Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ピンク『We Love Pink!』(18日 @神楽坂 die pratze)

2006年08月23日 | Weblog
ひと様々思うところは違うのだろうけれども、ぼくにとってピンクの持ち味は「ふてぶてしいほどのかわいさ」なのである。今作で「かわいさ」はことあるごとに炸裂しつづけたわけだけれども、「ふてぶてしいほどの」という点では惜しい!と思わずにはいられなかった(その点、タイトルは十分ふてぶてしい)。
ぼくはこれまでピンクを押してきた一人である。ピンクにとってはめんどくさいファンかも知れない。けれども、ともかく応援せずにはいられないのである。それは言わずもがな、他のグループにはない可能性を感じてしまうからに他ならない。
「ふてぶてしさ」の戦略が豊かに展開されればほんといいのになあと思う。それだけ。その「毒っけ」というか観客を巻き込みつつ無視してるみたいなことが起きてくると、いいのになあ。以前、Aが彼女たちを「パンダ」と表していましたが、そのくちゃくちゃっと一体になって一心不乱に遊んでいる=こっちを無視、ってところが今のところのピンクにおいてぼくの感じる最大の魅力なのだ。それは最後から二番目くらいの夏をテーマにした歌(ノーナリーヴス?)をバックにした時間、やや出てきたものではあるのだけれど。「美しさ」に落とし込むのではなくて、何かもっと不思議なところに動きの落としどころが有るといいのに。

どうもそう考えていると、暴走というか妄想の暴走というか、これが炸裂して見ている側を置いてきぼりにする瞬間というものにぼくは何か強いリアリティを感じている気がする。というか、この「妄想」の話は、実は20日のシンポジウムのときに触れたことでもある(そこではそれ以上話題にはならず、一蹴されてしまったのだけれど、残念)。標準的で正常で誰もが共有可能なイメージに収斂していくことよりも、独りよがりの身勝手な「妄想」の暴走に強い誘惑を、今日的リアリティを感じるのだ。もちろん「暴走」に何らかの引っかかりがなきゃそんな誘惑されないのは当然なのだけれど。後日、この「妄想」のことは、どこかに(ここか、あるいはどこかに)書こうと思います。