写真は、大好きな、ラッセル・ミルズの「Spilt Second」というペインティングです。
1998年の作品。
色は、そこのみで発光し、時は永遠にそこで、循環する。
前にも後ろにもいかない。
ただ、そこに「在る」。
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今日は、寝不足で、夜になってエンジン切れ。
アタマがふらふらだ。
そんなふらふらの中、自分の中で、ぶつくさとつぶやいていた独白と自分のためのメモ・・・・。
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80年代のように、カルチャー/サブカルチャーが拮抗していた時代は遠く、時代は大幅に異なっている。
今、「サブカルチャー」と指すものがなんたるかは実にあいまいだ。
また、カルチャー側に矢を刺すという80年代的サブカルチャーのあり方は、すでにない。
カルチャー自体が溶けて、消えてしまったし。
アカデミックなスノッブ的な匂いのするものは全くない。
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今は「サブカルおたく」という言葉があるようだが、80年代初頭にサブカルチャーの洗礼を浴びた自分には、「サブカル」と「おたく」が直結することに違和を覚える。
なぜ、それが結びつくのかが、自分のアタマで理解出来ない。
たぶん、「サブカルチャー」の刺す概念が、変わったのだろう。
しかし、そういう時代なのだろう。
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実に、現代における言葉や概念は、サブカルチャーを「サブカル」と省略するように、デジタル化されて、「軽く」、「delete」キーを押せば、即消去できる。
いともカンタンに。
ほら・・・。
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毎週毎週、いろいろな事件や出来事が起きながら、さまざまなコトバが生まれながらも、1週間たりとも「もたず」、即賞味期限切れで、即廃棄されていく。
コトバはすぐゴミと化す。
事件は、表層的に、すぐ、風化する。
空気の中に、「delete」キーと共に、消える・・・。
「ゴミ箱」にも行かないまま。
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時の連なりや、季節感までもが、リアリティを失い、瞬間・瞬間・ばらばらな・短時間の「時間」が、起生しては→消えていく。
その、不連続な「点在」する、個点の「時」たちは、あやふやに、宙に浮くだけ・・・。
僕は、その個点たちを、縫うようにして、あたかも、時が連なっているかのように、細工しようとするが、もはや、そのような努力と手間で挽回不能なほどに、現代における「連続的時間」という概念は、崩壊している。
私には、もう、すでに、時の連なりを認識する機能がなくなっていることに気づく。
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キー、1つ叩けば、瞬間移動。
このつじつまの合わない精神的瞬間移動が可能になった時代に、「1年間」を代表する「なにがしか」は、もはや、存在しえない。
流行語も存在しない。
流行歌の存在しない。
代表する人も存在しない。
何も存在し「続け」られない。
それぞれが・それぞれで・バラバラで・「在る」だけだ。
しかも「在り続ける」保証はない。
そんな「1年間」というタームが崩壊している中、紅白歌合戦は、しかし、必死に「1年間」が存在していた過去をなぞるけれども、そこには、逆に、その「1年間」の不在が、余計に明らかになるだけなのだ。
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そんな空しき時代には、あくまで形而上的な季節とカレンダーだけがめぐる。
そして、1点のみ、日本全土が停止し、工場の煙突も排煙を出さない、唯一の静止点、元旦に向かってゆく。
12月・師走は、そこにあるが、私は、「今年」などという、長いタームを振り返れることはないだろう。