Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

20日にシンポジウム(麻布die pratze)

2006年08月12日 | Weblog
下記の会に出ます。ぼくはパネラーの中で最年少なので、末席にぽつんと座りつつ、無邪気に言いたいこと言って帰りたいと思います。ダンスというジャンルのなかで世間から一番期待されていないのが批評の立場の人たちだとぼくは感じていますが、しかしそれなりの役割もあるだろうし、責務もあるだろうと思ってもいます。どういう進行になるのかはよく分かりませんが、出来るだけ、今自分が考えている「コンテンポラリーダンスの現在とこれから」についてちゃんと話そうと思います。ぼくとしては「観客(論)について」「劇場という場とダンスとの相性」「国際交流イベントと化すダンス公演の問題」などを話題にしようかと思っています。こういう機会は案外なかったので、興味のある方はご参加頂き、多分、フロアからの質問・意見タイムもあるでしょうから、そういうところなどでどうぞご発言して、盛り上げてください。特に(ぼくよりも)若いひとたちの率直な意見をぼくとしては聞きたいです。




ダンスがみたい!8 シンポジウム
     「コンテンポラリーダンスの現在とこれから」
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★シンポジウム行います。他にも批評家、ダンサーなど多数集まっ
てディスカッションできればと思います。よろしくお願いします。
見た「ダンスがみたい」の半券があれば、無料で入れます。
この20日夜はジャッキー・ジョブ、遠藤寿彦の舞台もあります
★シンポジウム「コンテンポラリーダンスの現在とこれから」★
 日 時:8/20(日)15:00 会場麻布die pratze
 パネラー 前田允 貫成人 木村覚 原田広美
 司会 志賀信夫
 入場料¥500 「ダンスがみたい!8」の半券持参は入場無料

★プロフィル
前田 允(Maeda Tadashi)1940年生。舞踊批評家。舞踊批評家協会
員。舞踊学会員。元日本大学経済学部教授。『ユーカラ'79』文化庁
舞台芸術創作奨励特別賞、バニョレ国際振付賞審査員。静岡舞台芸
術センター審査員。著書『ヌーヴェルダンス横断』『ダンスハンド
ブック』訳書『モーリスベジャール自伝1』『アントニオ・ガデス』
『ローラン・プティ ダンスの魔術手』『舞踊のもう一つの唄』『オ
ペラ座の子どもたち』など多数

貫 成人(Nuki Shigeto)1956年生。舞踊批評家。舞踊学会員、国際
舞台批評家協会員、日本ダンスフォーラム会員。トヨタアワード2005
選考委員。専修大学文学部教授。現象学、現代思想、舞踊美学、歴史
理論。ピナ・バウシュについて執筆多数。著書『経験の構造-フッサ
ール現象学の新しい全体像』『哲学マップ』共著『はんらんする身体』
訳書『フッサールとフレーゲ』

木村 覚(Kimura Satoru)ダンス批評。大学講師。21世紀COEプログ
ラム研究拠点形成特任研究員。美学、土方巽の舞踏論研究。舞踊学会
会員。執筆「踊ることと見えること 土方巽の舞踏論をめぐって」
(美術手帖第12回芸術評論賞佳作)。著作「人形少女は傍若無人」
TH叢書21。「室伏鴻「 硬くて柔らかいエッジで踊る 」美術手帖
2005.12。など多数。http://www.page.sannet.ne.jp/kmr-sato/

原田広美(Harada Hiromi)舞踊評論家、サイコセラピスト、ワーク
ショッパー、パフォーマー。舞踊学会員、日本芸術療法学会員、
国際演劇協会会員。1998年度第8回日本ダンス評論賞入選。ディプ
ラッツ「ダンスが見たい」実行委員。「DansArt」「公明新聞」
などに執筆多数。著書『やさしさの夢療法』『舞踏BUTOHU大全-暗黒と
光の王国』http://www.h5.dion.ne.jp/~hiromi29/

志賀信夫(Shiga Nobuo)1955年生。舞踊批評家。舞踊批評家協会員。
舞踊学会員。テルプシコール舞踏新人シリーズ講評者。アサヒアート
スクエア実行委員。ディプラッツ「ダンスが見たい」実行委員。著書
『海外で輝く』共著『講談社類語大辞典』『フランス語で広がる世界』
執筆「笠井叡、ニジンスキーを踊る」TH叢書26「イダ・ルビンシュタイン」
TH叢書26。「土方巽の『禁色』」Bacchus 3。「『マルドロールの歌』の
少年たち」TH叢書24。http://www.geocities.jp/butohart/

細田守『時をかける少女』

2006年08月12日 | Weblog
そして昨日の晩、『トキカケ』をテアトル新宿で見た。半端なくすごい作品だった。剛速球だった。いろいろと思うことがあるのだけれど、一つあげるとすれば、このアニメが「脱萌え」アニメだということだ。主人公真琴はボーイッシュで、いまどきな超短いスカートをはいて、野球やったり自転車乗ったり飛んだり転がったりするが、決してどんな場面でもパンツがチラリとすることはない。宮崎駿だったら、絶対チラリとやるはずのところで、やらない。「萌え」の要素は他の妹とか下級生に任せて、本筋を握る彼女にはそういう「余計な」要素はまぶさない。それがまず、潔く、物語の中身ともよくあっている。「物語の中身」と書いたが、テーマは「届かない思い」(!)なのだ。何いってんの~と笑うなかれ諸氏。見れば分かる。「届かない思い」は脳内恋愛(本田透)とは違う。オタクの脳内恋愛は自己の欲望の完成。けれども、「届かない」は、相手(他者)への思いに根ざしている。自分にはどうにもならない他者というのがいて、けれどもどうにもならないけれどもそいつが好きで、という至極まっとうでしかし今時ほとんど表現されない気持ち。で、その「届かない」という究極の悲しさと何度も無邪気に跳躍する真琴の姿が重なってくるのであり、とか何とか言っている内にうるうるし始めてしまうぼくは、細田監督に完敗した!という気分なのです。

『時をかける少女』、、、じゃない

2006年08月12日 | Weblog
昨日は午前中から仕事で赤坂へ。早くつきすぎてしまい赤坂稲荷神社をうろついたりしていた。十一時に待ち合わせだったのが四十分くらい早くついてしまい、それで本屋を探してみるものの、十一時にならないとあかないというのだった(赤坂は夜の街なんだな、なんて思ったり)。あるスタッフの方々とある打ち合わせを進める。そこでのKATHYの人気・注目度は絶大で、映像を見てもらってもそれに対してすごいよい反応が返ってくる。当たり前だけれど、よいものはよい、のだ。

二時頃にこの件を終え、少し時間があるので六本木に行き、「アフリカリミックス」を見た。ワンチゲ・ムトゥの作品にはぞくぞくするものを感じたがその他の作品の多くは、非植民地に生きる者の怒りや不安や望みがテーマになっていて、いたしかたないとはいえそのことが少し切なく、原動力(作品を造る欲望)として、それ以外のものはないのだろうか、という思いをどうしてももってしまう。けれども、個人の無邪気な自由が作品の原動力になるはずがない、少なくともこうした世界的な交流(アフリカの作品をヨーロッパのキュレイターが展覧会化しそれを日本人が見るという状況)のただ中に作品が置かれている、といったレヴェルならば、なおさら。などと、ヒルズに行く途中で買った村上隆『芸術企業論』を読む(次の日、つまり今日さっきまで読んでいたのだけれど)と、そう言う気持ちをより強く持つ。「自分勝手な自由からは無責任な作品しか生まれません」(村上)。

ヒルズから歩いて麻布die pratzeへ。大岩淑子「夜明けのしっぽを聴く/Listening to My Tail at Dawn」。客演というべきか康本雅子が出演する(+オリヴィエ・ベッソンというスチーブン・セガールみたいな体躯のダンサーを含め、計三人での舞台)、ということが見に行った動機としては強い(トヨタでは事情があり、結局モニターでしか見られなかったので)。チラシには西田留美可によるこうした解説が付いている。「深い瞑想状態の身体を見るとき、見る側の意識レベルも試される思いがある。ダンスを見るのも、一つの意識の冒険だ」。もちろんこの解説は、公演前に書かれていたもので、公演自体をトレースしたものではない。けれども、ぼくは「深い瞑想状態の身体」につきあったような気がしていない。何かを試された気にもならなかったし、冒険をした気にもならなかった。何を経験したかといえば、とくに大岩の動きに関してはぼくはまったく何も感じられなかった。「とっかかり」がなく、なめらかにどんどんすすむ「ひとりごと」を聴いているような感じだった。そのことが切なく苦しくやるせない。客は、ちょっとコミカルなダンサー同士のやりとりで笑ったりしているが、そこで笑わなかったら金払った分元とれないという気持ちで笑っているようにしか思えない。つまり、その笑いは実にトリヴィアルでダンスに何ら関わりのない故に「だじゃれ」的なものでしかないからだ。大岩の経歴を見ると「トワイラ・サープ」とか「ビル・T・ジョーンズ」とか「プレルジョカージュ」とかなんかビッグなものたちとの関わりが出てくるのだが、アイディアの基本はモダンダンスの枠内にあるのではないか。モダンダンスには、個人の表現の自由を解放する運動という一面がある。この公演のとくに大岩にはそういう解放の精神というものが反映されている気がする。しかし、そこで解放されているのは(いるとすれば)、ダンサー一個人の精神にすぎないのではないか。というのも、ぼくの心は彼女のダンスの間、何ら解放された気がせず(西田さんは感じるんだろうか、あるいは感じることが出来ず、そんな自分が「試されている」と感じるのだろうか)、あるいはまたぼくの心と重なることを許してくれるダンサーの「のりしろ」はまったく探し出せなかったからだ。この段階にとどまる限り、ダンスは「自分勝手な自由からは無責任な作品しか生まれません」と誹られても言い返す言葉はないだろう。しばしば考えさせられる、モダンダンス的理論の弊害を今日も感じたのだった。

それで、ぼくが見ていたのは(見る楽しみとしてぼくに与えられていたのは)、康本のシャイネスだった。変なことを書きますが、(でもね、重要だとぼくは思ってるんですよ、実に)、大岩は乳首が服から透けててもいっこうに気にする様子がない一方、康本は実に周到に乳首の輪郭がでるのを隠している。これは、端的に見られるのがいやだからだろう、普段女性たちが人前でブラを着けているのと同じ心境。そんなところから、康本からは観客に「見られること」を意識していることが伝わってくる。一方、大岩の場合、見られていることをあまり気にしない、あるいはダンスというものはあるいはダンサーというものはそれでいいのよ、という意識が前に立っていて、観客に「見せる」意識が強い。その意識が乳首を通してこっちに伝わる。そしてそれは(多分、明け透けに自分自身をみせますよ的メッセージなのかも知れないが)むしろこちらに対するバリアになってしまっている。彼女の考えるダンスのコンセプトがつくるバリア。それは思いの外うざったい。少なくともダンス外部の人にとっては端的にそれが違和感をうむ(以前、美術系の制作の方にダンス公演を見てもらった時、異常に彼が「乳首見えてる!」と興奮していたのを思い出す。彼は興奮していたのではなく、ほんとはとまどっていたのだろう)。康本は、明らかにその点、「ふつう」だ。乳首以外にもうひとつ例を挙げられるのだが、ぼくもシャイな人間なのでこれ以上は控えたい。ともかく彼女は普通に踊ること、人前に出ることに対してシャイだ。そのシャイネスが見る者を安堵させる、気持ちを近づけさせるのだと思うのだ。

で、ようやく「トキカケ」の話になるのだけれど、ここで一回切ります。