Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

山本ムーグ『Red, Naked!Naked!』

2006年10月16日 | Weblog
今月の『美術手帖』はエッシャー特集でそれはちょっとどうでもよくていま別の記事、つまり大竹伸朗と後藤繁雄の対談を読んでいたんだけれど、そこには「落書き」が現代美術館に展示される重要性について大竹が語っていて「あ、これだ」と思った。

「O 今回の展覧会がやっぱ西洋美術の展覧会でないのはさ、たとえば12歳の時にピカソが描いたデッサン画とかいうのはあるけれど、俺のは「落書き」だから、こんな展覧会はないと思うんだよ。美術館クラスの展覧会で、俺は「落書き」が大切だと思うわけ。
 G 美術の時間に描かされたものじゃなくてね。
 O それを展示しなきゃダメだと思うんだ。
 G 電話しながら描いたり、授業中に描いたりすることの快楽が基本ってことでしょ。
 O そういうとこに出るのよ、実は。制度からはずれたもの。そういうのは展覧会ではずされる。俺はあくまでも落書きで行きたいわけ。我慢したくないのよ。」

「落書き」が美術館に展示されるべきと思うか思わないかの分岐点がさ、ほんとに気になるよ。ぼくは「落書き」が好きだ。落書き性がいまここにあることがとても大事なことだと思うんだよな。

で、ぼくはダンスというジャンルは普通にアヴァンギャルドな世界で、そういうことはデフォルトなんだとずっと思って無邪気に追っかけてきたんだった。でも、それはぼくの半分誤解で半分期待し過ぎだったんじゃないかな、とこのごろちょっと懐疑的になって、へこむこともあって、だから今回の『吾妻橋』とか久しぶりに痛快な気持ちになって「これだよね、これが普通」と最後の鉄割の「一発」のせいで(おかげで?)長ネギの汁が充満したアサヒのホールで目から涙をにじませながら思っていた。

そんでまさに「落書き」しつづけるみたいな一時間半だった、山本ムーグの企画『Red, Naked! Naked!』(10/15)について書いておこうと思う。山本ムーグはbdのメンバーでDJ担当、でも最近はbdで歌うたっているらしい。そこに、小田島等、HARCO、KATHYがゲストに加わってやるのは、いわゆるライヴとか講演とか公演とかとはまったく違う、そういうくくりにしたら絶対消されてしまうような、だから一種の「落書き」だった。

小田島はトップバッターで山本と一緒に登場するんだけれど、楽器やターンテーブルを前に演奏する気配なく、ただ20~30分くっちゃべる、それだけ。しかもほとんど唯一のトピックが二人とも明日誕生日という話(ほんとかうそかは不明)で、ビニールの買い物袋を取り出すとそれを客席に回し、何か入れて、と。次に小田島がビデオを流して、テレビ番組の出演者(マツケンとかホリエモンとか)にみんなでアテレコしたりする。音楽史的に言えば、これはケージの沈黙の音楽?音楽なしひたすらノイズばかり。中身はくり抜かれ、ただ時間を共有するという出来事だけが続く。なんか、でもそれが、とてもよかったのだ。なんにもないんだけれど、その分ひとの交信の感触だけが微少だけど鮮明に浮かび上がってくる。最後の方で、回ってきた袋からチョコとか飴とかが出てきて、それを再び客席に配ったり、山本がそれを「原始共産制みたい」といったり。

ニート時代のケージ?っていうか、大事なものが何なのか、誠実に考えるとこうなるって、そういうことに思えたすごくなっとくしてしまったのだった。伝えたいことなんてない、ただここにこうしていることだけが意味、って感じのところ。

後半登場の、渋谷界隈では小沢、カジに続く三男坊的存在らしいHARCOは、自分のオリジナルを演奏することよりも、ひたすら山本のリクエストで、自分が関わったCMソングを次々と披露させられる。これも、なんだか「音楽」らしかなぬただの断片の集合なんだけれど、それを楽しませる時間は、即興的にどんどん歌っていく誠実なHARCOの佇まいとそれをやんちゃな子供みたいにリクし続ける山本の佇まいとが相まって、なんだか唯一無二の時間になっているのだった。

最後のKATHYは、登場したガキ男たちを束ねる姉さん的な役割をしつつ、キメキメのバレエを踊り、それがここに場違いであることによってなにやら強烈に愛しくさせる一場を生んでいた。

要するにタイトル通り、表現とか何とかといわれるものの無駄を排してただ「赤裸々」である状態に誘われる時間だった。「赤裸々」を表現するんじゃなくて「赤裸々」であること。それが誠実な態度と思え純粋にハッピーな気持ちにさせられたのだった。よかった、行って。