
高浜虚子の言葉に「選は創作である」というのがあります。
選句は作句と同じような精神の統一がなければならないと思う。
最近、IT句会の隆盛で心象句が多くなったような気がしています。
けして心象がいけないわけではなく、写生句を詠むよりは賛同を得やすい
とは思います。ただ心象は真実の写生眼が本当は必要なのです。
選句は句作のとき、心にひびいたひらめきを最も大切にするように
その作品がが自分に伝えるひらめきを大切にするべきだと思います。
句会など、時間的制約での選句はあくまでも直感的になされるべきでしょう。
選句の上達こそ句作の上達であると私は確信しています。
ある程度の経験をつめば句会などの講評でだいたいの俳句の力は想像できます。
その選句力をつけるには、やはり句集を多く読んで、できれば自解句集や
鑑賞文などのついた句集であれば、自分の鑑賞力を養えると考えます。
そして句会などでは、素直な感受から選句をし、あとは謙虚に自分の選句に
反省してゆく事も大切で、自分の選句に固執したり、へ理屈をつけて強弁する
ようでは進歩はないと思っています。

白鳥の一尋に抱く夕陽かな

ある句会で感じたこと、やはり俳人は自己主張が強い。それは自分を含めてだが、
作品こそが主張であるべきで、もし句会で選句に載らなかったらそれは自己の
主張(作句力)が足らないと素直に反省すべきなのだろう。

冬菊のまとふはおのがひかりのみ 水原秋桜子