浮世離れと言うか・・・

2006-04-23 22:30:05 | Weblog
  群れ雀(赤塚植物園)

 25日は兄の命日、今日は姉と連れ立って墓苑へ、連日の黄砂で多くの墓石が
 無縁墓のような有体・・「墓洗う」(初秋)になった。

 帰路、姉の店のお客様で書家の作品展へ新松戸へ、今年古希の書家で矍鑠として
 お話をされ、しかもその作品一つ一つに心を掴まれる。
 そして何より感動したのは表装。奥様の羽織、着物が軸の表装となっている。
 紺地に胡蝶の織り。ご夫婦一体の作品となっている。
 ここからは姉との会話

 私  「どうしたらあんな字が書けるんだろう?、」
 姉  「古希という年齢のゆとりかなぁ・・きっと良い老後を過ごされているんだよ
    ご夫婦で・・貴方も浮世から離れたらきっといい俳句が作れると思うよ」

 こと俳句に関しては年齢で欲が薄れるとは思えない。
 俳句を自分の人生の何処に置くかによって違うけど、最近の俳句は自己の主張的に
 「私がここに居ます!」みたいなところがある。
 その辺が「歌」との違いだろうなぁ・・・
 詩の姿の美しさを忘れないために、多くの絵や書や音楽を体感して心から詠える
 ようにしていきたい。借り物の俳句でない自分の俳句を詠みたい。
 感動のない俳句はいけない。写生の場合でも感動しないものを詠んでいる自分が
 情けない。一見句をまとめるのは俳歴があれば容易で、IT句会などでトップに
 なる句はやはり人事句、何故ならば写生句より既視感があり季語に時間差がない。
 花鳥諷詠には季語の理解が何より必要で、それが一番むずかしい。
 
 一生浮世離れができないのが俳句かもしれない。
 
    
 
 
   
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兄の三回忌

2006-04-18 22:14:49 | Weblog
    くさのお(草の黄)

 兄、周一俳号 野仏 兄が逝ってから早3年、久しぶりに兄の俳句を読んでいる。
 3歳違いの兄はことのほか寺や仏像に興味を示し、旅行といえば奈良、京都
 少し頭は固いが真っ正直な人格だった。鈴鹿野風呂を敬愛していた。

   
    霊峰に雲近くして初櫻

    結界の蝶に追われて古刹出づ

    山吹の昏れを束ねる仁王門

    春雷の野に残されし石佛

    花冷や和紙よりほどく京の菓子

    たをやかに古墳をつつむ朧かな    野仏 

 
 彼が生きていてくれたら、今の私を羨むだろう。

 彼が生きていてくれたら、もう少し私に刺激を与えてくれただろう。

 彼が生きていてくれたら、ただただ私は感謝するだろう。


 

 
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今日の散歩コース

2006-04-16 21:54:17 | Weblog
     踊り子草(赤塚植物園)

 昨日は初めて参加の句会、皆ベテラン揃いだった。ある意味楽であり、こちらの
 素性が分からないので皆優しく接していただいた。
 当季持ちよりの句2句、席題題詠2句 結果はそこそこ。
 
 今朝の起床は6時、可笑しなもので平日も日,祭日もほとんど同じ時間に起きて
 しまう。深酒をしても、夜更かしをしても同じ。これは加齢の証拠・・かも。

 朝から寒かった。予報では雨となっていたが薄日が差している。
 9時に家を出ていつものように植物園の散歩コースへ、時たま雨粒が落ちて
 くるものの傘を差すほどでもない。
 この時期は一週間のうちに咲き出す草花が多いのに驚く。
 一人静、かたくりは終わっている。
 二輪草、山吹草、いかり草は盛り、リュウキンカ、くさのお(草の黄)、むれすずめ
 踊り子草が咲き出している。少し雨が強くなってきたので待避のつもりで,隣接の
 美術館へ入る。板橋区立であり無料で入れるのがうれしい。
 今は区に関連のある狩野派の屏風絵,掛軸、が展示されている。
 探幽の風神雷神の屏風の大作、周信の観音様と蛤の絵は見事なものだった。
 蜃気楼の蜃に通じるものらしい。蛤の吐く息に観音様がかげろっている。
 小さな軸だが神秘的な色使いに惹かれた。狩野派は将軍家の奥絵師でもあり
 金箔を貼った屏風絵が多い中、素朴な感じのする作品である。
 
 いつもと違った散歩のコースも春の雨のおかげで、趣の違った良い一日が
 過ごせました。
 今日はキリストの復活日(イースター)、クリスチャンではないが、今日を
 どういうふうに過ごすか、イースターを意識して過ごせたことも良い日だった。


  
 

 

 
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高山夕美句集 「仮面」より

2006-04-14 23:06:36 | Weblog
      著莪の花

 先日来より始めた現俳の入力ボランティア,自分の蔵書の中から抜粋で毎回
 20句づつ入力しています。本棚に熟睡していた句集を揺り起こして懐かしい
 思い出とも対面しつつ・・折角選り出した句をこのブログをご覧のお仲間にも
 少しづつころころの自選でご紹介いたします。

    怠惰とも親しくなりて琵琶を食ふ
  
    寒き夜の心のぞかす壁鏡

    ゆゑもなく不安湧く日よ菫買ふ

    会ふ約の重さよ赤き手袋す

    愛されし記憶の遠き雪降りつむ

    法師蝉朝は心に人住まず

    「鷹」高山夕美 昭和43年 添書 藤田湘子
    
    ころころの最も苦手とする人事句をこともなげに、高山夕美の20代の頃の
    句集です。本当はこんな風に詠みたかった時期も有りましたが人事句、
    心象句は日記帳を公開するようなもの、私には出来ません。
    恐くって・・・・

        陶狸かげろふネオン見つめけり    ころころ



  

  
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花散らす雨

2006-04-12 00:05:48 | Weblog
      はなにら

 
 東京の桜は今夜の雨にほとんどと言っていいほど散ってしまうだろう。
 仕事場からの帰り道を少しずれて桜並木を歩いてみる。
 花筵も花屑としか見えない。
 もっとも俳句をしているから,花筵や花筏などという言葉を知って楽しんでは
 いるものの日常の人にとっては,花びらが地面に着いたらもう屑でしかない。

 
 目に障害が出るとこんな花散らす雨の明るさが丁度いい。


       

     傘にある雨の明るさ花の屑   ころころ
 

     

    
         

 
 
 
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浮御堂

2006-04-10 16:59:15 | Weblog
     堅田浮御堂(近江八景)

 大津市本堅田町にある臨済宗の寺、満月寺の別名。山号、海門山。
 琵琶湖上に浮かぶように立つ。長徳年間(995-999)、源信の開基。千体仏堂

 やはり先日の乗連寺の句は添書き付きでの浮御堂とするほうがいいのだろう。

 
    さみだれのあまだればかり浮御堂   阿波野青畝

    鎖あけて月さし入れよ浮御堂     松尾芭蕉

    短日の水のひかりや浮御堂      久保田万太郎

    
 なんと美しい俳句なのだろう。このような俳句に出会うと俳句は詠むものでなく
 鑑賞するものなのか?などと臆病になる。
 
 句会が終わると脱力感がある。その脱力感は自分の詠んだ句を客観視させる時間だ。
 
 



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句会の成果

2006-04-09 12:15:39 | Weblog
     植物園の竹林の筍

 
 昨日8日はGの吟行句会。先日のブログでお話した下準備句は2句でした。
 しかし投句に活用できたのは一句、なんと昨日は花祭りで乗蓮寺の本堂前では
 花御堂がおかれお釈迦様に甘茶をかけ、その脇で甘茶を頂いた。
 俳句作家としては,句会のための作句だけではなく、今後の取材意識が大きく
 動く事になり挨拶句を詠まねばならない使命を感じたのでした。

     香煙の中の光や花まつり

     大仏を借景として潅仏会

 推敲の余地はかなりあるとは思う。


 では下準備の句はというと

     金色の春光あつめ浮御堂   になりました。

 披講でもこの浮御堂については異論,疑問が有りました、浮御堂はもう固有名詞
 であり滋賀堅田だと言うのです。
 しかし俳句を作るものとして「名詞」にこだわって詠まないより、間違っていれば
 後日調べて訂正すれば良いだけで、披講は何の参考にもなりませんでした。
 名句になぞられて詠むのを控えたりすることなく今後も自分の俳句を詠んでいきたい。

 
 寒冷前線の通過で時折,雨,風が吹いてはいたものの句会場では暖かな日差しも
 あり、参加者15名,欠席投句4名 95句の選は楽しいものになりました。

    花散らす日照雨となりぬ弥陀の前
           ↓
    花散らす日照雨となりぬ乗蓮寺

 この句は下五でお寺の名前を入れようと思って居たのですがさて,投句段階で
 寺号が出てきません。そのまま投句したら案の定,句会後に指摘されドッキリでした。
 もちろん日照雨は季語で季重なりを承知の上、吟行時には季重なりは気にせず、
 写生に徹するほうがいいのでは?と披講に申しました。
 15名の参加者の紹介の中でほとんどの方が4~5年の句歴と聞き,敢えて申しました
 が、本来は自然と避ける事ができる季語の勉強は必要なのです。

 昨日も感じましたが、鑑賞について選者は落選句を選ぶのではなく、広い心で
 掬い取る気持ちが必要だということ。他者の披講こそ自分が気付かなかった発見を
 教えてくれる大切な瞬間で、そこで自論をあくまで押し通しては進歩がありません。
 

      寄りいても遠き光の二輪草  ころころ

  何だかこうして見ると光ばかりですね。目が具合悪くなってからはそんな傾向に
  あるのかなぁ・・・
 
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私の吟行即吟句作方

2006-04-07 21:39:11 | Weblog
      きじむしろ

 これは私の句作方で決して正解ではないし,本当はお話すべきでは無いかも
 しれません。
 俳句は授かるもの・・確かにその「瞬間の感動」は授かります。
 しかし17音の俳句として授かるのでは有りません。
 だから、その「感動」を納める下準備をしておくと言う事です。
 まったくの下準備が無いほうが感動を得やすいという人もいます。
 
 例えば名所,名跡を訪ねるのなら,当然の如くそこの予めの知識を入れて行きます。
 皇居なら、堀、石垣、門、等とキーワードが事前に分かりますので、
 それに関連する語彙を類語辞典などで表現の種類を増やしておく。
 またPC検索で佳人はどのように詠いこんでいるのか知って置きます。
 一応の類想を避けるためと、詠いこむ方向を確認するために。
 吟行句会にはすでに上五下五が出来ている場合があるということで、
 吟行は中七探しになると言うわけです。
 
 決して良い方法とは言えませんが、その方法ならじっくり感動を探せる時間が
 生まれてきます。特に大会などでは、皆が句作している時間には推敲の時間に
 入れることになります。

 故に下準備の数だけの句数を詠むことが出来ます。
 しかし、ころころはいつもそうしているわけではなく不調の時などは敢えて
 何も用意しない事で,逆に感覚が研ぎ澄まされることも有りました。

 俳句は車の運転のようなもの,慣れれば良いのです。

    花降るや○○○○○○○浮御堂   ころころ
    
  明日の下準備句です。

 
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比喩について

2006-04-06 19:49:09 | Weblog
      草いちごの花

 物事を説明するとき、相手のよく知っている物事を借りてきて、それになぞらえて
 表現すること。その方法により、直喩・隠喩・換喩・提喩・諷喩などがある。

 直喩   「たとえば」「ごとし」「ようだ」
 
 暗喩   言葉の上では,たとえの形式をとらない比喩。「雪の肌」
 (隠喩)     「ばらのほほえみ」の類。メタファー。
 
 換喩   言い表そうとする事物を、それと関係の深いもので表現する修辞法。
      「金バッジ」で国会議員を表すなど。
 
 堤喩   「太閤」で「豊太閤」(豊臣秀吉)、「山(やま)」で「比叡山」を
      「小町」で「美人」、「花」で「桜」の意を表す 
 
 諷諭   たとえによって本義をそれとなく表現したり推察させたりする修辞法。
      「朱に交われば赤くなる」で「人は交わる友によって感化される」
      の意を表す類。


 比喩句の難しさは,最近特に感じている。
 初学のころは、何でも「如し」「如く」だった。
 誰でも感じて数多く詠まれているものに「如く」と言っても「そんなことは知ってる」
 になる。例えば木蓮などは「子供の掌」「手」「指先」、三日月などは「刃物」
 これを直喩で詠っているうちはいいのだが。
 
 掲示の比喩法の内、換喩,諷喩は俳句にはむかない。換喩は独り善がりの解釈が
 あり、諷喩は種明かし俳句となる。
 辞典などでは、暗喩と隠喩は同意語になっているが、少し違いがある。
 暗喩は掲示の通りの意味あいがあり、隠喩には例の「雪の肌」から一歩踏み込んだ
 表現と解釈がる。これを言葉で説明するのは難しい。
 
 久女の句「花衣ぬぐや纏はる紐いろゝ」この句の最後の文字「ゝ」は
 ひらがなの「く」のような記号で繰り返すことを意味する。
 花衣=五 ぬぐや纏はる=七 紐いろゝ=六 
 この不自然な「く」こそ隠喩であると解釈している。
 過去にこの句の「く」は縦書きに書いた時、解かれた紐の姿だと聞いた事が有る。
 花衣ぬぐや纏はる紐のいろ と「五 七 五」でも収まったはずなのだが・・
 
 比喩句は発見をすることで読者がなるほどと認知できた時に完成するものだと
 思う。


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 板橋区の花

2006-04-04 20:36:16 | Weblog
     二輪草


  森の奥に日ざしうつらふ二輪草 奥田とみ子

  私語一つ洩らさぬ二輪草の群れ 寒暑

  片雲やこぼしてゆきし二輪草 矢島渚男

 
 二輪草  作詞 水木かおる  作曲 弦哲也   川中美幸 

 あなた おまえ
 呼んで呼ばれて 寄り添って
 やさしくわたしを いたわって・・・
 好きで一緒に なった仲
 喧嘩したって 背中合わせの ぬくもりが
 かようふたりは ふたりは二輪草

 ほうら ごらん
 少しおくれて 咲く花を
 いとしく思って くれますか・・・
 咲いて清らな 白い花
 生きてゆくのに 下手なふたりが ささやかな
 夢をかさねる ふたりは二輪草

 おまえ あなた
 春がそこまで 来たようだ
 よかった一緒に ついてきて・・・
 雨よ降れ降れ 風も吹け
 つらいときにも 生きる力を くれるひと
 どこに咲いても ふたりは二輪草

  

   私には二輪草を恋句に仕立てられないなぁ・・・
 
 




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