ゲストハウス・プリ / Guest House Puli

日月潭、廬山温泉、合歓山(登山)等へ向かう拠点になる町≪埔里≫で生活する日本人オーナーの個人日記。

日本統治時代の日本人集落:干卓萬社

2014年12月06日 | 名所案内
(干卓社萬社/50年以上前の日本人集落跡)

今は川が増水して埋没してしまいましたが、50年以上前に川の向こうの山の麓に日本人集落が存在していました。

本日は貴重な体験をして来ました。最近日本に住んでいる日本人のお客さんから、50年以上前(日本統治時代中)に住んでいたと言う卓社地区についてのお問い合わせがありました。この辺りには濁水渓と言う川が流れていて、当時そのすぐ横には『日本人集落』が存在していました。当時の日本人たちは、この濁水渓を堰き止めてダムを建設し、水力発電を行っていました。ダムの水は日月潭の貴重な水源にもされていました(現在もですが)。
そのダム工事を請け負っていたのが鹿島建設でした。

当時、この川(濁水渓)の川幅がだんだん拡大していったようで、何度となく移住を余儀なくさせられていたそうです。今回問い合わせがあった日本人いた居住区は、ピンクのエリア(干卓萬社)です。今はすでに川の底に埋没してしまっています。話によると50mぐらいは底になるだろうとの事です。


上の地図は、当時の貴重な資料です。川を挟んで向こう側に日本人集落が存在していました。この集落には、神社や交番なんかもありました。

本日、幸運な事に当時の記録を記録した89歳の方と知り合う事ができました。
【田銀旺さん(日本名:山根太郎)/89歳】

彼は日本統治時代、警察官として信義区から派遣された警官だったそうです。当時上司(警察)からの命令で、この辺りの事を後世に伝えるために記録として残すように言われ長い年月をかけてまとめたそうです。

全て日本語でまとめられていました。内容は非常に興味が湧く事が多く(私は)、時間を忘れて文章に没頭していました。特に『祖先物語』としてまとめられている一冊には、この土地の人たちの生活習慣や物語なんかも多数記載されていて面白いです。
私にも一冊くれたので、読みたい人は私の宿に来て下さい【商売がらみみたい(笑)】。

とても89歳には見えません。足取りもしっかりしていて60代ぐらいにも見えます。

田銀旺さん、次回は私の宿に遊びに来てくれると約束をしてくれました。

遠くに見えるのが、日本統治時代に建設されたこの辺りのダムです。

コメント (5)
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