Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

FUN! DMC

2005年08月21日 | Weblog
DMCを昨日(20日)見てきた。

まだまだ分からないことがたくさんある世界、まるでこれは異文化との接触?アロハシャツ着て、B-B0Yルックスの男の子達ばかりの恵比寿リキッドルームに紛れ込む。うあ、それにしてもDJって男の子文化だなー。女の子率一割未満のシーンなんていまどきそうとう珍しい。

バトル部門とシングル部門の二部門があって、六時から九時半までの長丁場、計17人のDJプレイを体験した。えっと、もし間違ってDJ畑のひとでここに来た人がいたら、これから書くことでごめん、おこんないでね。シロート考えだなーって笑って読んでね。いや、でも、ね、スゴイかんどーしたんだよ。それはともかくかいときたい、のだ。

バトル部門は、二人が赤と青に別れて交互に二回自分のプレイを披露する、「披露」というか、戦いなので、相手を挑発し罵倒しなぎ倒す。第一回戦は60秒、準決勝と決勝は90秒づつ。「バトル」というフォーマットで音楽を楽しむというのは、ヒップホップが見つけた粋なアイデアだと思う。「粋」ってまあお行儀の悪い四文字言葉のラッシュでもあるんだけれど(そういう発言の部分をレコード盤からつまんでくる、わけ)、それでも相手と一対一戦いあうというルールを遊ぶというのは、アート系の発想からはなかなか出てこないものだね。「アート系のダンス」というものからは、さ。でもね、そもそも、ダンスというのは兵士たちの訓練のなかから、あるいは戦いを別の形で行うためのものとして出てきためんもあるのだよ、なんだから、さ、、、と愚痴っぽくなってきた、カット!

そんで後ろの八人の審査員が赤旗か青旗をあげて即座にジャッジする。どこジャッジすんの?オレにも分かる?感じられる?って心配だったけれど、スキルのこととかわかんないなりに、「これはすごい!」とか、気づけば体が勝手に喜んでいるとか、そういうことが起こっていたりして、楽しめたし、ほとんど問題なかった。

自慢じゃないけれど、最初から優勝したCOMAのことは「いいんじゃない?」と思っていた。リズムのセンス、選曲の面白さ(ポップなものがちょいちょい顔出す感じ)、あと、体が乗れる十分安定したテク。決勝戦で闘ったHI-Cのテクもきっと相当スゴイものだったのだろうな。毎回衣裳変えて、冒頭には必ず、敵や観客をあおるギミックを入れる余裕をみせながら、ちょっとした密度の薄いところが気になっていたのだけれど、多分そこがCOMAとの差だったのだろう。

シングル部門は九人が持ち時間6分で行われた。後半は完全にばててしまったのだけれど、でもやはり優勝した威蔵はよかった。最初は、頻繁に盤を変えながら、自分で入れた?ラップをどんどん流す。それってDJでラップやりたいの?とやや消極的な気持ちになるが、後半はどんどん盛り上がってきて、もうフツーに彼のライヴ状態になっていた。「観客を巻き込む」というのをまさに体感した。やんちゃなB-BOYルックスがプレイと連動しているのも非常によかった。そうでなければ、ただのイキガリになってしまう、多分観客はそういうのを一番いやがるのだろう。準優勝のZOEは最後に出たディスアドヴァンティジにも関わらず、ほぼ一曲で観客を踊らせ唸らせる暴挙をみせ、それはまたまたかっこよいものだった。

んー、何を見て聞いていたのか、というと、多分、ひとりひとりの音楽観のようなものなのだろうな、とおもう。その新しさ、ユニークさ。ヒップホップ系のビートは確かに人気があったけれど、決してそれだけがイイというのではなくて、新しい発想の音には純粋な反応が起きていた。そういうの感じられたのは、よかったっすね。

もー、ほんとに男の子文化で、要するにスキル一直線の文化、だとはおもうのだけれど、そのスキルが実は新しい音へと向かってズレていく、はみ出していくことに捧げられていることは、特筆すべきことだと思う。瞬時に変化していくリズムの豊饒な炸裂は、非常に芸術的なトライアルに思えてくる。「芸術的」って、例えばぼくがずっと考えていたのは「セザンヌみたいじゃん」とかそういう印象だった。セザンヌの画面は、純粋に対象を最現前させることから遠ざかって、色の小さな面と面の関わりあい、そのテンションがどんどん変化していくスリルある画面だと思うのだけれど、そんな画面に似ていると思ったのだ。あるいは、キュビスム。いやいやもっと遡ってジャスパー・ジョーンズ?ともあれ、すごくデリケートなトライアルの集積にほんとに感動した。しかもそれが、はみ出しの瞬間を常に伺っていることにも。

そもそも、スクラッチってほんとに哲学的文脈からもっともっと語られるべきものだと思うのだなー。以前ここでも書いたと思うけれど、あれは唯物論だよ。観念論の決壊から顔を覗かせる唯物論だよ、レコードは何より溝なんだよ、音楽に奉仕する道具であるその陰では。と、レコード唯物論は、ジジェクを借りたりなんかして言語化したら、相当面白いこと言えるに違いない。

スクラッチとスクラッチの間にある音像が現実なのではなく、スクラッチこそが現実なのだ。「みなさーん、いま見ているのが現実でーす」(HG)ってな感じで、スクラッチこそが現実なのだ。フツーに鳴る音像は、この現実を知るために一瞬用意された安全な足場のようなもので、そこから即座にぼくたちは現実のなかにダイヴする、スクラッチのなかに。スクラッチだけじゃない、さまざまなツマミはこの現実に向かってひねられていく、のだ。

最近書いた、絵画における「ハイライト」とこの音楽におけるスクラッチは、多分重なる。なんて思いながら異様に興奮したり、して、DMC大満足な一日でした。帰りは、明治通りを渋谷まで歩いてつけ麺屋でおそーい夕食(10時過ぎ)。