Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

雑誌とブログどっちの方が読者は多いのか?

2006年10月20日 | Weblog
火曜日は大学の研究室で事務の仕事。昼休みに生協書籍部に行き新刊書などをながめつつ不意に『舞台芸術10』を手に取る。皆さん読みました?いや、その前にこの雑誌ご存じですか。買ったことございますか。舞台芸術(舞台で行う演劇とダンスを指すらしい)の批評的な文章が毎回ラインナップされる雑誌なのですが。ぺらぺらめくってると、内野儀さんと桜井圭介さんの対談が載っていて、ちらと読み始めるとそこに、BBSで昨年末か交わされた桜井×武藤のコメント合戦のことが語られていて、驚いた。内野さんの発言(黒沢美香と康本雅子を同列に扱うことは出来ない云々という、あの)なんだけれど、それはもはや雑誌や本で交わされたそう言う意味で「オフィシャル」なものであるかのように、言及されていた、ぼくはそのことに驚いた。

それで、なんだか「予感」がして先を読み進めると、(やはり)次にぼくの名前が内野さんの発言に出てきた、それも同様に雑誌に書いたものとかではなくつれづれに書いている当ブログ上での記事に関してだったのだ(前回の吾妻橋についてのぼくなりに気になる問題を書いたもの)!ウオ。これが今という時代か、と感慨。そんでまずは、そういう「今の時代」問題としてここにこのことを記事化したいと思った。ブログやBBSの発言は、もう高度な批評誌で取り上げられちゃったりする類のものなのですね。

というかそもそもブログの読者と『舞台芸術』の読者どっちが多いんだろう?ってことが次に気になりだした。ブログはマイナーなメディアではなく、むしろ雑誌の方がマイナーなのかも知れない。いやきっと事実そうだろう。実際問題ぼくは『舞台芸術10』6月発売のものなのに今週の火曜日まで読んでなかった。たまたまめくってなかったら、ずっと読まないままだったかも知れない。きっとそうだ(自分のことが言及されているにもかかわらず、だ)。この事態は、ぼくのチェック力不足に非難が向けられることかも知れないけれど、実際読んでなかったというそのことに関心を向けるべきだ(つーか、誰かぼくに言及されていたこと伝えて下さい!え、誰も読んでなかったから誰も指摘できなかったって?だとしたら批評というやつはもうほとんどのひとにとってア・プリオリに「スルー」状態なものなのか)。

で、こういったことについて今朝、Aとパン食べながらおしゃべりしていたのだけれど、そこでぼくが連想したのは、五六年前、キムタクが『anan』のすでにその時で何年か連続いい男ランキング一位になったときのインタビューで自分よりも渋谷で歩いている男の子の方がカッコイイし、自分もマネしていると言っていたこと。コピー(あるいはサブ的ないし私的存在)と版元(あるいはメイン的ないし公的存在)のヒエラルキーが逆転している、と言う意味でキムタクの話と雑誌-ブログの話が似ていると思った(まあ、どーでもいい連想ですけど)。

雑誌に書く意義というのは、なくなってきているかも(とかいって雑誌編集の方々に総すかん食うのは嫌だ!けど)。どうなんだろ、実際。とかいって、こういう記事を書いている裏の魂胆は、内野×桜井対談読んでない人に読んでみたら?と勧めたいということだったりするのですが。

でも、「面白いなあ」なんて他人事にして楽しんでいられるわけもなく、対談の末には叱咤激励というかなんというかなエールが語られてたりして「やります、よ!」という気にさせられたりしているのではあります。で(もそのこととはあまり関係なく)、もっと瞬間的に感じたことをメモするような記事をブログ上でどんどん書いてみたいなと思ったのでした。

例えば、
■最近ラジオ番組のポッドキャスト・ヴァージョンをよく聞く。テレビがもう括れなくなった大衆になおも焦点を絞ろうとして機能不全の不毛番組ばかりになっているのとはことなり、聞き手を限定している分、ラジオは元気だ。TBSラジオ、特に(といってあくまでもポッドキャストしか聞かないんだけど)。今年はテレビ(とくにドラマ)も新譜もダメな一方、ラジオの年だったのかも。それはラジオによるコラムの復活でもある。

■『STUDIO VOICE』今月号は「今、いちばん大切な本」という特集。伊藤存が『枯木灘』を選んでいて驚く。けど、あまり読みたいなと思う記事がない、正直。なんでだろうか。全く個人を知らないブログが紹介している本をついついアマゾンで買ってしまうことよくあるのに(そういう理由で今日届いたのは高橋世織『感覚のモダン』)。そのなかでいちばん欲しいと思ったのはKATHYが推薦するジャネット・ボード『世界の迷路と迷宮』。というか、KATHYしゃべってる!