最近、ある人の格闘技論を読んだ。
川原正敏という、かつて『修羅の門』という格闘技マンガを描いていた漫画家である。
それによれば、格闘技と他のスポーツは、そもそもその”成り立ち”が違うという。
他のスポーツはどれだけ激しく、「フィールドの格闘技」「水上の格闘技」と言われようが、とにかく、まずルールがある。
これに対し、格闘技や武道というものは、まず「相手を倒す」「相手を制する」という戦う術として生まれ、競技する上で、試合のルールをあとからつけたというのだ。
だから、異種格闘技戦というものは、基本的に存在しない。
格闘技の目的が「相手を倒す」「相手を制する」コトにあるのだから、「グローブをつける」、「投げや関節は禁止」というルールも、ただ戦う「条件」「状況」がそうだというだけで、ひとつの状況にすぎない。
その中で柔道なり、空手なり、その技をもって戦っているのだ・・と。
柔道からプロ格闘家に転向した吉田秀彦も、打撃も使うが、基本的には柔道で戦っているという。
それは当然そうだろう。
実際、今は「異種格闘技戦」という言葉はあまり聞かれなくなった。
「総合格闘技」という「打」「投」「極」すべて使える自由度の高いルール、条件の中で、様々な分野の格闘家が交流できる土壌ができ、自分の格闘技、得意とする技術で戦うという認識が浸透してきているからだろう。
だからこそ、グラップラー、ストライカーといった呼び分け方もあるのだ。(カテゴリー/格闘技:「朝青龍、5場所ぶり復活優勝!」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/d0adef8be9bf826a0b75bd4b0eb935fa)
・・そういう成り立ちが違う格闘技だけに、直接、本能に訴えてくる魅力がある。
「強くなりたい」という欲求。
これは、何もケンカが強い、腕力が強い・・というコトだけにとどまらない。
精神的に強くなりたい、人間的にもっと強くなりたい・・という純粋な思いに、最もストレートに、直接的に訴えてくるのが、自分にとっては格闘技なのだ。
これが人によってはマラソンだったり、サッカーだったり、野球だったりするのかもしれないし、人生こそ、格闘技そのものなのかもしれないが・・。
「自分は弱い」という自覚がある人の方が、「もっと強くなりたい」という思いから、格闘技をしているコトが多いのではないか?
自分の弱さや痛みを知っていれば、人にやさしくできる。
人にやさしくできる人は、強い人だ。
個人的な経験からも、格闘技をしてる人は、根はやさしい人が多いように思う。
自分の夢の1つに、いずれ格闘技の道場でもやって、子どもを教えたい・・というのがある。その前にだいぶブランクがあるので、自分自身、もう1度鍛え直さなきゃだが・・。
しかし、殴りあうのはどうも・・という人も多い。
特に女性なんかはそうだろう。ウチの奥さんも格闘技とか大嫌いで、その手の試合は録画したのをあとで一人で見る・・という具合だ。
まあ、「なぜ格闘技なのか?」「なぜ殴りあうのか?」・・という疑問に対しても、いろいろ理由をつけるコトはできるかもしれないが、要は単純に「好きか」「嫌いか」という話になってしまう。
格闘技が好き!
・・自分はそれでいいんだけど、嫌いな人にその魅力を伝えるコトはなかなか難しい・・。
そして、今もって自分の奥さんに対するその試みは成功していない・・。
・・ひょっとしたら、夫婦間以上の「異種格闘技戦」はないのかも・・。
これはどんな格闘技をするより、あるイミ鍛えられるよね・・。