人は心に自分の道を考え計る。
しかし、その歩みを導く者は主である。
箴言16:9
聖書には、仏教の言葉かと見紛うような言葉が多くある。
特に旧約の『箴言』や『伝道の書』などに多い。
この2つと『ヨブ記』、『詩篇』の一部は、キリスト教では知恵文学と位置づけられている。
たとえば『伝道の書』は、冒頭にこんな一節がある。
「空の空、空の空、いっさいは空である。」(伝道の書1:2)
いっさいは空(くう)・・般若心経の一節、「色即是空」を彷彿とさせる。
この後、『伝道の書』は以下のように続く。
「日の下で人が労するすべての労苦は、その身に何の益があるか。
世は去り、世はきたる。
しかし地は永遠に変わらない。
日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
川はみな、海に流れ入る。
しかし海は満ちることがない。
川はその出てきた所にまた帰って行く。」(伝道の書1:3~7)
・・これぞ、まさしく、諸行無常・・。
「わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。~中略~
そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。」(伝道の書2:4~11)
・・・・。
これは新約のイエスの「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。」(マタイ6:25)・・という説教にも対応する。
(カテゴリー/人生覚書き:「空とぶ小鳥は」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/ffbb69e6376959b64b6161b9ae64d00b)
今一度、我々は自分の人生を俯瞰で見直す時なのかもしれない。
学生時代、この世の一大事とばかりに、あれほど騒いだ試験や受験も、今にして思えば屁でもない・・。
今、あたまを悩ませてる人生の大問題(・・と当人が思ってるコト)も、意外と過ぎてみれば、そんなものかもしれない。
「わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
わたしは知っている。
人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
わたしは知っている。 すべて神がなされる事は永遠に変わることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。 神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。 今あるものは、すでにあったものである。 後にあるものも、すでにあったものである。
神は追いやられたものを尋ね求められる。」(伝道の書3:10~15)