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ゲストハウス・プリ / Guest House Puli

日月潭、廬山温泉、合歓山(登山)等へ向かう拠点になる町≪埔里≫で生活する日本人オーナーの個人日記。

おい、待て!

2016年05月10日 | 日記
3メートルぐらいの蛇

『逃げた魚は大きかった』..... 
かなりの’大物’でした。全体を撮影できなくて非常に残念です。
見かけた時は全体が道端に出ていたのですが、近づくと急いで脇に逃げ込んでしまいました。



【本題】
日本統治時代に原住民居住区(武界)で医療活動に奮闘した日本人医師(男性)がいました。
この地区への任務を受けた時、奥様も同行された様で日本人が2人だけと言う過酷な環境で生活をしていたそうです。
近隣の原住民をいくつも担当していたらしいのですが、なんせ時代が時代。どこへ行くにも歩くしかない状況だったそうです。
多くの人たちがこのお医者さんに助けられた事は間違いないでしょう。

昨年の事ですが、その医師の娘さんが私に連絡を取って来ました。
彼女は今は亡きご両親の『軌跡探し』を嘆願していたので、私も微力ながらお手伝いさせていただきました。
今回の何としても探し出したかった場所は、『当時の診療所』と『医療活動で訪れていた』等です。


先ず、私が事前にいただいた資料から推測した’出張診療’をしていたと思われる原住民へ行って来ました。






当時の資料とは表記漢字が違いますが、現在の中国語発音では同じ発音のです。場所は日月潭の少し手前、間違いないでしょう。


次に探しに向かった場所は、当時『武界』と呼ばれていた場所です。
大体の目安がついていたので、直接現地へ出向き住人に以前の地名などを確認したところやはり現在の『法治村』でした。



ありました!『当時の診療所』です。
建物は100年ぐらいは月日が経ってそうです。当時を思い出して手書きされたの地図上には、学校や警察署が記されていて、診療所はその隣との事でした。今も学校の正門のすぐ向かいにこの診療所の建物が残っていました。


ついでにこの辺りを流れている川『濁水渓』に飲み込まれてしまった昔の『日本人居住区跡』も見て来ました。


この川の50メートル近く下には、今も日本人が住んでいた当時の神社や警察署、学校などが沈んでいるそうです。
写真(拡大)は、当時あった『吊橋の橋桁』です。今でも上部分が川から突き出しています。
この川の下に日本人村が沈んでいると思うと、ちょっと寂しくなりますね。

この辺りで当時日本人として警察官をされていた山根さんです。

今年93歳、私も時々この辺りを訪れた時には顔を出すようにしています。


今回の一件で娘さんは、ご両親の軌跡を辿る事ができて非常に喜んでおられました。
私も微力ながら協力できて、嬉しい気持ちになれました。




コメント
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