Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

AbsT新作公演『しはに-subsoil』(@吉祥寺シアター)

2007年02月23日 | Weblog
白井剛の新作。満席の会場。凄い人気?やや戸惑うほどの。
七十分ほどの公演(「しはに」とは、「底土」「下土」という言葉で、「深い層にある土のこと」だそうです)。なんと言えばいいか、優男なルックスなどを無視すると「白井剛」とは珍味として味わうべきひとであって、これをマジメに「あの、軽く弱々しく吹けば飛ぶようなうすいムーヴメントが、現代の我々の存在の絶えられない軽さを見事に表現していて、、、」云々のように批評をしては不味い(表層的過ぎる)のであって(ましてやスローモーな「へにゃ」な動きを舞踏と呼ぶ批評家がいたら、レクチャー受講した皆さんは「くすっ」と一笑してあげましょう)、えっと、簡単に言えば、「くるってんなー、しらいさん、、、」とやや寛大でほほえましい気持ちになって受け止めるというのが正しいところではないかと。問題は「なぜそんなに我々に寛大さを強いるんだよしらいさん」というところであって、芸術という名のもとにあるものの「押しつけがましさ」というか、サーヴィスの欠如というか、他者の欠如というか、こういう晩は、夕方に食べた吉祥寺はハモニカ横町にある民民での餃子二皿、アサリチャーハン、ビール一本で1900円(Aと2人分)で享受した幸福感と満足感とその後の公演(ぼくは幸いにも招待を頂きましたが、Aの分2500円は精算しました)で得たものとを比較してしまうという野暮なんだかすこぶる真っ当なことなんだか分からないけれど、このギャップに驚くと言うことがあったりする。
いや、でも、真面目に言うと、民民と芸術を横並びにするなよ、と言われるかもしれませんが、間違いなく横並びにするものですよ(そうか大抵、民民で食べてから行くから、吉祥寺シアターでの公演には辛口になってしまうのかも知れない)。すべてが私たちにとっては等価な出会いの対象のはずであり、芸術か非芸術かはアプリオリにその対象の価値を規定するものではないはずです。そんな、アリもしない価値を後生大事にしていると「芸術か!」とタカアンドトシに突っ込まれます(いや、突っ込まれもせずに無視されるだけか)。
そう、白井剛の行き先不明の狂気のようなものそれ自体は悪いはずはなく、ただしそれが、「コンテンポラリーダンス」という名の、既視感が濃厚にただよう類の運動に案外支えられていることに、満たされないものを感じているというのがぼくの正直な気持ちなのだ。けれども、白井の周りで彼を支える四人が、必死に白井的な何かを達成しようと努めている姿には感動を覚えた。さすがに力量のあるダンサーたちのコントロールされている身体というのは見ていて面白い。純粋に面白い。とはいえそれぞれの運動の質は、既視感がつよい。見たこともない運動をして欲しいなどと言いたいわけではないのだけれど、どこをとっても、ある時期の「コンテンポラリーダンス」なるものをなぞっている気がしてしまうのだ、どうしても。身体を「もの」にしたい「もの」のレヴェルに至った身体とコンタクトしたいという白井の気持ちには、リアリティを感じるのだ。そこへ向かうアプローチには、でも、あまりリアリティを感じることが出来ない。バランスとか、軽さとか。どうしても、わざとらしさをぼくはそこに受け取ってしまう、そう「もの」として「見せている」という感じに見えてしまうのだ。
いずれにしても、ある種の「コンテンポラリーダンス」らしいセッティングというものに、ぼくは何らの魅力も感じない(ダンス以上に極め付きだったのは、美術と音楽の使い方だった!)。レクチャー第8回で、東谷隆司さんがさかんに「arty」という言葉を使っていたのを思い出す。「arty」なことというのは、あえてやるものであって、ベタにやるものではないだろう。けれども、「arty」であることがなにやら長いものにまかれるために必要なフレイバーであるとすれば、そこから脆弱なコンテンポラリーダンス業界は逃れられないのかも知れない。そういうことを「退廃」というのだろう。