まず最初にお断りさせて頂きますが、今日の記事は史料的裏付けはなく、単に私の推測で書かせて頂いていますので、史実とは異なる可能性がありますので、ご注意下さい。実際今日は、この推測をだらだらと書き続けているだけなので、はっきりとした結論が出ていない、あまり意味の無い記事ですので、ご了承下さい。
先日「慶応四年四月五軍押前行列」に書かれている、慶応四年四月時点での米沢藩兵の編成を書かせて頂きました。あの時は編成だけを書かせて頂きましたけれども、ここでこの編成について色々考えて(妄想)してみたいと思います。
まず中条豊前やら大井田修平など、後の戊辰戦争でも大隊長で活躍した者達が大隊長となった一之手~五之手の4個大隊(尚、四之手大隊が存在しないのは、やはり「四=死」となるから避けたのでしょうか)、何となくこの四つは侍組・馬廻組・五十騎組・与板組の米沢藩上級家臣によって編成された、米沢藩の主力部隊の感があります。もっとも実際には米沢藩兵の大隊長・軍監・小隊長と言った士官の多くは、米沢藩家臣団の頂点に立つ侍組から抜擢されているので、実際に侍組で小隊を構成するのは不可能なんですよね。尚、米沢藩家臣団についての説明は北越戦争第二章の記事を参照下さい。
次に一之大隊~三之大隊の3個大隊。この三個大隊は藩主一門やら大身の長尾権四郎が大隊長を務めているので、そう言う意味では藩主の親衛隊、言わばエリート部隊と言った印象があるのですけれども、小隊長の顔ぶれを見ると、むしろ○之手大隊の方がエリート部隊と言った印象を感じてしまいます。また組外である徳間久三郎が一之大隊中の小隊長を務めている事を考えても、藩主直属の親衛隊とも言えない気がするのですよね。ただし組外と言えども、徳間久三郎は北越戦争に関する詳細な日記を残してくれているので、歴史研究の面では後世に多大なる貢献をしてくれた人物と言うのを明記させてさせて頂きます。
そして御視兵隊・軍政府直属・奉行府直属の三部隊、正直この三部隊が一番判り難いのですよね。あえて推測を書かせて頂くとしたら、この慶応四年四月五軍押前行列と言うのは、戊辰戦争参戦前のセレモニーであり、この三部隊は言わば「馬廻」の役割だったのではないでしょうか。実際この三部隊の小隊長の大半は、その後の戊辰戦争史で殆ど名を見ないので(高野広次や畠山修造や山本寺亀太は除く)、この三部隊が戊辰戦争中は藩主親衛隊になったのではないでしょうか。
さて、それぞれの部隊についての推測を書かせて頂きましたけれども、上記のように○之手大隊と○之大隊を合わせて、米沢藩は開戦前に7個大隊を保有していました。そして実際に北越戦争で米沢藩出兵時から編成されていた大隊も、参戦時に出兵した中条豊前大隊と大井田修平大隊、そして総督色部久長直属の3個大隊、また新庄に出兵した本庄昌長大隊、後に北越戦線に援軍と派遣された横山与一大隊と江口縫殿右衛門大隊、そして上杉主水直率の大隊(ただし「五軍押前行列」時の、主水が大隊長を務めたニ之大隊とは編成が全然違う)の計7個大隊と、一応大隊数は「五軍押前行列」時と同じなんですよね(余談ながら北越戦争終戦時には、既存の大隊を分割整理して、前線で新たに大隊を再編成しているので、7個大隊より多くなっています)。
しかし大隊数が同じと言っても、「五軍押前行列」時の大隊編成と、参戦時の大隊編成が違うと言うのは前回書いた通りです。しかしこれも中条豊前大隊(ニ之手大隊)や上杉主水大隊(ニ之大隊)が、参戦時の編成と全然違う部隊もあれば、大井田修平大隊(一之手大隊)や江口縫殿右衛門(三之手大隊)のように「五軍押前行列」時の大隊編成と、参戦時の大隊編成があまり変わらない大隊もあったりします。特に江口縫殿右衛門(三之手大隊)は「五軍押前行列」時の大隊編成から、幾つかの小隊が引き抜かれただけで、新たに増えた小隊長は居ないのですよね。
このように「五軍押前行列」時と実際の参戦時の大隊編成が違うと言うのは判って頂けると思います。しかしそうなると開戦前と言う大事な時期に何故大隊編成を変更したのかと言う疑問ですね。思うに「五軍押前行列」はあくまでセレモニーで、セレモニーが終了して問題点が判ったので、新たに再編成したと言う事でしょうか。
「慶応四年四月五軍押前行列」に対する考察は今回で終わりとさせて頂きますが、いつかじっくり読み込んで、米沢藩兵の編成についてのドクトリンまで踏み込めれれば嬉しいと思っています。しかし、あの変化を嫌った封建時代にも関わらず、実戦を経験した訳でも無いのに、全藩兵の再編成を実行する柔軟性が米沢藩にはあったと言うのは特筆すべきだと思います。