難を逃れ、一時、鎌倉を離れることになりました。
翌、弘長元年(1261年)5月12日、幕府は鎌倉に戻られた大聖人を捕らえ、伊豆の伊東への流罪に処しました。(伊豆流罪)。
弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許されること)。されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれます。
文永元年(1264年)11月11日、大聖人の一行は、天津の門下の工藤邸へ向かう途中、東条の松原で地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時、大聖人は額に傷を負い、左の手を骨折。門下の中には死者も出ました(小松原の法難)。
(次号へ続く)
西本一都
端居してかなしきことを妻は言ふ
村山古郷
父とわれありしごとくに子と端居
大橋櫻坡子
置物の如くに置かれ夕端居
村越化石
行く雲や家族集まり端居して
中山純子
※ 端居・夕端居
室内の暑さを避けて、縁先や風通しの良い端近に座を占め、庭の木々や草花などを眺め涼をとることをいう。
【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】
※☆*わが友に贈る*☆※
朗々たる勤行・唱題で
きょう一日を出発だ!
豊かな生命力と
智慧を湧かしながら
リズム正しい生活を!
2015年7月29日
※☆*寸 鉄*☆※
会長(SGI)は対話で人間精神を開き高めるー首相(イタリア)。心耕す友との語らいを我らも
◇
夏季フリー研修がたけなわ。学会魂を心肝に染める好機(チャンス)。躍進の英気養い
◇
強盛な信心の“一人”の力で広布は伸展ー恩師。本気の決意は周囲へ波動
◇
「法華を識る者は世法を得可きか」。現実の中で勝て。智慧と行動の賢者と
◇
子どもの誤飲事故が多発と。医薬品、ボタン電池等は放置せず、厳重管理を
※☆*名字の言*☆※
はがきの裏面いっぱいに、色鮮やかなアジサイが描かれている。隙間を埋めるように「会うたびに、いつも元気をもらっています」との文字ーー
▼
この絵手紙を受け取ったのは、車いす生活の壮年。大病の後遺症のため、左半身は動かない。それでも、家族や周囲の献身的な支えを得て活動し、学会の座談会でも地域のケアセンターでも、彼の周りには笑顔が絶えない
▼
絵手紙を作って送ったのは、壮年の後輩だった。車いす生活になった先輩を昨年、訪ねて驚いた。「先輩は、きっと落ち込んでいるだろうと思ったんです。それが、ものすごく元気で……かえって自分のほうが励まされました」
▼
後輩も2年半前、病を患った。がんの診断だった。1人暮らしで、身近に相談相手がおらず、不安で胸が押しつぶされそうになる時もあった。乗り越えることができたのは、同志の励ましだった。先輩の姿に奮起し、今年の年頭、決意を歌に託した。「病に打ち勝つ/弱い心に/負けまいと/祈りを深め/唱題す」
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負けないでほしい、幸せになってほしいーーそんな思いのこもった言葉は、どんな薬よりも、人に生きる力を与える場合がある。創価の友に息づく励ましの“連鎖”の素晴らしさを、2人の壮年の振る舞いから、あらためて知った。 (側)
【聖教新聞:2015年(平成27年)7月29日(水)付】
☆彡------☆★☆★☆*------彡☆o☆:*:.♪☆★☆*------☆彡
日蓮大聖人の仏法
【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】
--御生涯の教えーー
[1] 日蓮大聖人の御生涯
(前号より)
(3)「立正安国論」の提出と法難
しかし、幕府要人は大聖人の至誠の諫暁を無視し、念仏者たちは幕府要人の内々の承認のもと、大聖人への迫害を図ってきたのです。
「立正安国論」の提出後まもない、ある夜、念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと、草庵を襲いました(松葉ヶ谷の法難)。
幸い、この時は大聖人は難を逃れ、一時、鎌倉を離れることになりました。
翌、弘長元年(1261年)5月12日、幕府は鎌倉に戻られた大聖人を捕らえ、伊豆の伊東への流罪に処しました。(伊豆流罪)。
弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許されること)。されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれます。
文永元年(1264年)11月11日、大聖人の一行は、天津の門下の工藤邸へ向かう途中、東条の松原で地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時、大聖人は額に傷を負い、左の手を骨折。門下の中には死者も出ました(小松原の法難)。
(次号へ続く)
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