目と耳

2005-12-12 23:10:51 | Weblog
         岩牡蠣

 最近特に気になっていることが有ります。
 IT句会については昨日も少し触れたのですが、弊害とまでは言いませんが・・
 
 なぜ座の句会が大切なのか?私なりに考え(大いに龍太の書物に影響されているが)
 が有ります。それは披講というものがIT句会に無いからです。
 日本語の美しさは、文字そのもの(目から入るもの)と音(耳から入るもの)との
 両方があると思います。

 梅林の誰にともなき薄暮なり   篠原美津子
 
 誰もいぬ土間に葱おく雪解光   誠子

 「誰」という文字は一緒でもこの「誰」は竹林と竹薮ほどの相違があると龍太は
 言っています。竹林は青い幹の鮮やかさを思わせ、竹薮は繁った全体の姿であり、
 ほのかなそよぎを感じる。同じように「だれ」は硬い感じの限定の強い響きがあり
 「たれ」はふわっとした柔らかさがある。
 前句は「たれ」後句は「だれ」と読んだ方がその句は生かされると思う。
 それは披講というもので一層その力を発揮します。

 また逆に文字になっていかされるものも有ります。

 頬白が鳴いてはげます善き方へ  榎本虎山

 この「善き方」は耳では「良き方」と同じ「よきかた」です。
 しかし意味においては歴然です。「善き方」には作者の意図する心象が広がって
 います。本当の心象はこのように隠れているものです。

 折角美しい日本の言葉を使って十七音の詩世界を楽しむのなら、そこまで自分を
 高める努力をしていきたいと思っています。


        ころころの今日の俳句


       野仏のこうべ撫でいるすすきかな


        ころころの独り言

 句会において私だけの特選を見つけることを楽しんでいます。
 その一つの目安として韻も大切に考えている。


        ころころのお気に入り


        冬ぐさの露が連れ去るみどりかな  大沼行々子
 
 
コメント (2)
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