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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

I日記

2010年04月25日 | I日記
「I!」と声をかけてもまだ振り向かない。「声をかけられた」と思って反応することはあるのだけれど、「名前を呼ばれた」こととしてその声を理解してはいない。昨日、今日くらいで、随分、気持ちが安定してきた気がする。椅子に座る姿勢ができるようになって(首がすわるようになって)、視野が広がり、刺激が増えたこともその安定につながっているだろう。付いているとテレビにずっと目を向けている。こんな時期から見せては、とも思うので消してしまったり、椅子の位置をずらしたりすることもある。ともかく、モビールが好きなように、動くものが好きなのだ。今朝は、『ザッツ・エンタテインメント』を見ていたら、寝そべっていたIがテレビを見ながらきゃははと笑い、体を激しくシェイクしていた。フレッド・アステアを見て喜び、自分も踊ろうとしている?なんて思って、おかしかった。Iはダンスに、とまではいえないにしても運動に随分興味のある人間みたいだ。
(2010/4/24)

さっき「エフエム芸術道場」を聞いていた。GEISAI大学の黒瀬陽平(くん)の回の後だろう飲み会の模様が放送された。Iは、9時に就寝すると12時、3時、6時にだいたい起きてぐずる。だから、夜中の3時台というのは、結構起きていることが多く、この番組をうとうとしながら耳にすることも最近たびたびある。村上隆と東浩紀がしゃべっているなかで、黒瀬も加わるといった流れで、ちょっと面白かったのは、東がマチエールの話をしはじめたときだった。村上隆の絵画の特徴は、ネットや紙媒体に落としても負けないアイコンの強さにあって(性格ではないがだいたいそのようなことを話していたと思う)、ただしそれだけではなく、実際に作品を目の前にするとマチエールの魅力がはっきりとある、そうした二面性を村上作品は持っているという話だった。このことは、作品論を飛び越えて、鑑賞論に展開するところがあって、つまり、ネットで村上作品を鑑賞することと、ギャラリーに行って本物の作品を鑑賞することとの違い、その二面性が村上(のみならず今日の美術)作品を見ることの内に矛盾として孕まれていること、またその二つの鑑賞態度に応える力を村上作品はもっているという議論へと広がる、面白い着眼点だった。さらに、話が盛り上がり、「サイトスペシフィックというのはマチエールの問題だ」(といったようなこと。うとうととあまりクリアではないしかも小さな音で聞いていたので、カギ括弧の中身は正確ではない)と東が漏らしたときに、村上は爆笑とともにこの定義を称賛したのだった。確かに面白い。で、2人のトークを聞きながら思っていたのは、昨日見たホナガヨウコとd.v.dの公演のことだった。

ギャラリーに行って作品を見るという行為が、何らかの意味でサイトスペシフィックでありまた同時にマチエールの問題だというのは、正しくダンスをあるいは演劇を鑑賞するという際に起きていることとでもある。この会場へわざわざ足を運び、舞台上で作品をライブで見ること。それは、ネット上で作品をチェックするのとは相当に異なる行為、とくに情報の量という点で大いにそうだろう。基本的には、ライブで見ることはYou Tubeで見るのに比べ情報が多いといえる。マチエールの効果が映像よりも強くあるからだ。でも、本当にそうなのだろうか、とも思う。それがホナガヨウコの公演を見て思ったことで、振付というのは、メディアである身体の情報を増やすのではなく減らす方向にあるものなのではないか。「振付」というか表現というものにはおおよそそういうところがあるのではないか。自然と芸術という対で考えてもみている。芸術というのは、おうおうにして自然のもつ情報を制限することで自らの可能性を示すものだったりするよな、などと。

Iが泣く。ぼくはその泣き顔から短時間に多様な情報を受けとってそこから多様なイメージを喚起させられる。昔の父親のこととか(Iはぼくよりも親父に似ていると思わせるところがある。隔世遺伝?)、自分の子供の頃の泣いた経験とか、徹底的に絶望的な表情をするときもあるのでそうした絶望的な境遇に置かれているひとのこととか。音の響きも素晴らしくぐっとくる。顔もたまらなく切ない。これは、Iに限ったことではなく、人間の身体という媒体は、それ自体でそうとうに豊かな情報をまき散らして存在している。芸術的表現というのは、その豊かさを隠して別の何かを見せることかもしれない。見ることの豊かさは、芸術を見ることでひょっとしたら貧しくなるかもしない。あと、目の前で踊るライブのダンスというのは、どうしても粗い。ぶれるし、間違うし、自分の本当にしたい動作の何割かしか実現できていないはずだ。この粗さというものを作家たちはどのように考えているのだろう。美術作品は、その点ダンスと違っていて支持体が生きていないので、徹底的に仕上げて固定することができる。音楽演奏にももちろんこうした粗さはある。けれども、ある程度誤差の範囲で収めるテクニックとか、誤差をさほど頓着しないようにする作品性などが一種の常識として共有されているように思う(もちろん前提としてItokenとJimanicaというドラマーの優秀さというのは昨日の公演ではあったと思うけれど)。また、あっという間に動きが生まれては消えていってしまうそれに観客をつき合わせるという点、観客の座席から見えるものに限界がある点など、一般的に考えればマイナスといえる(鑑賞という点で粗くなってしまう)点もいくつかある。ということは、ダンス表現というのは、粗さに目をつむってもするべきこと/したいことというのが目指されていると考えていいのだろう。ならば、それは、ということを知りたくて見ることになる。

芸術はマチエールの豊かさを自分の武器にするところもあるけれども、同時に素材の豊かさを隠しながら別の可能性を引き出そうとする行為なのではないだろうか。その点では、先に書いた村上の二面性というのは、さして大きな違いをもつものではないともいえる。
(2010/4/25)