西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ハイドン

2007-03-31 14:37:18 | 古典派
今日は、オーストリアの作曲家ヨーゼフ・ハイドンの生誕日です(1732年)。
ハイドンは、いわゆる古典派に属する作曲家で、ソナタ形式による作品を交響曲、弦楽四重奏曲などの分野に数多く残しました。77歳と言う長寿に恵まれたこともあり、その作品は膨大な数に上る。番号を付けられたものをあげると、
交響曲104曲、弦楽四重奏曲83曲、ピアノ三重奏曲45曲、ピアノ・ソナタ52曲、ミサ曲12曲といった具合である。このほかにも歌劇約20曲、ディヴェルティメント200曲を越えるであろうか、チェンバロ、バイオリン、チェロなどの協奏曲20曲以上、歌曲40曲ほど、このほかに傑作のオラトリオ「天地創造」と「四季」、と驚くほどの作品群である。現在我々は幸いなことにこのうちの多くをCDなどで聴くことができる。交響曲、弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲、ピアノ・ソナタ、ミサ曲などはCDの全集の形で手に入れられる。LP時代と異なり、片手に持てるほどのボックスに入った全集である。実にありがたいことである。
さて、作品が多いと、マンネリズムに堕すきらいがあるのではなどというのは、ハイドンを知らないものの言い方に思われる。例えば、交響曲第101番「時計」、これはその第2楽章ゆえにニックネームがつけられたが、これが実にスマートにきこえ、格調の高さが感じられる。これのみならず、最後の93~104番の12曲はよくセットで取り上げられるが、これは一つ一つが傑作と言っていいだろう。
よくクラシックの入門曲としてベートーベンの「運命」交響曲を上げるものがいるが、私はいつもそれに相応しいのはハイドンのこれらの作品ではないかと思う。「運命」は決して入門の曲ではない。ハイドンの交響曲、それに弦楽四重奏曲がその役目を果たすと私は考えている。

バッハ「復活祭オラトリオ」

2007-03-30 10:16:35 | バロック
この時期、キリスト教会では、復活祭があります。春分以降の満月のあと最初の日曜に行われる、ということです。可能性としては、3月22日から4月25日ということのようです。今年は、いつなのだろう。まだニュースなどでは耳にしてないようですが。
大バッハの作品に「復活祭オラトリオ」(BWV.249)というのがあります。説明を見ますと、世俗カンタータ(BWV.249a)より転用、とあります。このように、教会作品には世俗作品からの転用が多いようです。しかし、その逆、世俗作品には教会作品からの転用はないというのをどこかで読んだような覚えがあります。自分でも調べてみたいと思っているところですが。



ベートーベン「レオノーレ序曲第3番」

2007-03-29 10:00:30 | 音楽一般
今日は、ベートーベンの「レオノーレ序曲第3番」が初演された日です(1806年、ウィーン)。
ベートーベンは、1814年に唯一の歌劇「フィデリオ」を上演したが、これは元々は「レオノーレ」と呼ばれる歌劇で1805年に上演された。このときの序曲は「レオノーレ序曲第2番」である。3回上演されたが、評判が上がらず打ち切られた。そのため、翌1806年、改訂版を作り上演した。この時の序曲が「レオノーレ序曲第3番」である。これも成功せず、2回で上演が打ち切られた。それから8年後、更なる改訂を加え、タイトルも変え上演された。歌劇「フィデリオ」の誕生である。今度は、16回も上演されるほどの大成功となった。この時の初演では、序曲に「アテネの廃墟」の序曲が使われ、第2回公演から使われたのが、「フィデリオ序曲」である。では「レオノーレ序曲第1番」はどうしたのかというと、これは1807年に作曲されたが、初演されたのは作曲者の死後の1828年で、この時作品番号は138と最後の作品番号が打たれた。このように歌劇「フィデリオ」は全部で4つの序曲が作られ、最終版では「フィデリオ序曲」で開始し、No.16の前に「レオノーレ序曲第3番」が演奏される形になった。なんともややこしい歌劇「フィデリオ」の序曲である。

「レオノーレ序曲第3番」であるが、多少音楽を聴き始めベートーベンの音楽に夢中になり始めた頃の高校時代であったが、あるとき周囲のもので、この「レオノーレ序曲第3番」の名を言うものがいた。第3番というからには1番2番もあるわけで、第3番が何を意味するのか分からないといった所だった。この名を口にしたものは自分より下なのに良く知っているなあなどと、そんなことを思ったのをこの作品名を見ると思い出します。それからは、誰にも負けないくらいベートーベンを知りたく思い、生誕200周年記念で発売されたレコード全集(12巻87枚)を買うまでになりました。そしたら、そこには宝の山と言うか、本当に人類の遺産とも言うべき偉大な精神の調べがありました。そしてますますベートーベンをいろいろ勉強したくなり、また自分でも演奏できたらと思ったのがこの頃だったと思います。



ベートーベン「プロメテウスの創造物」

2007-03-28 09:57:30 | 音楽一般
1801年の今日、ウィーンでベートーベンのバレエ音楽「プロメテウスの創造物」が初演されました。(手元の別の本を見ると、3月21日初演とも出ていますが。)
プロメテウスとはギリシア神話に出てくる神の名で、その創造物とは、実は人間のことをさしています。このバレエ音楽は序曲と16曲からなっていて、その序曲のみがよく取り上げられ演奏されますが、最後の第16曲、これも有名な旋律です。というのは、この旋律が第3交響曲の終楽章にも使われているからです。ベートーベンはこの旋律をよほど気に入ったらしく、後に「エロイカの主題による15の変奏曲とフーガ」というピアノ独奏用の曲も作曲しました。
ところで、ベートーベンは、このころ創造主であるプロメテウスおよび「プロメテウスの創造物」の1人である自分の存在を、何回となく呪うということを手紙に書いています。耳の病気のためです。いろいろ医者の手当てを受けたが、このころひどく弱くなってきたということだ。しかし、魅力的なジュリエッタ・グイッチャルディにピアノを教えているうちに、一時的であれ幸福な時を感じるようになったのもこの時期であった。このバレエ音楽が初演された時は、世紀の変わり目であると共にベートーベンの中でも大きな転換点であったように思う。



ロストロポービチ

2007-03-27 14:50:41 | 音楽一般
今日は、ロシアの生んだ世界的チェリストのムスティスラフ・ロストロポービチの生誕日です(1927年)。ということは今年、80歳です。しかし、依然として衰えも見せず活躍していることは嬉しいことです。
私は、チェリストとしてはもちろんですが、人間としてロストロポービチ氏を偉大な人物と考えています。なぜこのような偉大な者がいて、あのような自由を抑圧する体制が出来、また70年も続いたのか。長年の謎です。彼が反体制作家のソルジェニーツィン氏擁護の先頭に立ち活動していたことは知られたことだが、私には上のような疑問が起こらざるを得ない。ロストロポービチ自身が闇に葬られることがなかったのは、すべてその才能のお陰だった。権力側が手を出せなかったということである。
ロストロポービチがリヒテルと組んでベートーベンのチェロ・ソナタ全曲を残してくれたことは大いに喜びとするところである。他の多くのチェリストもチェロの新約聖書ともいうべきベートーベンのチェロ・ソナタ全曲を出しているが、どうあっても彼ら2人を越えることはあるまいと考えている。その旧約聖書たるバッハの無伴奏チェロ組曲6曲をもう今となっては何年も前になるが、録音し残してくれた。これはフランスの名もないような教会を使って映像と共に残してくれた。いつ全曲を録音するだろうかと、待ち焦がれていたものだった。予想通りこれも群を抜いて素晴らしいものだった。しかし、録音場所が気になって、あまり高い評価をされていないのではないか、などと思っている。素晴らしい内容なのに。(私の目に止まってないだけかな。)
ロストロポービチは、大曲だけでなく、チェロの小品集も出しているが、フォーレの「夢のあとに」など彼の演奏に勝るものがあるだろうかと思う。

ベートーベン「喜劇は終わった」

2007-03-26 09:21:14 | 古典派
今日は、ドイツの楽聖ベートーベンの亡くなった日です(1827年)。
この日の午後5時45分ごろのことと言う。臨終の家となったシュヴァルツシュパニエルハウスの庭には雪が積もり、5時頃には激しい雷鳴を伴って稲妻が光ったと言う。その時、ベートーベンは昏睡から覚めて目を開き、右手を上げ、握りこぶしを作り上を見つめていた。その右手をベッドに落とした時、目も閉じられそれから亡くなったという。いかにもベートーベンらしい最後と思う。
「喜劇は終わった」の言葉は、その死に先立つ3日前に発せられた言葉だ。この言葉についていろいろ解釈されているが、周囲にいた医師たちがラテン語で協議をした後部屋を去ろうとした時に、ベートーベンが「諸君、喝采し給え」と言う言葉のあとに続けて言った言葉である。諧謔的な精神の持ち主であるベートーベンが放った言葉で、それほど大きな意味合いを持たせることはないように思うがどうだろうか。全生涯を振り返って言ったものだと捉える仕方も行われているが。
葬儀は、3日後の29日に執り行われ、ウィーン市中から集まった2万人もの人たちがベートーベンとの最後の別れを惜しんだ。その中には、シューベルトもいた。寺院での葬儀の後、ヴェーリング墓地での埋葬の前に、友人で劇作家のグリルパルツァ-の長文の心のこもった弔辞が読み上げられた。
1845年、故郷のボンに記念像が建設された。この時、除幕式では、次のような演説が読み上げられた。
「彼の墓前で泣く妻もなければ、息子も娘もない。だが世界が泣いた。」と。



バルトーク

2007-03-25 14:57:46 | 音楽一般
今日は、ハンガリーの偉大な作曲家バルトークの生誕日です(1881年)。
バルトークは、管弦楽曲や室内楽曲、それに数多くのピアノ曲の作曲家として有名です。最初期の頃の作品に交響詩「コッシュート」というのがあります。作品番号が付けられていません。まだ音楽家として立つことにためらいがあったからなのか。しかし、バルトークにとってこの作品は書かずにはいられなかった音楽だったと思います。当時、リヒャルト・シュトラウスにより一世を風靡していた交響詩の世界は作曲者にとって都合の良いものでした。コッシュートは、ハンガリーの民族主義者の名前です。バルトークの生まれた頃のハンガリーは、まだ正式な独立国家ではありませんでした。隣国ハプスブルク家の支配するオーストリアのもとに置かれていました。そこに立ったのが、「ウィーンの支配が除かれない限り、真の進歩はない」と主張したコッシュートだった。1848年のウィーンにおける3月革命は当然ハンガリーにも独立の気運をもたらした。独立戦争である。翌49年4月14日、独立を宣言した。この時、統治者に選ばれたのが、コッシュートである。しかし、老獪なハプスブルク帝国のフランツ・ヨーゼフ1世はロシア軍に支援を頼み、8月13日、ハンガリー軍は降伏し、コッシュートは国外に亡命した。わずか4ヶ月の独立国家ハンガリーだった。この後、ハンガリーが独立するのは、第1次大戦によりオーストリアが解体した後のことだった。
バルトークは、一般に難解な作品(弦楽四重奏曲など)を作曲する音楽家として有名だが若い頃より、自国ハンガリーや隣国ルーマニア、スロヴァキアの民俗音楽の蒐集に没頭し、ピアノ曲や合唱曲、歌曲などにその成果を表している。バルトークには自分の生まれ育ったハンガリーのみならず広く東欧の地に流れる民俗的なものはどうしても切り離すことのできないものであったのだ。この傾向は晩年まで続いた。しかしここでもまた戦争の悲劇が訪れた。1940年、バルトークは、ナチズムを嫌いアメリカへと移り住んだ。そこで、貧困と戦いながら傑作「管弦楽のための協奏曲」を作曲した。そして、欧州での戦乱が終って程なくして、バルトークは亡命の地ニューヨークで白血病のためなくなった。
バルトークは、音楽のみならず語学においても天才であった。14ヶ国語を操ったと言うことである。ある時、人にわからないようサンスクリット語でメモを取ったという話を本で読んだことがあるが、本当だろうか。



グラナドス

2007-03-24 15:54:07 | 音楽一般
今日は、スペインの作曲家エンリケ・グラナドスの亡くなった日です(1916年)。グラナドスは、アルベニスとほぼ同時代のピアニスト兼作曲家です。この年の2年前、欧州では第1次世界大戦が始まりました。14年6月28日オーストリア皇太子夫妻を狙った数発の銃弾と共に。その後瞬く間に欧州の大部分が戦場となった。当然海上でも戦闘行為は行われ、イギリスにとって最大の脅威は、ドイツ潜水艦だった。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場における歌劇「ゴイェスカス」の初演を終え、イギリス客船で帰路についたグラナドスは、このドイツ潜水艦により沈められたのであった。スペインの民族色が濃いピアノ作品などに彼の特色が表れている。グラナドスは、戦争の犠牲者だったのである。
実は、第2次世界大戦でも、戦争の犠牲者となった作曲家がいた。それがなお悲劇的なのは、戦争が終っていたからである。新ウィーン学派の1人アントン・ウェーベルンは、大の喫煙家だった。闇で入手したタバコに火をつけたところを駐留米兵により誤って射殺された。欧州における大戦は、2度までも音楽史に名を残す作曲家の悲劇を生んだのであった。

チャイコフスキー「ピアノ三重奏曲」

2007-03-23 09:39:26 | 国民楽派
今日は、ロシアの作曲家チャイコフスキーの「ピアノ三重奏曲」が初演された日です(1882年、モスクワ)。
この「ピアノ三重奏曲」は「偉大な芸術家の思い出に」という副題で知られています。「偉大な芸術家」とは、前年にパリで亡くなった友人のニコライ・ルビンシテインのことで、彼の死を悼み作曲されたものです。ルビンシテインは、当代一流の音楽家で、「ロメオとジュリエット」など数多くのチャイコフスキーの作品を初演するなど良き理解者であったが、有名なピアノ協奏曲第1番を酷評されたために献呈を取り消すなど仲たがいしていた。チャイコフスキーはニース滞在中に彼の死の知らせを聞き、急ぎパリに駆けつけた。パリでは今度は皇帝アレクサンドル2世が暗殺されたとの知らせを受け、2重の悲しみを受けるのだった。
ロシアの作曲家による「ピアノ三重奏曲」は、不思議と「死を悼む」系譜があるようだ。チャイコフスキーが1893年になくなると、今度はラフマニノフがニ短調の「第2番」を書いた。これは「悲しみの三重奏曲」と呼ばれている。ショスタコービチにもある。「第2番 ホ短調」で、親友のソレルチンスキーに捧げられた。

メンゲルベルク

2007-03-22 11:01:44 | 音楽一般
今日は、オランダの大指揮者ウィレム・メンゲルベルクの亡くなった日です(1951年)。
メンゲルベルクは、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(ACO)を50年にわたって指揮者を務めていたことで有名です。それだけの才能があったからできたことでしょう。エルネスト・アンセルメが、同じくスイス・ロマンド管弦楽団を50年指揮していたのと比べられる音楽史上に名を残す出来事と思われます。
メンゲルベルクの特徴は、思いのままにテンポを変え、際立ったカンタービレ奏法、ポルタメントの多用にあると思います。多くの人たちがそう述べているのを見ます。私は、ベートーベンの交響曲全集を所持しているだけですが、1度聴いただけでもそのようなメンゲルベルクの特徴が感じられました。もちろんその演奏に作曲者の意図を掴んだ内容がなければ以上のような特徴も何も意味無くなってしまいますが、メンゲルベルクの演奏は、やはり当代の人たちからも正しく理解されていたように、素晴らしい内容を伴った演奏と思われました。現在は、このようにテンポを揺らして自分の持つものを表現すると言う傾向が失われているように思われるので、彼のような演奏家は貴重に思います。チャイコフスキーの「悲愴交響曲」や「マタイ受難曲」も聴くべきでしょうが、残念ながら今は手元にありません。
さて、このような稀代の名指揮者メンゲルベルクですが、第二次大戦後、そのACOの指揮者の地位を追われます。対独協力という名目らしい。フルトベングラーやカラヤンなどを思い起こします。大戦をはさんだ時期の音楽家の処遇については、戦後60年の歴史的変動などを見ると、どの程度正義に基づいて行われたかなどと思うことがあります。戦後勝ったと思われた国も消滅したということであればなおさらです。音楽家がどれほど関与したのかは定かではありませんが、カラヤンなどの伝記を読むと、自分の才能一つで道を切り開いてきたのではという感があります。
メンゲルベルクというと、その才能ゆえ、多くの作曲家から作品を献呈されていますが、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」に私の注目がいってしまいます。なぜか、このタイトルがメンゲルベルクの生涯を語っているように思うからです。