対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

意味と価値

2016-10-26 | ノート
古い記事を見直している。「ひらがな弁証法2010」の注15意味と価値において、『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明著)を引用していた。
(引用はじめ)
わたしのかんがえからは、言語の意味と価値との関係はつぎのようになる。つまり、言語の意味は第5図のaの径路で言語をかんがえることであり、言語の価値はbの径路で言語をかんがえることである。
(引用おわり)
ところが、かんじんの第5図がないのである。第5図は言語の意味と価値の関係を示したものである。四分円の中に屈曲した矢印がひかれている図なのだが、これがないのである。意外に思われた。この図に以前の記事でふれた記憶あった(調べてみると「自己表出と指示表出」2005年)。CPの画像ファイルを調べたがなかった。gooの画像ファイルもみたがなかった。最初から作っていなかったのかもしれない。
それで今日スキャナーで読み込んだ。
   
同時に懐かしい表現も読むことになった。
(引用はじめ)
言語表現を『経哲手稿』のマルクスのように「人間の本質力の対象化された富」といってみれば、この対象化された表現をbの経路でかんがえるとき、言語表現の価値を問うているのであり、aの経路でかんがえるときその意味を問うているのである。(中略)
じじつ、指示表出からみられた言語の関係は、それがどれだけ云わんとする対象を鮮明に指示しえているかというところの有用性ではかることができるが、自己表出からみられた言語の関係は、自己表出力という抽象的な、しかし、意識発生いらいの連続的転化の性質をもつ等質な歴史的現存性の力を想定するほかはないのである。
(引用おわり)
「ひらがな弁証法2010」の注15意味と価値には、いまのところ図はないままである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿