kintyre's Diary 新館

野球(西武ファン)や映画観賞記等を書き綴っています。野球のオフ期には関心の高いニュース等も取り上げています。

伊良部元投手、ロスで首つり自殺!

2011-07-29 22:57:14 | 野球全般

プロ野球の千葉ロッテ、阪神や米大リーグのヤンキースなどで投手として活躍、日米通算106(日72米34)勝を挙げた伊良部秀輝元投手が、米ロサンゼルス近郊の自宅で死去していた。ロサンゼルス郡保安官事務所当局者が明らかにした。同事務所は自殺とみている。連絡が取れないことを心配した友人らの通報を受け、同事務所が27日に自宅を調べ、遺体を発見した。

香川・尽誠学園高時代には甲子園に出場し、当時からその速球はケタ違いで、浦和学院高(埼玉県)の強打者鈴木健(西武ドラフト1位)との対決は大いに話題となった。
1987年のドラフト1位でロッテ入団。スピードガン導入後、当時最速の158キロを西武球場で清原相手に記録し、清原は当時「目の前を新幹線が通過していったような速さ」と表現していた。1996年オフには、契約交渉のもつれからロッテと決別し、球団側がパドレスに独占交渉権を与えたものの、伊良部の「ごり押し」が通り、パドレスとのトレードの形で念願のヤンキース入りを果たした。この一件で日米間にポスティング・システム制度が導入されるようになった。

その後、エクスポズ(現・ナショナルズ)、レンジャーズを経て、2002年オフに阪神入りし日本球界に復帰。2003年には13勝し18年ぶりのリーグ優勝に貢献。通算成績は、日本のプロ野球で72勝69敗11セーブ、大リーグでは34勝35敗16セーブ。2004年でいったん現役引退後、2009年に現役復帰。四国・九州アイランドリーグの高知で、2試合に登板したものの、再び引退した。

マスコミで報じられているような豪快なイメージとは逆に、故人と一緒にプレイしたチームメートたちは、後輩思いで繊細な性格で野球に真摯に取り組んでいた伊良部氏のことを知っている。
私は球場で彼の投球を観戦した記憶は無いが、TV中継では彼の試合を数多く観て、その剛球の凄さはいまでも記憶にはっきりと残っているし、彼が尽誠学園高の時から注目していた。入団したのが当時は不人気球団の代表格?だったロッテだったが、その頃からビッグマウスぶりを発揮していたのはよく覚えている。
制球などの問題で一軍でエースとして君臨するまで時間がかかったが、立派な体格から繰り出される日本人離れした速球とフォークの鋭さは攻略が困難だった。念願のヤンキース入団を果たしたが、メジャーではロッテ在籍時の様な輝きを放つことは出来なかった。ヤンキース~エクスポズ時代は先発だったが、レンジャーズでは抑えとして起用されていたが故障もあって満足な成績では無かった。そんな彼に目を付けたのが阪神で、阪神の優勝に大きく貢献したがそれが最後の輝きだった。

こんな形で「伊良部伝説」は幕となったが、あの豪快な投球はいつまでもファンの記憶に留まるでしょう。冥福をお祈りいたします。

千葉ロッテ・上川誠二内野守備走塁コーチ
「西武の清原との勝負は、後ろで守っていても速かった。癖で球種が(直球と)相手に分かられても、打たれなかった。豪快に見えて、内面は繊細だった」

千葉ロッテ・薮田安彦投手
「偉大な先輩だったけど、向こうからアドバイスをしていただいた。先発としての調整法、攻め方のアドバイスをもらった。すごく優しくて、後輩思いの方だった

阪神・片岡篤史打撃コーチ
「同級生で、高校でもプロでもよく対戦した。同じチームでやってた選手がこんな形になって残念。野球が本当に好きな人だった」

オリックス・岡田彰布監督
「結構、話をしたし、野球の話をしたら止まらなかったな。投球フォームとか、こだわりがものすごくあった」

清原和博氏
伊良部とは(球速158キロを記録した)日本最速の勝負や、たくさんしのぎ合いをしてきました。だからすごくすごくつらいです。悲しいです。苦しいです。悲しすぎます


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