Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

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己の如く人を愛せよ

2009年08月09日 | 人生覚書き

     

        如己愛人

               永井隆

医学博士でクリスチャンの永井隆は、自身も被爆しながら、その著書『長崎の鐘』の中で、「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」と述べ、「原爆投下は人類の罪悪の償いの生贄」であると主張した。

それは、1人の神を信じる人間として、彼自身も人類の悲劇の犠牲者として、広島、長崎の人々に対する慰めの意味での言葉だったのであろう。

 

医学を志し、旧制長崎医科大学(現長崎大学医学部)卒業後、放射線医学教室に在籍、放射線物理療法の研究に取り組んだ。

浴び続けたラジウムの放射線によって白血病を患い、余命3年の宣告を受けた年に長崎で被爆。

病床に臥したまま、原爆症の研究と執筆活動を続け、昭和23年春、浦上に完成した如己堂(にょこどう)に移り住んだ。

この二畳一間の小さな庵は、聖書の一節、「己の如く人を愛せよから名付けられ、『この子を残して』『ロザリオの鎖』『生命の河』『長崎の鐘』など数々の名作をここで生み出した。

 

原爆症の研究のために自らの体を実験台として供し、収入のほとんどは貧しい子供たちや原爆症に苦しむ人々のために費やしたという。

 

ちなみにこれは平和記念資料館1階に展示されている長崎の鐘の模型。

その説明にこうある。

「爆心近くにあった浦上天主堂も原爆により一瞬に崩れ落ちたが、その廃虚の中にただ一つ無傷の鐘が残った。そして、朝に夕に絶えることなく鳴り響く鐘の音は、希望と平和の鐘として、復興に立ち上った市民を大きく力づけた。

長崎市民の平和のシンボルとなったその鐘は、今日も山里の丘に美しく鳴り響いている。」