和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

端居/今日の俳句 ≪第.1848号≫

2015年07月29日 06時29分05秒 | 今日の俳句
湖(うみ)を見て端居ごころを尽くしけり
        西本一都


端居してかなしきことを妻は言ふ
        村山古郷


父とわれありしごとくに子と端居
        大橋櫻坡子


置物の如くに置かれ夕端居
        村越化石


行く雲や家族集まり端居して
        中山純子

 

※ 端居・夕端居
 室内の暑さを避けて、縁先や風通しの良い端近に座を占め、庭の木々や草花などを眺め涼をとることをいう。

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】





     ※☆*わが友に贈る*☆※



  朗々たる勤行・唱題で

  きょう一日を出発だ!

  豊かな生命力と

  智慧を湧かしながら

  リズム正しい生活を!


        2015年7月29日





     ※☆*寸 鉄*☆※


会長(SGI)は対話で人間精神を開き高めるー首相(イタリア)。心耕す友との語らいを我らも

        ◇

夏季フリー研修がたけなわ。学会魂を心肝に染める好機(チャンス)。躍進の英気養い

        ◇

強盛な信心の“一人”の力で広布は伸展ー恩師。本気の決意は周囲へ波動

        ◇

「法華を識る者は世法を得可きか」。現実の中で勝て。智慧と行動の賢者と

        ◇

子どもの誤飲事故が多発と。医薬品、ボタン電池等は放置せず、厳重管理を







     ※☆*名字の言*☆※


はがきの裏面いっぱいに、色鮮やかなアジサイが描かれている。隙間を埋めるように「会うたびに、いつも元気をもらっています」との文字ーー



この絵手紙を受け取ったのは、車いす生活の壮年。大病の後遺症のため、左半身は動かない。それでも、家族や周囲の献身的な支えを得て活動し、学会の座談会でも地域のケアセンターでも、彼の周りには笑顔が絶えない



絵手紙を作って送ったのは、壮年の後輩だった。車いす生活になった先輩を昨年、訪ねて驚いた。「先輩は、きっと落ち込んでいるだろうと思ったんです。それが、ものすごく元気で……かえって自分のほうが励まされました」



後輩も2年半前、病を患った。がんの診断だった。1人暮らしで、身近に相談相手がおらず、不安で胸が押しつぶされそうになる時もあった。乗り越えることができたのは、同志の励ましだった。先輩の姿に奮起し、今年の年頭、決意を歌に託した。「病に打ち勝つ/弱い心に/負けまいと/祈りを深め/唱題す」



負けないでほしい、幸せになってほしいーーそんな思いのこもった言葉は、どんな薬よりも、人に生きる力を与える場合がある。創価の友に息づく励ましの“連鎖”の素晴らしさを、2人の壮年の振る舞いから、あらためて知った。     (側)


【聖教新聞:2015年(平成27年)7月29日(水)付】





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     日蓮大聖人の仏法

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

    --御生涯の教えーー

[1] 日蓮大聖人の御生涯

(前号より)

(3)「立正安国論」の提出と法難

 しかし、幕府要人は大聖人の至誠の諫暁を無視し、念仏者たちは幕府要人の内々の承認のもと、大聖人への迫害を図ってきたのです。
 「立正安国論」の提出後まもない、ある夜、念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと、草庵を襲いました(松葉ヶ谷の法難)。
 幸い、この時は大聖人は難を逃れ、一時、鎌倉を離れることになりました。
 翌、弘長元年(1261年)5月12日、幕府は鎌倉に戻られた大聖人を捕らえ、伊豆の伊東への流罪に処しました。(伊豆流罪)。
 弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許されること)。されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれます。
 文永元年(1264年)11月11日、大聖人の一行は、天津の門下の工藤邸へ向かう途中、東条の松原で地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時、大聖人は額に傷を負い、左の手を骨折。門下の中には死者も出ました(小松原の法難)。

(次号へ続く)

7月28日(火)のつぶやき

2015年07月29日 01時45分13秒 | 今日の俳句