Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

Corinne Baily Rae

2010年10月10日 | I日記
昨日は、久しぶりに林さんとお話しをして、もちろん研究者として素晴らしい人物でいらっしゃるのはそうなんだけれど、ポップスにも詳しくて、レミオロメンの「粉雪」は構成が不思議でいいとか、いきものがかりは最初よかったとか、そんな話題が出てきて驚かされたのだった。で、とくに共感したのは、コリーヌ・ベイリー・レイいいよねという話で、ぼくはたまたま数ヶ月前にラジオでこの曲を聴いて、「すごい」と思ったのがはじまりだった(横山剣が紹介していた)。この曲もとてもいい。

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大学の学生の何人かはこのブログを読んでくれているらしいのですが、ときどきはそんな読み手に向けて、どうですか?


I日記
先週の日曜日は、府中市美術館にて行われた快快のパフォーマンスに、Iとぼくとで車で出かけた。はじめての男二人旅(大袈裟?)。片道三十分くらいのドライブの後半は、行きも帰りもIはぐしょ泣きでになってしまいかわいそうだったけれど、いろいろなところにでかけた方がいいので、その点ではよかったかも。快快のパフォーマンスは、小沢剛のワークショップの一環で行われたもので、小沢が小さなスペースの壁にものを並べ、その壁に縦長のカラフルなバーが横に流れてゆく。快快メンバーは、バーがものの上に来るとそのものの色とかものの名前とかを声に出す。そんなアイディアを中心に構成された小品で、何人かのメンバーがその声を出すプレイヤーになって行われた。目に見えるものの名をひたすら口にするなんてのは、篠田の「アントン、猫、クリ」で見られたアイディアに通じていて、ちょっと面白い。ただ、「アントン」はあらかじめ脚本にあった「雨、雨、雨、雨」なんてセリフを口にするものだったけれど、今回のは、即興的に、バーとものが重なった瞬間に声が出るといったものだった。「シンプルな名詞の連呼ってそれだけでちょっと面白いけど、なぜ?」って思った。KATメンバーも3人見に来ていて、しばらくおしゃべり。イクメンな姿を見られてしまった。




「大丈夫」と現代日本のポップス

2010年10月10日 | Weblog
昨日の上智大のワークショップで伊藤が「ヒルクライム問題」「レミオロメン問題」と口にしましたが、このテーマはぼくも気になっていて、今年の頭に出産後産婦人科を毎日通っていたとき、J-WAVEであまりに頻繁にレミオロメンの「花鳥風月」がかかるので、そしてその歌詞があまりに貧しいので、二人で「問題」と呼んで笑っていたのに端を発するものです。

それ以来ずっとになっていた「問題」ですが、あらためて考えてみようかなと思って、いまヒルクライムの「大丈夫」の歌詞ってどんなだったっけと調べていると、歌詞の情報の脇に「大丈夫」というタイトルの別の歌手、別の曲のリストが出てきて、こんなに多いのかと驚きました。夏川りみ、古内東子、斉藤和義、ウルフルズ、たむらぱん、その他にも何曲かある。さらに、You Tubeで「大丈夫」と検索してみるとあるある。(「大丈夫だよ」というタイトルの曲もたくさんある)

気になる点は二つで、
ひとつは、描写が貧しくなる傾向と貧しいことの効果
ひとつは、三人称から一人称/二人称で語りかける「大丈夫」へ
ということ。

描写が貧しくなるといわゆる芸術性(作家の技量の呈示)は低下する。また、表現の個性が減少する(表現が陳腐化する)。その一方で、それは敷居が低くなりまたある特定の状況が歌われるという限定性が減るから聴き手がアクセスしやすくなり、また聴き手の勝手な解釈が可能になる。

それはまた、曲中で展開される物語を聴くという傾向が減る分、聴き手各人が求める欲求に応えやすくなっているということでもある。音楽のドラッグ化なんて話がここにある。

そして、それはまた、物語をある情景の描写を通して堪能させるのではなく、むしろ聴き手を登場人物の一人にして--聴き手を「あなた」と呼びかけて--送り手と受け手のダイレクトなコンタクトを生むことを目指すということにもつながってゆく。

じっくり考えてみたいテーマ。でも、正直、そんな暇はない。誰かやってくれないだろうか。ゼミの学生でもいいんだけど。

それにしても、聴き手(歌詞のなかの「君」)に「大丈夫」と語りかける歌い手は、一体どんな存在なんだろう。なんで「大丈夫」なんて言えるんだろう、ちょっと尊大すぎやしないか。普通、そんな批判なり警戒なりが起こると思うのだけれど、それどころじゃなく、ともかく誰かに「大丈夫」といって欲しいのがいまのこの世ということなのだろうか。だとすると、宗教の時代あるいは絶対者を希求する時代ということ、なの、か。

ヒルクライム「大丈夫」

「俺が大丈夫っていえば、きみはきっと大丈夫で」「そして世界は君に告げる/「あなたはきっと大丈夫」って/心を開いた君に世界中が愛をくれる」

FUNKY MONKY BABYS「大丈夫だよ」

「君が今 夢を目の前に立ち尽くしていても/大丈夫 大丈夫 みんなが君の努力を分かってるから/今日はゆっくり休んで 明日頑張りなよ/大丈夫 大丈夫 明日がやさしく君を迎えてくれるから」


ところで、こういう批評っていまとても少ないと思うんだけれど、ぼくの勉強不足でしょうか。音楽批評って、自分たちの好きな音楽を理屈でを作って好きだというものになっていませんか?時代が要請する問題を設定するというよりは、自分の属する趣味の共同体の枠のなかで言葉を生成している気がして、ぼくは行かないつもりなのですが、明日のエクス・ポナイトではそうした点は話題にならないのでしょうか。

梅津×森

2010年10月10日 | 美術
アラタニウラノで10/16まで行われている梅津庸一と森千裕の展覧会を見てきた。タイトルは「cosmetic girl and tired boy」。

狭くてワンルームみたいな空間。壁面がレモン色に塗られている。同じ色のカラーボックスがぽつんと置いてあったり、ピンクのスリッパが何足も連ねられて円になっているのが床にあったり、彼らの部屋に訪問したかのよう。梅津の油絵は、点描を効果的に用いる。点たちは絵画空間をときにノイジーに、ときに柔らかく暖かさや湿度の伴ったものにしている。街中の植栽、バスマットに触れた片足、ぽつんと一個ポンデリング、ふいにフォーカスしてしまった「なんてことのないけれどもなんだか気になってしまった対象」が一枚一枚の絵のなかで見つめられている。ドローイングもあった。もじゃもじゃと線は毛というか陰毛というか、独特のうざったくもひきつけられる感触があって、ちよっと面白かった。森千裕は「瞬間」を描く。「あっ」とか「ギャッ」とか、聞こえてきそうな、なんてことないけど平衡感覚がさっと奪われた瞬間。その運動感が画布に凝固している。ふざけているようで、そんな感覚あるある、分かる分かると納得させられる、そんな瞬間を拾ってくる器用さが、一見ラフで不器用に見えるドローイングに透けている。

と、とても個性的で魅力ある二人の展示だったのだけれど、その個性や魅力がややもすれば「そういうのが好きなひとの趣味」という話で完結してしまうような気がして、いや、完結できる魅力があるならばそれで十分ともいえなくもないのだけれど、それだけに、なんとなく「停滞」として感じられなくもないところが気になった。

その最たる部分が「彼らの部屋に訪問したかの」という印象だったように思う。二人はまるで「無防備にも自分の部屋を鍵なしで開放してありますので勝手に見て下さい」みたいに展示している。その無防備さは「わたしは裸で寝ていますので、どうぞご自由に」と言われているようでもあり、見ている側としては、「裸で寝ていられても、、、ちょっと困るな」なんて思うところが出てくる。見る者に対して無防備で、率直で、おそれがない、ということは、見る者を自由にするというより、むしろ無防備なひとを前にどうすればいいと緊張を強いるところがある。友だちの家は、必ずしもコージーとは限らない、という感じ?緊張を強いるという束縛性がなんらか意図的なものであったらいいと思う。けれど、そこはやや曖昧だと思った。

「マイクロポップ」な作家が、日常というか、プライベートというか、身の回りを出発点にしているとすれば、その振る舞いがどういった展開を今後見せうるのかといった興味は、おそらく多くのひとがもっていることと思う。その点で、泉の最近の傾向に注目している。ぼくは来月行われる「こねる」展のカタログに泉=野生の小動物と書き、彼の展示の仕方を「巣」と捉えてみたのだけれど、泉の「巣」=展示空間(とくに「こねる」展で示される最新の泉の展示)が「友だちの部屋」とどう違うのか、なんてことが気になるのだ。

その後、上智大学で林道郎、鈴木雅雄、近藤学さんと妻が行ったワークショップへ。「関係の美学」の問題圏が話題に。なんでもつながってしまうのがよかれ悪しかれ現代的な状況だ、という認識から出発すること。ちょうどぼくが8月に「美術手帖」に書いた、遠藤一郎や快快について「彼らの活動には外部が設定されていない」と考えていることと関連しているな、と思った。