5月5日の最終は、上京区にある通称"織部寺"とも言われている興聖寺を拝観しました。
観光寺院ではないので余り知られていませんが、慶長8年(1603年)に、虚応円耳(きいんえんに)という僧を開山として、古田織部により創建された臨済宗のお寺です。
以前は全くの非公開寺院でしたが、現在の望月ご住職になられてから少しづつ公開される機会が増えて来ました。
秋の紅葉の時期には特別公開されていましたが、新緑の美しいこの時期に特別公開されるのは初めてです。
先ずは方丈から拝観します。
法要、法話、精進料理をふるまう斎会(さいえ)などが行われる広間です。
ご開山さまのときから存在しましたが、天明の大火で消失された後新しく建て直されました。
もともとはこちらに仏様が祀られていたと伝えられています。
庭園の新緑がまばゆいばきりです。
以前、西側には苔庭が広がっていましたが、一部の苔が枯れてしまい、それをカバーする為に白川砂が敷かれています。
新緑の淡い緑と白川砂の白色とのコントラストもいいものです。
庭園も作務のひとつとして、望月ご住職が管理されています。
次に本堂のご本尊さまにお詣りします。
ご本尊さまはお釈迦さまで、向かって右側には弥勒菩薩坐像、左側には臨済宗の開祖・達磨大師坐像がお祀りされています。
臨済宗のお寺らしく、天井には"龍"が描かれています。
本堂では毎日朝6時より坐禅会が行われていて一般の方でも参加する事が出来ます。
方丈北側には中庭があり、珍しい"降り蹲居"があります。
地面を深く大きく掘り下げ、らせん状の石段を降りた先に手水鉢が据えられている。
この"降り蹲居"を考案したのが古田織部です。
興聖寺を創建した大名・古田織部にちなみ、興聖寺には雲了庵と青松庵というふたつの茶室を設けています。
雲了庵は織部の院号から名付けられた茶室で、織部の木造が祀られています。
また、青松庵は織部の妻の院号から名付けられた茶室です。
(今回は公開されていません。)
台座の上に高麗縁の上畳を敷き、その上に東帯姿で座る古田織部(1543~1615)の木像です。
織部は美濃国出身で、諱を重然と称した大名茶人です。千利休に茶を学び、利休七番の一人に数えられる高弟です。
利休亡き後はその後継者となり、二代将軍徳川秀忠の茶道指南役となりました。元和元年(1615)、大坂夏の陣の後、家臣の謀反説により切腹を命じられました。織部は、小堀遠州の茶あたります。遠州が織部の弟子になった時期は不明ですが、慶長元年(1596)の遠州18歳の時、洞水門(水琴窟)を考案し、織部を驚かせていることから、10代前半頃に弟子入りしたと考えられています。
遠州は織部のもとで茶の湯を学びますが、二人が目指した茶の湯における方向性は違っていました。
(設置されている説明書から抜粋させて頂きました。)
境内の西端には興聖寺の墓地があり、古田織部もこちらで静かに眠っています。
(今回は門扉が閉められて行けませんでした。
掲載の写真は以前に撮影したものです。
基本的に檀家さんしか立ち入れ無いです。)