和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

今回の河川氾濫、シミュレーション済みだったのに民主に事業仕分けされていたことが判明!!

2015年09月13日 08時18分40秒 | 今日の俳句
今回の河川氾濫、シミュレーション済みだったのに民主に事業仕分けされていたことが判明!!

鶏頭/今日の俳句 ≪第1894号≫

2015年09月13日 07時36分59秒 | 今日の俳句


  鶏頭に日はさしながら雨の降る
       臼田亞浪


  鶏頭を三尺離れもの思ふ
       細見綾子


  身のなかに種ある憂さや鶏頭花
       中村苑子


  鶏頭をたえずひかりの通り過ぐ
       森澄雄


  燈台に咲き鶏頭の花低し
       二階堂支草




※ 鶏頭
 古く日本に輸入され、ひろく庭園に栽培されているヒユ科の一年草。原産地はアジアの熱帯地方だろうといわれる。
 茎は直立して高さ九〇センチ(約3尺)ぐらい。葉は長い柄があって互生、卵形あるいは卵状披針形で、先がとがっておいる。秋に鶏のとさかのような花序を出して赤・紅・黄・白などの美しい小花を密に開く。日本名鶏頭は、花が雄鳥のとさかに似ているからである。園芸品種がすこぶる多く、チャボ鶏頭・ヤリ鶏頭・サキワケ鶏頭・ミダレ鶏頭その他がある。
 九州・四国・中国地方西部に野生の多い野鶏頭は、園芸品種の祖先と考えられ、鶏頭とはちがって短大な穂状花序を生じ、花序は淡紅色または白色で、先端は紅色を呈し、すこぶる美しい。鶏頭・野鶏頭の若い葉は、ゆでて食用とすることができる。

【新訂「現代俳句歳時記/石田波郷・志摩芳次郎編」主婦と生活社より抜粋】





     ※わが友に贈る※


 座談会の勢いは
 事前の準備で決まる。
 率先の訪問・激励を!
 新来の友も交えて
 価値創造の集いに!

   2015年9月13日



     ※☆*寸 鉄*☆※


「未来部の日」。朗らかに大樹の如く育ちゆけ!君の勝利を師が祈り待つ
        ◇
東京「府中の日」。共戦の勇者の闘志は満々。広布拡大の新時代へ先陣切れ
        ◇
「此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」。大聖人の魂は創価に脈動
        ◇
学会の強さは、地区から盛り上がる民衆の力だー恩師。金剛の団結で出発
        ◇
無冠の友の皆様、雨の日も風の日も配達有難う!健康と絶対無事故を祈念




     ※名字の言※


21日の「敬老の日」を前に、険k法・長寿を祝うイベントが各地で開催されている。世界で最も速く高齢化が進む日本にあって、高齢者の元気な姿は長寿社会の希望と光る

先日、合唱団で活躍する福岡の壮年部員に電話で取材した。すると「ちょっと歌ってもよかですか?」。受話器から聞こえてきたのは、学会歌「誓いの青年(きみ)よ」だった。張りのある声で歌詞の1番を歌い上げ「元気でしょ?きょうも15歳若く見られたけんね!」

壮年は74歳。3年前に妻を亡くし苦労を重ねるなかで一昨年に入会した。持ち前の明るさと豊富な人生経験をもとに、周囲を元気づけている。「人に喜んでもらえるのが、一番うれしか」と、これまでの苦労が生きる実感を話してくれた

自身の経験が誰かに必要とされ、前進の力へと変わる。そこには、何物にも捨て難い充実感がある。「妙法は活の法門である。全ての体験を活かしていけるのだ。何ひとつ、塵も残さず、無駄なことはない。これが信心の大功徳です」と戸田第2代会長は述べている

自らの体験を通し、友を励ます。それは、今までの人生で乗り越えてきた労苦が、黄金の価値を放つ瞬間に違いない。互いの人生の意味を最大に輝かせゆくのが、創価の“励まし合いの世界”である。(険)


【聖教新聞:2015年9月13日(日)付】




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      教 学 入 門
     世界宗教の仏法を学ぶ

【「(教学入門/創価学会教学部編)聖教新聞社刊」より抜粋】

     第1部 日蓮大聖人の仏法(1)

     第2章  生命論


 (7)声聞界
 (8)縁覚界

 私たちも日々の生活の中で、自分自身を含めて万物が無常の存在であることを強く感ずることがあります。
 ゆえに大聖人は「世間の無常は眼前に有り。あに、人界に二乗界無からんや」(241頁)と言われ、人界に二乗界が具わっているとされたのです。
 二乗の境涯を目指す人々は、無常のものに執着する煩悩こそ苦しみの原因であるとして、煩悩を滅しようとしました。しかし、そのために自分自身の心身のすべてを消滅させるという誤った道(灰身滅智といわれる)に入ってしまいます。
 二乗が得た覚りは、仏の覚りから見れば、あくまでも部分的なものであり、安全なものではありません。しかし、二乗はその低い覚りに安住し、仏の真実の覚りを求めようとしません。師匠である仏の境涯の偉大さは認めていても、自分たちはそこまで到達できるとはかんがえず。自らの低い覚りにとどまってしまうのです。
 また、二乗は自らの覚りのみにとらわれ、他人を救おうとしないエゴイズムに陥っています。このように「自分中心」の心があるところに二乗の限界があります。

    
   

9月12日(土)のつぶやき

2015年09月13日 01時47分37秒 | 今日の俳句