西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ヴェルディ・歌劇「アイーダ」

2007-12-24 08:52:00 | オペラ
今日は、ヴェルディの歌劇「アイーダ」が初演された日です(1871年、カイロ)。
このオペラの第二幕の「凱旋行進曲」は多くの日本人に知られているだろう。そう、日本代表サッカー・チームの応援歌となっているのだ。誰が始めたのか知らないが、確かにこれはそれに相応しい音楽と言ってよいだろう。トランペットが高らかに鳴り渡る。行進曲は世に数多くあるが、この凱旋行進曲は高貴さではどれにも負けないものと思っている。歌劇「アイーダ」は他にも「清きアイーダ」「勝ちて帰れ」「おお、我が祖国」など有名な旋律が溢れた傑作です。ヴェルディは今さら言うまでもないがイタリアを代表する歌劇作曲家です。
今では、誰しもそのように考えるが、初演当時、この前奏曲はワーグナーの「ローエングリーン」の焼き直しであるとか、第二幕の行進曲はマイアーベーアの複製(戴冠式行進曲を指すか?)だとか、ワーグナーとグノーをイタリア風に焼き直したものですぐに忘れ去られるだろうとか、驚くような言葉がイタリアの新聞には載せられたということだ。しかし、3月下旬まで24回上演されたということで大衆はこのオペラの良さがわかっていたのだろう。
この歌劇は、サッカー・チームの応援歌と言うことで、日本とは結びつきが強く感じられるが、日本と関係するのはこのことだけではない。この行進曲で使われるいわゆる「アイーダ・トランペット」の製作を日本の楽器製作会社が行っていると言うことだ。ウィーン・フィルハーモニーからの依頼で8本(?)製作したというようなことを聞いたことがあります。(記憶で書いています。)またもう一つ、この「アイーダ」を初演したカイロの劇場はわりと最近のこと、全焼してしまったという。そしてその再建に日本は多くの財政補助を与えたということだ。そして再開して後、日本人指揮者が「アイーダ」を指揮するのに呼ばれたと言うことです。(これはつい最近聞いたように思います。)
私は、このイタリア歌劇を代表すると言ってよいオペラ「アイーダ」を幸運にも2度見ています。一度目は、本場イタリアのあのカラカラ劇場でです。ローマ時代の浴場が今は劇場として使われていて観光客相手に夏に公演を行っています。行進の時象が出てきて驚いたのを覚えています。確か9時から始まり、終演は12時を回っていました。2度目は、日本でです。これも本来の劇場ではなく、何と代々木体育館での「アイーダ」公演です。この時は、抽選に当たって行ったのです。迫力満点の公演だったのを覚えています。この公演は少し後にテレビ(フジ)で放送しました。勿論録画して、今ではDVDに収めています。
ヴェルディは、この後悲劇と喜劇の最高傑作とも言うべき「オテロ」と「ファルスタッフ」を生涯の総決算として書きます。「アイーダ」もそれらと同様、間違いなく傑作と考えてよいでしょう。

画像は、代々木での公演の幕間に飲んだワインのグラスです。

チャイコフスキー・歌劇「スペードの女王」

2007-12-19 09:29:32 | オペラ
今日は、チャイコフスキーの歌劇「スペードの女王」が初演された日です(1890年、ペテルブルク)。
チャイコフスキーの歌劇では、第5作「エフゲニー・オネーギン」が特に有名で、次がこの第9作にあたる「スペードの女王」でしょう。チャイコフスキーは全部で、10作ほどオペラを書いていますが、初期のオペラはあまり舞台にのることはないようです。「エフゲニー・オネーギン」がやはり最も重要な作品で、私も好きなオペラの一つですが、第6作にあたる「オルレアンの少女」を聴いた時、私はその中のジャンヌが歌う「さようなら故郷の丘や畑よ」の旋律をすぐに好きになってしまいました。本場物の演奏で(ロジェストヴェンスキー指揮)、チャイコフスキーの作品ならと、4枚組みのレコードが出たとき迷わず購入しましたが、作曲者の他では見られない旋律美を発見したように思いました。
「エフゲニー・オネーギン」では、レンスキーのアリアがこれまたチャイコフスキーの名旋律の一つと言っていいでしょう。オーケストラ曲の「ポロネーズ」も魅力的です。演奏は、ヴィシネフスカヤをタイトル・ロールに起用したロストロポービチが指揮したものが第1にあげられるべきでしょう。
「スペードの女王」を聴いた時、印象的だったのは幕開け早々にある「子供たちの合唱」でした。何か似たようなのを聴いた覚えがあるなと思ったら、作曲者自身も言っているようにビゼーの「カルメン」にヒントを得たと言うことです。(そのようなことを曲の解説か何かで読んだように思います。)これもヴィシネフスカヤをタイトル・ロールに起用したロストロポービチが指揮したものが良いと思いますが、これはオーケストラは指揮者が国外に出るようになったからでしょうか、ロシアのものではなくフランス国立管弦楽団です。
一般に、チャイコフスキーのオペラは有名なもののみが取り上げられるようで、「地方長官」や「オプリチニク」などは断片を聴くだけですが、できれば全曲版を聞いてみたいですね。そのような中にもチャイコフスキーしか書けないような旋律があるものと思っています。

ジャコモ・プッチーニ

2007-11-29 10:35:28 | オペラ
今日は、イタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニの亡くなった日です(1924年)。
プッチーニと言えば、ヴェルディに続くイタリア・オペラを代表する作曲家です。その作品数はヴェルディの半数にも達しませんが、プッチーニの描いた叙情性豊かな旋律は、決してヴェルディに引けを取ることはないでしょう。「ラ・ボエーム」の「冷たい手を」、「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」、「ジャンニ・スキッキ」の「私のお父さん」など、本当に素晴らしい名旋律だと思います。
日本を舞台にした「蝶々夫人」を書いてくれたのは、日本人として嬉しいですね。「宮さん宮さん」 「さくらさくら」 「お江戸日本橋」 「君が代」 「越後獅子」などが劇中に引用されています。これらの旋律に接した時、プッチーニはどう思ったのでしょうか。自分たちの西洋のものとは違うものを感じたことでしょう。これらを取り入れ、プッチーニは「蝶々夫人」を豊かな情感溢れる作品に仕上げ、当時日露戦争前の、ヨーロッパの国々には未知の日本を描き伝えてくれました。イギリスの作曲家サリヴァンの低俗な「ミカド」とは大違いです。
この「蝶々夫人」を書いていた当時の1903年、あたらし物好きのプッチーニは自動車を運転し交通事故を起こし大怪我をしました。しかし、その後も「西部の娘」や名作「トゥーランドット」を書き残します。
プッチーニが交通事故にあってから約30年後(1932年)、パリで交通事故にあった作曲家がいました。モーリス・ラヴェルです。ラヴェルは、この時までに既に今に伝わる名作を書いていましたが、事故は致命的なものであったようで、その後作品はほとんど書いていません。そして5年後に亡くなったということです。

ジョアッキーノ・ロッシーニ

2007-11-13 09:34:35 | オペラ
今日は、イタリアのオペラ作曲家ジョアッキーノ・ロッシーニの亡くなった日です(1868年)。
ロッシーニは、30を越えるオペラを生涯に残しています。その中でも、「セビリアの理髪師」「シンデレラ」それに「ウィリアム・テル」が特に有名ですが、その題名を見ると、実に様々な地域・国・民族・時代を取り上げていることに気付かされます。イギリスの女王エリザベス、イタリアのトルコ人、アルジェのイタリア女、バビロニアのキュロス、パルミラのアウレリアーノ、エジプトのモーゼ、などなど。「セビリアの理髪師」はもちろんスペインが舞台で、「ウィリアム・テル」はスイス建国の英雄物語です。他に「マホメット2世」、これを改作した「コリントの包囲」など近東の歴史に題材をとったものもあり、さながら世界のいろいろな時代・国の歴史を勉強することに繋がりそうです。時間がもてたら、ゆっくりそのようなことも調べてみたいと思います。ずいぶん前ですが、このようなたくさんあるロッシーニのオペラのさわりとも言うべき、すべての序曲をまとめたレコード(3枚組み)が出たことがあります。ネビル・マリナーの指揮によるものです。すぐさま買い求めました。
以前も書きましたが、ロッシーニは少年時代に優れた室内楽曲なども書いています。流麗なその旋律を聴くと、生まれながらの音楽家なのだと納得してしまいます。ロッシーニは、大食漢として有名ですが、そのイメージだけを持って音楽家ロッシーニを捉えるとしたら、彼の持つ素晴らしい天性を見失うことになるでしょう。宗教曲の分野でも「スターバト・マーテル」や晩年の傑作「小ミサ・ソレムニス」を書いていて、これらも是非ロッシーニ理解のためには聴くべきでしょう。
それにしても「ウィリアム・テル」を作曲した後、40年近く亡くなるまでオペラを書くことを止めさせたのは一体何だったのでしょうか。ウィーンを征服し、シューベルトにも感動を与えた「イギリスの女王エリザベス」の作曲者ロッシーニが晩年に残した小曲集「老年の悪戯」にその辺の心境を解き明かす鍵があるのかも知れません。



ヴェルディ「運命の力」

2007-11-10 11:39:46 | オペラ
今日は、ヴェルディの歌劇「運命の力」が初演された日です(1862年、ペテルブルク)。
この歌劇は、ロシア皇帝アレクサンデル2世の求めに応じ、作曲されたものでした。ヴェルディの歌劇中、ロシアで初演されたのはこの1作だけです。当時のロシアは、前年の農奴解放令の公布後の内乱が政府により弾圧され、復興途上にあった時期であった。初演は大成功裏に終わり、4回目の公演には皇帝夫妻の臨御を仰ぎ、ヴェルディは休憩の折に拝謁を賜った。その後、勲章を授与されたということであるが、何かこの「運命の力」という作品は、その後のロシアの行末を暗示しているような気がしてしまいます。
ヴェルディの22作目となるこの歌劇は、中期の3大傑作後さらに円熟度を増した作品で、特に序曲は好んでよく聴きます。ずいぶん前ですが、この序曲を小中学生くらいの学生の団体がコンクールか何かで演奏するのをテレビで見たことがあります。凄く強烈な印象を受けました。この曲は、決して子供向きの曲ではないと思います。それをいとも容易く(もちろん練習の成果でしょうが)弾いている姿に驚きました。優れた指導者がいてできることでしょうが、この時のことは歌劇「運命の力」の名と共に真っ先にいつも思い出されます。

ボロディン「イーゴリ公」

2007-11-04 09:51:13 | オペラ
今日は、ボロディンの歌劇「イーゴリ公」が初演された日です(1890年、ペテルブルク)。
ボロディンは、いわゆる「日曜日の作曲家」であり、本職は医学博士でもありまた化学者でもあった。そのような作曲家であるから、作品数は多くはない。「ロシア五人組」の一人で国民楽派と言われている。私はこのような人たちが残した自然な祖国に対する愛着を示す作品が好きであり、この種のオペラに描かれる民謡風な旋律を好んで聴きます。
歌劇「イーゴリ公」の中に「韃靼(タタール)人の踊り」と呼ばれる有名な部分があります。このオペラを見、また聴く人にとってはこの旋律を聴くのが待ち遠しいのではと思います。そしてロシア史を紐解くと、ロシアの暗黒時代とも言うべき「タタールのくびき」と呼ばれる金帳汗(キプチャク・ハン)国の支配(1240-1480)の時代が目に付きます。それで、ボロディンの歌劇「イーゴリ公」はこの時代を扱ったオペラなのだとつい考えてしまいがちですが、これは違います。このオペラの題材となったのは、ロシアの古代叙事詩「イーゴリ軍記」です。この叙事詩が扱うイーゴリ公は、南ロシアの小都市ノブゴロト・セーベルスキーのイーゴリ公(1151-1202)です。ロシア北方の都市ノブゴロトを中心に栄えたノブゴロト公国とは異なります。序でに言うと、ペチェネーグ人の討伐を試みた、キエフ大公のイーゴリ(在位912-45)とも違います。
ノブゴロト・セーベルスキーのイーゴリ公は、危険な遊牧人ポロベツ人を攻撃するために遠征を試みますが、失敗に終わります。ポロベツ人はトルコ系の遊牧民で、クマン人とも言います。先に述べたように、この後ロシアの大半は、モンゴル人の来襲を受け、その後長い期間に渡り支配を受けます。モンゴル人の一派にタタール(韃靼)があり、これが後にモンゴル人全体の呼び名になった。ポロベツ人に続き、モンゴル人が南ロシアを支配したことから、ロシアや同じくモンゴルの支配を受けた東部ヨーロッパではアジア系遊牧民をひっくるめてタタールと言っているようです。歌劇「イーゴリ公」に出てくる有名な踊りは、「ポロベツ人の踊り」が正しく「韃靼(タタール)人の踊り」は正しくないのですが、なかなか改まらないようです。

モーツァルト・歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

2007-10-29 16:54:51 | オペラ
今日は、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」が初演された日です(1787年、プラハ)。
「ドン・ジョヴァンニ」は、モーツァルト晩年の3大オペラ、あるいは4大オペラと言われるものの一つで、傑作である。今も多くの劇場で公演されている。しかし初演の38年後、このオペラを「軽薄、嫌い」と言った作曲家がいた。ベートーベンである。シューベルトの晩年の傑作歌曲集「白鳥の歌」(その第1曲から第7曲まで)の作詞者ルートヴィヒ・レルシュタープは、1825年ウィーンにやって来た。「ウィーンに着いてからというもの、私はベートーベンに会うことより他には何も考えなかった。」という気持ちを抱いて。念願の会見が実現した折、レルシュタープは、どんな様式の台本が好きか、と尋ねた。ベートーベンは、この時「ただ題材さえ気に入れば、私は様式については気にしない。私には、愛と情熱を注いで、その仕事に取り組みことができるようなものでなくてはならないのだ。私には、『ドン・ジョヴァンニ』や『フィガロ』のようなオペラは書けない。私は、この両方とも嫌いなのだ。私には、こうした題材は選べない。それらは、私には、あまりにも軽薄なのだ。・・・」と言ったと、レルシュタープは記録に残している。「カタログの歌」など、軽薄そのものである。別に事実だから、モーツァルトも抗弁することはなかっただろう。それで何が悪い、とモーツァルトは言ったかもしれない。しかし実は、このオペラの中に、ベートーベンも抗し切れなかった魅惑の旋律があった。有名な「その手を私に」である。オペラ初演の10年後、ベートーベン26歳の時に、これを主題とする「変奏曲 ハ長調」(WoO28)を書いているのだ。2つのオーボエとイングリッシュ・ホルンという珍しい編成の管楽三重奏曲である。この主題はその後も多くの作曲家に気に入られてようで、ショパンは、ピアノ付きの管弦楽作品として「変奏曲 変ロ長調」(op.2)を書いています。ピアノの巨匠リストも「歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の回想」というピアノ曲の中でこの旋律を用いています。
ついでに言うと、ベートーベンは、「嫌い」とあげたもう一つのオペラ「フィガロ」の中の「伯爵様が踊るなら」を主題とする「12の変奏曲 ヘ長調」もピアノとバイオリン用に書いています。
レルシュタープとの会見の前年、ある人との会見で、これまでの作曲家で、誰が最大の作曲家だと思うか、との問いに、「ヘンデル」と答えた後、モーツァルトは?と聞かれ、「モーツァルトは、いい。見事な作曲家です。」と答えたという。これが、彼の作曲家モーツァルト評だったと考えていいだろう。

ワーグナー・歌劇「リエンツィ」

2007-10-20 10:28:01 | オペラ
今日は、ワーグナーの歌劇「リエンツィ」が初演された日です(1842年、ドレスデン)。
「リエンツィ」は、ワーグナーの13あるオペラのうちの3番目にあたる。次の「さまよえるオランダ人」からが一般にワーグナーらしい作品ということで、ワーグナーの聖地バイロイト音楽祭でも取り上げられるが、それ以前の3作「妖精」「恋愛禁制」それにこの「リエンツィ」は、取り上げられたことがないだろう。「リエンツィ」はそのように看做される作品なのである。しかし初演された時には、「さまよえるオランダ人」より好評を博していた。
ワーグナーは、「リエンツィ」の歌詞をリガ(現在ラトビア共和国の首都)で書き上げ、すぐさま作曲を開始した。その後、海路でパリを目指したが、途中暴風雨にあう。この時の体験は後の「さまよえるオランダ人」に反映されている。1839年9月17日パリに到着する。ワーグナー26歳の時であった。この年11月に「リエンツィ」の総譜が完成した。この同じ11月には、敬愛するベートーベンへの愛情を吐露した小説「ベートーベン詣で」を発表している。
「リエンツィ」の上演については、マイヤーベーアの推薦により、祖国ドレスデンで初演されることになった。42年4月7日にワーグナーはパリを去る決心をした。パリでの2年半の月日は、ワーグナーにとって生涯忘れることのできないものだったろう。実り多くもあり、また様々な苦難の日々を送った町として胸に刻まれたことだろう。今度は陸路で持って、故国ドイツへと向かった。はじめて目にしたライン川はワーグナーをひどく感激させ、ワーグナーは「目に涙を湛え、貧しい芸術家の私は、祖国ドイツに永遠の忠誠を誓った」(スケッチ風自叙伝)のであった。後年の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の終幕の場面の合唱にそれが結実されている、と私は思う。
「リエンツィ」は、全5幕、序曲と16の部分からなり、ワーグナー作品の中でも最長の部類に属する演奏時間を要する作品である。ワーグナー自身も、短縮を試みたが、現在では指揮者・演出家に扱いが任されているようだ。私の所持するクリップスがウィーン交響楽団を指揮したライブ録音では、2時間半足らずに縮小されている。原曲の3分の1ほどである。原曲版を聴きたいものだが、現在出ているのだろうか。しかし、序曲を聴けば、この作品の良さは概ね分かると言っていいのでは。

ワーグナー・歌劇「タンホイザー」

2007-10-19 10:10:53 | オペラ
今日は、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」が初演された日です(1845年、ドレスデン)。
歌劇「タンホイザー」には、後にパリで上演するために、聴衆に受け入れられやすくするためにバレエの個所を入れたパリ版がありますが、原作のドレスデン版の方が、劇が引き締まっていていいと思うのですが、どうでしょうか。多くの指揮者がパリ版を演奏する中で、フランツ・コンヴィチュニーはドレスデン版でレコードを残しています。私が最初に接した全曲盤はこれだったこともあり、演奏も良かったこともあり、これを一時好んで聴いていました。
この作品には、随所に魅力的な音楽がありますが、「序曲」も然ることながら、私は、第2幕の「大行進曲」に強く魅かれてしまいます。これは本当に素晴らしい旋律です。ワーグナーの音楽の魅力は、ここに見られるような高貴さがあることです。芸術の評価は様々でしょう。以前も述べましたが、その生涯を悪意に満ちた言葉で述べるものもあり、私は面食らわないわけにはいかなかったこともありましたが、そんな時、私はこの「大行進曲」一つを取ってみれば、そのようなことはないと強く確信するのです。第3幕の「夕星の歌」もこれまた魅力的です。
そのような私にとってのワーグナーですから、その生涯を仔細に自分なりにいつか調べたいなどという考えも起きています。とにかく、ワーグナーほど後の芸術一般、いや社会にまで影響を及ぼした芸術家はいないのではないかと思っています。



ビゼー・歌劇「真珠採り」

2007-09-29 08:24:32 | オペラ
今日は、ビゼーの歌劇「真珠採り」が初演された日です(1863年)。
ビゼーは、何と言っても最大傑作は歌劇「カルメン」ですが、この歌劇「真珠採り」もビゼーらしい天才の手になるものと思います。このタイトルを見ただけで、私はロマンス「耳に残るは君の歌声」が頭の中で鳴ってきます。ポピュラーにも編曲されて流布しているので、ビゼーの作品と気付かず聴いている人も多いのでは。ずいぶん前にレコードで優れた録音が出たので購入しましたが、それが画像のものです。
ビゼーは、「イワン雷帝」というオペラも書いています。未完のものですが、長らく探していて、CDを見つけたとき、すぐに買い求めました。ビゼーは若くなくなったので、作品は限られていますが、間違いなく19世紀フランス音楽を代表する音楽家だと思っています。