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工房八重の部屋

京都の紹介、日々の出来事や思いを綴ってます

山科図書館の講座山科を知ろう!孫が語る「大石順教尼の生涯」

2014年01月11日 | Weblog
大石順教は、明治二十一年に大阪の道頓堀に生まれ、

15歳の時、大阪堀江で芸妓への道を目指し、芸名は妻吉で「山梅楼」の中川万次郎という人の養女となります。

明治三十八年(1905)六月二十一日、養父の万次郎は、妻が男と駆け落ちした事から酒に溺れて狂乱し、殺傷事件

(逃げた妻の母親、弟、妹の他、養女にしていた二人の芸妓も巻き添えにして、五人を惨殺した事件)を起しました。

この時、17歳の妻吉(大石順教)も巻き添えを受け、両腕を切断され、顔に切り傷を受けました。

「堀江六人切り事件」として日本中を震撼させたこの恐ろしい惨劇により、ただ一人一命だけは取り留めましたが、

彼女の人生は一変しました。

その後、大石よね(大石順教)は、身障者である自身の姿を見世物として、寄席や地方巡業で生計を立て両親を養う日々でしたが、

鳥篭の中のカナリヤを見て心を打たれます。鳥は手が無くても、一所懸命生きていることに気付いたのです。

よね(大石順教)は一大決心をし、筆を口にくわえて苦しい練習を行い書画に優れた才能を発揮するまでになります。

また学問を学び、明治四十五年(1912)には日本画家の山口草平と結婚し一男一女の母となり、その後夫とは離婚に至りますが、

昭和に入ると、「堀江事件」の犠牲者等の冥福を祈るために仏道生活に入り、同じ身体障害者婦女子の収容と教育を始めました。

昭和八年(1933)、出家・得度し名を「順教」と改め、昭和十一年(1936)、勧修寺境内に身体障害者福祉相談所を開設、

昭和二十六年(1951)に仏光院を建立しました。

口を使って描く書画では昭和三十年(1955)日展に入選しました。

身体障害者の心の母、慈母観音と慕われた大石順教尼は、昭和四十三年(1968)四月、81歳で亡くなりました。

孫の大石 晶教さんは祖母の順教尼と20年近く暮らし、しつけは厳しいものの、明るく前向きに生きる祖母の姿を

語ってくださいました。

年齢を重ねるごとに尼の偉大さを見直し、偉業を伝えていく活動をされるようになったということです。

大石順教尼さんの生涯は有名ですが、身近な孫の方から話を伺うと、困難にも負けず、前むきに生涯をおくった大石順教尼さんの

素晴らしさが実感として理解できました。


山科図書館館長の挨拶




口に筆をくわえて書を書く順教尼


大石順教尼さんの作品