和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

勝利島6/小説「新・人間革命」

2015年07月27日 15時45分28秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 7月27日(月)より転載】

【勝利島6】

 雲の切れ間に太陽が輝いた。
 東京・信濃町の学会本部に、人びとが喜々として集って来た。たくましく日焼けし、精悍さが漂う男性も多い。
 ほとんどの人が、学会本部を訪れるのは初めてであった。門の前で、陽光を浴びた創価文化会館の大理石の壁を見上げ、微笑みを浮かべる。こぼれる白い歯が、まばゆい。
 一九七八年(昭和五十三年)十月七日午後六時から、第一回となる離島本部(後の離島部)の総会が、学会本部の創価文化会館内にある広宣会館で開催されるのである。
 北は北海道から、南は沖縄まで、約百二十の島の代表が集っての、待ちに待った離島本部の総会である。
 一番乗りは、瀬戸内海の直島のメンバー二十二人であった。前夜に出発し、フェリーと寝台特急列車に乗り、朝、東京に到着。本部周辺を見学するなどして開会を待った。
 北海道の礼文島から参加した二人は、六日の昼前に島を発ち、船で二時間半、稚内に出た。初雪が舞っていた。ここで利尻島の三人のメンバーと合流し、午後九時発の急行に乗り、札幌に着いたのは、七日の午前六時であった。そして、飛行機で東京へ向かい、正午に信濃町に到着したのである。
 日本最西端の島・沖縄県の与那国島からも婦人が一人参加していた。島から台湾への距離は百十一キロだが、沖縄の那覇までは五百十四キロ。晴天だと台湾の山々が見える。十月も日々、最高気温は二五度以上の夏日である。
 与那国島から東京に向かうには、まず船で六時間かけ、石垣島へ出る。船便は四日に一回。海が荒れれば、その船が欠航する。そして、石垣島から飛行機で一時間十五分ほどかけて那覇へ。そこから飛行機で東京へ行くというのが最も早い方法である。
 各島々の同志は、はるばると海を渡り、求道の心を燃やして、意気軒昂に学会本部へと集って来たのだ。
 大聖人は「道のとを(遠)きに心ざしのあらわるるにや」(御書一二二三ページ)と仰せである。

                         
                                    

裸/今日の俳句 ≪第.1846号≫

2015年07月27日 06時11分59秒 | 今日の俳句


ひえびえと海女の裸に裸の影       飯田龍太


裸子をひつさげ歩く温泉の廊下      高浜虚子


裸子の反り身に陰の無かりけり      北村 保


裸子や涙の顔をあげて這ふ        野見山朱鳥


はだかにて書く一行の黒くなる      小川双々子




※ 裸・素裸・丸裸・裸子
 夏は裸になってくつろぐことが多いことから夏の季とする。炎天下で働く労働者も上半身裸が多い。冷房装置が発達したとはいえ、やはり裸で嬉々として戯れる子供たちの姿こそ夏にふさわしい光景。

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】





     ※☆*今週のことば*☆※



「信頼の絆」こそ

  人生の宝なり。

  懐かしい友とも

  新しい友人とも

  さわやかに仏縁を!


        2015年7月27日





     ※☆*寸 鉄*☆※


全国でファミリー大会が賑やかに。人材を育てる人こそ人材。共に大成長

        ◇

「中部の日」万歳!「この道」貫き凱歌の日々を。広布の堅塁城に諸天舞え

        ◇

青年は何かで第一人者になる執念を持てー恩師。使命の分野のリーダーと

        ◇

「かまへて・かまへて御用心候べし」。大充実の夏は油断を排す祈りから

        ◇

地球と類似の惑星に生命存在の可能性。星空のロマン。心の宇宙も無限大







     ※☆*名字の言*☆※


徳川が豊臣を滅ぼした「大坂夏の陣」から今年で400年。この合戦は来年、NHK大河ドラマ「真田丸」でも描かれる



豊臣方には、勇戦の名将・真田信繁(幸村)らとは対照的に、何かと理由を挙げ、積極的な作戦を嫌う古参幹部が多かったようだ。司馬遼太郎み小説『風神の門』で、無名の一兵士に語らせた



「すこし怪我をすればあわてて退き鉦をたたくようでは、大将とはいえぬわ」「乱軍のなかにいると、味方が勝っているのやら、負けているのやらわからぬ。そのとき大将たる者が、味方の勝ちぞ掛けれ掛けれ、と声すさまじく喚いてくれれば百倍も元気が出て押してゆく」



約500世帯だった札幌の友が、10日で388世帯という圧倒的な弘教を遂げて、今夏で60年、「札幌・夏の陣」と語り継がれる戦いは、指揮を執った池田名誉会長の「戦いは、勝ったよ!」の第一声から始まった。勇気百倍の同志と共に“日本一”を勝ち取り、翌年の「大阪の戦い」に続く広布躍進の突破口を開いた



勝負はつまるところ、将の一念で決まる。”勝ちたい”という「願望」の域を超え、“勝った”とまで言い切れるほどの、深き祈りと密接な準備と行動に裏打ちされた「確信」。それが、同志の心を動かし、不可能を可能にする。     (鉄)



【聖教新聞:2015年(平成27年)7月27日(月)付】





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     日蓮大聖人の仏法

    --御生涯の教えーー

[1] 日蓮大聖人の御生涯

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

(2)立宗宣言

 遊学によって妙法弘通の使命とその方途を確認された大聖人は、大難が起こることを覚悟のうえで、妙法弘通の実践に踏み出されました。
 建長5年(1253年)4月28日の「午の時(正午ごろ)」、清澄寺で、念仏などを破折するとともに、南無妙法蓮華経の題目を高らかに唱えて末法の民衆を救済する唯一の正法を宣言されました。これが「立宗宣言」です。
 立宗とは宗旨(肝要の教義)を立てることです。32歳の時でした。このころ、みずから「日蓮」と名乗られました。
 この立宗宣言の際に念仏宗の教義を厳しく批判した大聖人に対し、地頭(警察権や税の徴収権などを行使した幕府の役人)の東条景信は、念仏の強信者であったために激しく憤りました。
 そのため、大聖人に危害を加えようとしましたが、大聖人はかろうじて、その難を免れました。
 その後、大聖人は、当時の政治の中心であった鎌倉に出られました。名越あたり(松葉ヶ谷と伝承)に草庵を構えて、本格的に弘教を開始されました。当時、鎌倉の人々に悪影響を与えていた念仏宗や禅宗の誤りを破折しながら、南無妙法蓮華経の題目を唱え、広められました。
 この弘教の初期に、富木常忍・四条金吾(頼基)・池上宗仲らが入信しました。