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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

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2007年02月03日 | Weblog
「超詳解!20世紀ダンス入門」レク第1回目の前日、忙しい最中ではあるものの、水戸芸術館まで「夏への扉:マイクロポップの時代」展を見に、そしてこの展覧会のキュレイターでレクの第7回のゲスト講師を務めて下さる松井みどりさんに会いにレクの制作担当の二人とAとで行った。スーパー日立に初めて乗る。70分で水戸に着くのは、バスで2時間半掛かるのに比べればずっとよいのだが、なんだかこの日の体調が万全でなかったのか、すごい電車酔いしてしまった。ぐらぐらしながら、翌日のレクの打ち合わせをする。

松井さんの展覧会は、ともかく感動し、深く考えさせられることが多かった。相手に伝える力が微弱なもののもつ力強さについて(矛盾しているんだけどさ、でも「マイクロ」ポップってその微弱さこそが良かれ悪しかれ個性なのだと思うのだ)、とか。青木陵子の作品は以前から気になっていたのだけれど、いざ生で見るとやはりすごい感動してしまった。なんだろう、この魅力は、見ること、触れること、感じること、想像すること、すべてが対象を線でトレースすることの内にそのシンプルでささやかな手の動きの内に起きている。青木を、例えば手塚夏子とか中村公美とかと比べてみてみたくなった。また、松井みどりさんのレクチャーがこの日あって、それがもうパフォーマンスとして素晴らしかった。「マイクロポップ宣言」を説明するために用意された時間、松井さんは「今日は調子が悪い」とくり返しいいながら、十回くらいスピーチを中断し、吐息を漏らす。そして再び震える声で話を再開する。ドゥルーズ&ガタリやセルトーなどかなり抽象的な思考で構築した「マイクロポップ」の枠組みはいざ作品と隣り合わせにおいてみると、個々の作品のもつ個々の「声」とときにズレが起きたり、うまい対話が出来なかったりすることが露わになる。ぼくが感銘を受けたのは、その当然生じる齟齬にあまりに真摯に向きあってしまう松井さんであるからこそ、言葉が継げなくなって、接ぐことが何ら空々しくなってしまっている、ということで、そうした出会いの内に生じるスパークに向きあう真面目さ純真さこそ、マイクロポップ宣言に不可欠な要素に他ならないのではないかと思ったのだった。

帰りに、神村恵カンパニー「山脈」(@駒場アゴラ劇場)へと走る。公演開始時刻の5分後くらいに着くが、まだ始まっておらず、なんとか席を確保出来た。神村さんのこの公演については、少し考えてからここに書こうと思う。