金曜日、みなうつろな顔で週末を向かえる。
かばんの中に仕事の道具を入れて、家に持ち帰る者。
土曜・日曜に、再び会社に来て、仕事を片付けようと、早々に金曜は帰る者。
そういう人々を横目で見ながら、自分は思う。
仕事とは何であろうか?
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よくMZ師と同意しあうのは、金曜日に、仕事を終えて、エレベーターが閉じる瞬間=1週間の仕事が終わる、その瞬間こそが、1週間の中で、一番ホッとし、うれしい瞬間だ、ということだ。
自分には、土曜日の朝、TBSラジオの「土曜ワイドラジオTOKYO」を聴く瞬間も喜ばしいが、金曜日の晩、これからが自分に戻れる瞬間だという認識がある。
しかし、これも歳とともにかなり薄れつつあるが。
先に述べた「仕事を休みまで持ち帰る人々」との意識の違いは明白だ。
日々の中における「仕事」は、ずっと延長線上に絶えずあって、その海の中で、土曜も日曜も過ごせる人々と違って、私とMZ師にとって、「仕事」はしょせん、生活費を稼ぐための「受苦」でしかないという意識だ。
高橋幸宏の曲に「仕事を終えた僕たちは」という、矢野顕子さん作詞の曲があるが、それはまさにそうで、「仕事」時間と「非仕事」時間に、僕らは一線の断絶を持っている。
しかし、そうやって断絶しようとする中、次第に、歳とともに「非仕事」の領域に、「仕事」意識が侵食しつつある40代を向かえつつあるのだ。
だから我々は、「かたちんば」であり、「びっこまん」なのである。
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「旧約聖書」によれば、労働とはアダムとイブが「罰」として神より与えられたものであるという。
一方、我が国日本の「古事記」では高天原では神々が労働をしていたとある。
ここには、2つの全く逆の「仕事」に対する捉え方がある。
英語における「仕事」は、「やむをえず受けざるをえない受苦」といった意味が、実は込められているということを、過去学んだことがある。
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30代前半まで、自分は、「仕事」に人生の多くの時間を割かれるのなら、そこに「意義」を見出そうと、かなり、自分なりには、販売促進の仕事に、自分の「天職」と思い込み、そこに思い入れを込めて、打ち込んできた。
しかし、とある日、「そんなお前の気持ちなんか聴いていない」と、転勤を命じられた。
その瞬間、自分の、タコの糸は、ぷっつりと切れた。
それ以来、その糸は、もう永遠に、それまであったようなつながり方をすることはないであろう。
もう一生ない。
過労、「過」労働時間に傾く自分の行動は、会社にとって「悪」であり、いわば私の極めて個人的なオナニーに過ぎないのだという判断が下ったのである。
この30代半ばにして、自分の意識は転換点を向かえた。
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そんなときに出会ったのが、「人生を“半分”降りる―哲学的生き方のすすめ (新潮OH 文庫)」である。
要は、短い人生を「仕事」に託してどうする。
「自分を生きる」ということはどういうことか?
それを問い直す本である。
社会的な立場や役割は適当・最小限にして、残り半分を、「自分を生きる」ことに時間を当てようという本である。
半隠遁という生き方の姿勢だ。(全隠遁では、社会的リスクが大きいので)
そういう意味で、「人生を半分降りる」のである。
是非おすすめしたい本である。
そして、自分は、それを実践に移し、30代半ばからの生き方の転換を図ってきた。
随分、意識的には楽になったと思う。
自分は、仕事に埋没して死にたくはない。
立場(役職)も大枚のお金もプライドも、全く欲しくない。
むしろ要らない。
自分には、何の意味も持たないし、役にもたたない。
もっと重要な課題・命題が「生きる」ことにはあるのだから。