Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

水戸のこと、亀田バッシングのこと

2006年08月05日 | Weblog
水戸芸術館に行って「Life」展を見た感想、を書く前に。
亀田バッシングと欽ちゃん球団の解散→存続のプロセスとが何か関係しているような気がして、それをここに書いてみたい気がして数日が過ぎてしまった。ぼくが亀田家のゴーストライターだったら亀田はここで負けの方がいい、と考えただろう。この考えは欽ちゃんが一回「解散!」と言ってしまったために解散しなくて良くなったことに繋がっている。無理矢理でも成功していくプロセスにひとは何ら良い反応を示せなくなっているというのが、いま日本的メンタリティとして蔓延しているように思う。「お膳立て」に対する拒否反応、といってもいいかもしれない。ほんとにこのことで言えば、今回の中継は「お膳立て」というか、番組作りというか、やりすぎだった。戦う前からあまりに亀田が露出しすぎている。練習風景とかはまだしも、あきらかに試合直前という時期にスタジオで撮ったろうポーズとかインタビューとかはスポーツ選手として過剰だった。そこまでしなくても、という感じだった。試合前一時間、ひたすら視聴者は「亀田家劇場」とでもいうべき番組をみせられ、すっかりアンチ亀田になったところで試合をみせられたわけだ。この番組作りは、スポーツが「生」ものであることをほとんど無視していた。もう亀田が勝つことはあらかじめ決められていたようだった。だが、いざ試合が始まると、対戦者の老獪さが際だち、それとは対照的に亀田の幼さが目立ち、それがひたすらリアルだったわけで、そのあまりのギャップに視聴者はくらくらしてしまう、ということになったわけだ(この対照性は、W杯の日本代表を彷彿させるものでもあった)。
とはいえ、この「あんまり」な番組のあとで五万五千件もの抗議の電話というのもべただ「あんまり」だ。二つの「あんまり」感に数日ぐったりとなった。勝敗に関して非常に曖昧なところがボクシングにあることは、少し続けて(テレビとかで)ボクシングを見ていた人ならば分かっているはずだ。
で、もっと「やんなっちゃうなー」と思ってしまうのは、ここぞとばかりに(つまりバックラッシュ的に)そもそも亀田のしゃべり方がなっていないとか、話を礼儀の問題にしていく人たちの存在だ。例えば、コラムニストの勝谷氏はこう書く。

>まずは日本人の一人としてファン・ランダエタ選手とその関係者そしてベネズエラ国民更には世界中のボクシングを愛する人々に深くお詫びを申し上げたい。スポーツは世界共通の言語である。そのステージに上がるものには共通した倫理や価値観を守るという責任がある。いかに愚民化が進んでいるとはいえ一応OECDの構成員でありG8の一角を占める日本国の許認可事業たる放送局やWBAに籍を置くボクシング協会が関わった試合でかくも下劣で下品で虚偽に満ちた行為が行われた事は私自身ボクシングを心から愛するものとして慙愧に耐えない。世界共通の言語で同じステージの中で行われた以上この出来事はボクシングの歴史の中に刻まれる。そして未来永劫いかなる国のいかなる時の人々もこのことを振りかえることが出来るのだ。これを日本人としての国辱と言わずして何であろう。

気づけば日本人論になっている。そこに驚く以上に、ボクシングを心から愛している人が、ボクシングの悲哀について知らないはずはない。沢木耕太郎のボクシング・エッセイを読めばすぐに、ボクサーという存在がさまざまな黒い力学のなかで生きている(そうせざるを得ないところがある)ことは理解できる。美化するところを恣意的に美化するいっぽうで、叩きたいものは恣意的に悪しきものとして拡大解釈する「大人な」やり方こそ、いかがなものか。それこそ子供に見せたくない、美しくない行為ではないか。

僕たちは、こういう自分勝手な誘導にかなり敏感になっている。いやだな、と率直に思う。でも、そんなひとばかりなので、事柄の本質が殆どかき消されてしまった世界ばかりを見せられている。すべてのテクストは誘導だ、ということも出来るかも知れない。で、あれば、結局重視するべきは、あの試合の間に僕たちが見たもの、それしかない。何を見たのか。

時間切れです。南烏山ダンスクロッシングに行ってきます。

勝谷誠彦のXXな日々。