Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

神村恵+種子田郷「うろ」(@ダンスがみたい!8 批評家推薦シリーズ)

2006年08月17日 | Weblog
最近二度ほど神村の公演を見逃していて、ようやく見られると期待した今作。普段とは異なるやや暗めな照明に普段とは異なる背中の大きくあいた黒いドレス、で普段とは異なる音響(種子田郷)。ジーンズ姿で明るめな照明、アクセント程度の音楽の使用といったいつもの神村とは異なるとはいえ、神村の本質がいままで見えてこない仕方で見えた公演だった。

それは簡単に言うとこうだ--神村のダンスはホラーである(であった。いま気づいた)。

神村のダンスは、表現的でも音楽に合わせるものでもない。ポスト・モダンダンス的にシンプルな規則(フレーズ)を反復し、その規則のヴァリエーションの展開によって時間が進む。てのひらを前にすっと差し出すとか、足先だけでくるっと半回転するとか、そうしたことを淡々と繰り返す。動いて止まるのシンプルな連続。それがなぜ「ホラー」であるのか。見ている側にもルールは分かっているのだ、けれども、そのルールがどういまこの瞬間瞬間に履行されようとしているのか、それが読めない。いつ動きだすのかが分からず、気づいたら始まり終わっている。思いの外、動きが速いのかも知れない。人差し指を伸ばした手をもう一方の腕の二の腕あたりに持っていく、という動きなど、その意味するところの不可解さはもとよりそれが気づいたら行われてしまっていることにひたすら驚愕。からっぽな脱力した体故の速さか。ともかくも、意志を欠いたつまり無頭のダンス機械が勝手に作動している、そんな感じなのだ。そしてその予期せぬ動きには、名サッカー・プレイヤーのフェイント・シーンを連続で見ているような何とも言えない快楽がある。けれども、それは同時に背筋がぞくぞくする無気味さでもある。

この無気味さは、見覚えがある。とくにあの指し示す指の感じには、、、と考えている内に分かった、これはあれだ『リング』の見てはいけない映像の質に似ているのだ。冒頭の、新聞の文字がそれぞれ大きさを変えたり蠢いたりしているあの感じ、脈絡のつかない映像の連続とその何とも言えない無気味さ。その連想が始まってしまうと、自然音、環境音を用いた種子田の音響がポルターガイストの音に思えてくるし、暗い舞台奥に何かが動いているような気がしてみたり(!)、予期できぬ動きを繰る神村が「ホラー」「心霊」とかのキーワードと重なって強く明確なイメージとなって迫ってきたのだった。

本当に、後半の真ん中あたり、体を左右に揺する神村の体が左に強く揺れて大きく傾いたとき、炎の揺らめきのように揺れながら体が飛んだ(気がした)。それは重さを持った肉体とは思えない心霊現象としか思えないような瞬間だった。本当に怖かった。「コワかわ」とかじゃなくリアルに怖いダンスというものがあるとしたらこれだ、神村の読めない動きではないか。