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西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ヘンデル(その5)

2025-01-21 19:41:26 | 音楽一般
ヘンデルは、長く英国で活動していたが、1727年2月イギリスに帰化することになった。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルからジョージ・フレドリック・ハンデルとなったのである。そしてジョージ1世は、彼をただちに「王室礼拝堂作曲家」および「宮廷作曲家」に任命した。
《水上の音楽》は1736年にも演奏された。ジョージ1世を継いだジョージ2世(在位の長男でプリンス・オブ・ウェールズのフレドリック・ルイスとザクセン=ゴータ王女オーガスタとの結婚においてである。

ヘンデルの作品で最も有名な作品と言えば、「ハレルヤ・コーラス」を含む「メサイア」だろう。アイルランドのダブリンで1742年4月13日に初演された。ロンドン初演は、翌1743年3月23日に行われた。この時、来臨していた国王ジョージ2世が、「ハレルヤ・コーラス」が歌われた時、立ち上がり、聴衆もそれに習い一斉に立ち上がったという逸話がある。今でもその習慣は残されているという。日本で、日本人指揮者が日本人の楽団でこのオラトリオを演奏した時、20人ほどのお客さんが立ち上がったという。日本人が真似することはなかろう、それがいやで何年も「メサイア」を聴きに行かないでいた、とある音楽評論家が書いていた。10年以上前のことである。
「メサイア」のロンドン初演と同じ年の6月27日、オーストリア継承戦争(1740~48)中にジョージ2世がデッティンゲンでフランス軍に大勝をおさめるという出来事が起こった。これは王の乗った馬が大砲の音に驚き、敵中に突進したことで得られた勝利だったが、それまで国王や宮廷に対し無関心だった英国民は態度を改めたということである。ヘンデルは、この戦勝記念のために《デッティンゲン・テ・デウム》および《デッティンゲン・アンセム》を作曲し、この年11月27日に初演された。
《水上の音楽》と並んで有名な作品に《王宮の花火の音楽》がある。オーストリア継承戦争がアーヘンの和(1748年)で終結を見せ、戦場が遠方であったため国民の関心が薄く、ジョージ2世が国民に戦勝を示すためにヘンデルに祝賀のための音楽を依頼して作曲されたものだ。1749年4月27日火曜日バッキンガム宮殿北のグリーン・パークで演奏されることになっていた。音楽とともに花火が打ち上げられるはずであったが、《花火の音楽》は演奏されたが、あいにくの雨で花火は点火しても思うようにいかない。そして木造の建物に火が付いた後、ジョージ2世像や平和を象徴するネプチューン増などにも火が付き焼け落ちたということである。
スポーツ大会での優勝者を讃える「優勝賛歌」やコマーシャルでおなじみの「オンブラ・マイ・フ」、これらはヘンデルのオラトリオやオペラからのものである。バッハとともにバロック音楽の2大巨匠と言われるヘンデルは、私たちに心に焼き付く音楽を残してくれたのだった。1759年4月14日亡くなり、ウェストミンスター寺院に埋葬された。

ヘンデル(その4)

2025-01-16 22:06:50 | 音楽一般
国外にいて、英国王として即位したジョージ1世が1714年9月18日イギリスに上陸した。そして9月28日には国王臨席の下《ユトレヒト・テ・デウム》が演奏された。翌1715年中頃にはジェームズ2世とその子孫の支持者、いわゆるジャコバイト(Jacobite)の叛乱が起こり、時局は不安定となり、ロンドンのオペラ劇場は閉鎖された。ようやく1716年はじめ叛乱が落ち着きを見せると、この年の中頃ジョージ1世はハノーファーへ旅立ち、ヘンデルもその数日後ハノーファーへ帰った。
ジョージ1世は1717年1月半ばにロンドンへと戻ったが、ヘンデルはその少し前に帰っていた。
ジョージ1世は、夏の夕方側近や貴婦人たちとともにテムズ川上で音楽パーティーを行なうことを常としていた。ヘンデルがこの時のために作ったのが《水上の音楽》であった。すでに新国王ジョージ1世が誕生してから3年近くたっていた。なぜハノーファーの宮廷楽長のヘンデルが選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒから長期にわたるロンドン滞在を許されたのかについて、選帝侯は、英王室出身の母親ゾフィー(ソフィア)が1701年の王位継承法により唯一の王位継承者となり、また女王アンは10回を超える妊娠および死産を繰返し、継承者の誕生があるか、健康状態はどうであるか、そのようなロンドンの情報を探るためにヘンデルは派遣された、すなわちジョージ1世の機嫌を取るなどの必要はなかった、というのが真相のようである。1717年夏の《水上の音楽》は、夕方8時ごろ、御座船にはジョージ1世の他に数人の貴族男女、それに警護の者が乗った。この船の近くには管楽器、弦楽器奏者50人ほどを乗せた船が随行した。この時、国王はこの音楽を大変気に入り、3回演奏させたということだ。
ヘンデルはその後、オペラ創作に傾注し、1719年にオペラ上演を目的とする株式組織の「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」の設立を目指し、1720年に発足した。ちょうどこのころ国内では「南海会社South Sea Company」の株価が騰貴していて、投機ブームの真っ最中であった。熱狂的な投機騒ぎの後、株式会社は大暴落し、数千にのぼる人々が破産し、国王と大臣の多くも汚職すれすれの取引に加わり、大臣の中には悪事が露見し、面目を失う者、自殺する者もいたという。ヘンデルは「南海会社」に500ポンド投資したという。天文学者ニュートンも投資をしたが、結局2万ポンドの損失を被ったという。この時、ニュートンは、天体の動きは計算できるが、人々の狂った行動は計算できない、と言ったということだ。南海泡沫事件South Sea BUbbleである。


ヘンデル(続々)

2025-01-08 16:48:18 | 音楽一般
1711年6月、ロンドンでのオペラシーズンが終わり、デュッセルドルフの宮廷に滞在した後ハノーファー宮廷に戻った。ここでは宮廷オーケストラのためにオーボエ協奏曲などの室内楽、それに息子のゲオルク・アウグスト(後に英国王ジョージ2世)の妃アンスバッハのカロライン(英語読み アーンズバックのキャロライン)のために13曲の二重唱曲、さらにチェンバロのための小品曲などを作曲した。
1712年11月、ヘンデルはロンドンに戻るが、ハノーファー滞在中英語の勉強をしていたということだ。そして宮廷楽長のヘンデルは、必ず帰るとの条件でゲオルク選帝侯から暇をもらいロンドンへと旅立ったのだった。
1713年の1月、オペラ《テセーオ》を作曲し、またチェンバロ演奏などを貴族のサロンなどで披露していたことで、イギリス王室からも注目されるようになった、イギリス王室は、ちょうどそのころ終結を見たスペイン継承戦争(1701~14)後のユトレヒト条約(1713年3月3日)を記念する宗教曲《テ・デウム》の作曲を外国人であるヘンデルに依頼したのだった。そして7月7日に聖パウロ大聖堂で演奏された。時のアン女王は、このことでヘンデルに200ポンドの年金を賜った。またこの年《アン女王のための頌歌》を作曲し、翌1714年2月6日の女王の誕生日に演奏された。
スペイン継承戦争は、病弱なスペイン王カルロス2世の後を誰が継ぐかで争われた戦争であるが、先に名誉革命後フランスに亡命したジェームズ2世だが、彼が1701年に死んだ後ルイ14世はその息子のジェームズ・エドワードをイングランド王と認めたが、これがこの戦争の継起になったのだった。ジェームズ・エドワードは英国史で老王位要求者(the Old Pretender)、そしてその息子は若王位要求者(the Young Pretender)と呼ばれている。結局、スペイン・フランス対オーストリア・イギリス・オランダの戦争となったが、戦後の条約締結を見るまでには様々な場で戦闘が行われた。
1702年ウイリアム3世が没し、アン女王が誕生したが、アンが宣戦を布告することになった。この女王は上の戦争中に北米での植民地をめぐる英仏間の戦争にもアン女王戦争として名が使われている。1704年のブレンハイムの戦いでのフランスに対する大勝は、イギリス人を大いに沸かせた。そしてアン女王は総司令官のマールバラ公ジョン・チャーチルに恩賞としてオックスフォードの領地を与えた。ジョン・チャーチルは、第2次大戦時の首相ウィンストン・チャーチルの祖先にあたる。初代マールバラ公のジョン・チャーチルの妻はサラ・ジェニングスといい、アン女王の女官を務めていた。アンはサラに、自分を陛下ではなく、モーリー夫人と呼んでと手紙で懇願し、またサラをフリーマン夫人と呼んだ。アンが女王としてのあり方においてsilly Anne(愚かなアン)と呼ばれていたが、愛情生活においてもその一面が見られた。モーリー夫人はその後マシャム夫人に心を移し、マールバラ公は召喚された。アンの病的な愛情生活の件は、所持する歴史書にあり、イギリス発行のブリタニカ辞典では触れてない。
ユトレヒト条約では、フランスとスペインの両ブルボン家が合同しないことを条件に、フランス・ブルボン家がスペイン王を継ぐこと、およびフランスがジェームズ2世の系統を否認しハノーバー朝の王位継承を認める、領土の得失が行われた、この他に、イギリスはスペインと契約(アシエント)をむすび、年間4800人の黒人奴隷を30年間スペイン植民地に輸出する独占権を得た。フランスとオーストリア間については1714年のラシュタット条約で解決を見た。戦後イギリスでは植民地の開拓が進み、特にインドからは掠奪したたくさんの富が流れ込み、nabob(インド成り金)が幅を利かせるようになったと歴史書にある。

ヘンデルは適当な時期に帰ると言ってハノーファーの宮廷からロンドンへと来て、しばらく静かな何ものにも煩わされない日々を送っていたが、1714年8月1日にアン女王が急逝した。そしてここでも予期されたように、ハノーファー家のゲオルク・ルートヴィヒがジョージ1世として即位した。ヘンデルはどんな風に思ったことだろう。9月18日にはゲオルクがハノーバー朝初代国王ジョージ1世としてイギリスに上陸することになっていた。ここで思い出されるのが、1717年7月17日に行われたテムズ川での船上パーティーでの有名な《水上の音楽》の演奏である。2年以上ハノーファーの宮廷楽長の職務を蔑ろにして、そのうち帰ると言いながらも帰らず、以前仕えていた王がイギリスにやって来たのだった。王の機嫌を取るため!、と長く思われてきたがどうも違うようだというのがその後の研究で明らかになったということだ。

ヘンデル(続)

2025-01-07 13:10:52 | 音楽一般
議会は有名な「権利章典」を立法化した(1689年1月)。これは正しくは「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律」と呼ばれる。その後者の内容は、ウィリアムとメアリーに子孫がない場合は、メアリーの妹アンが王位を継承すること、ローマ・カトリック教徒が王位につくことを禁ずること」を定めていた。さらに1701年に議会を通った「王位継承法」では、アンのあとはプロテスタントであるハノーバー選帝侯妃ソフィアとその子孫がイングランドの王位を継承すべきと規定された。ここに出てきたソフィアとは? スチュアート朝を始めたジェームズ1世の娘でファルツ選帝侯フリードリヒ5世に嫁したエリザベスの娘である。このソフィアはハノーバー選帝侯のエルンスト・アウグストに嫁ぎ、生まれたのがゲオルク、つまり後のイギリス王ジョージ1世とその妹ゾフィーである。ゾフィーは、後に初代プロシア王となるフリードリヒ1世に1684年に嫁ぎ、息子にフリードリヒ・ヴィルヘルム1世、またその息子にフリードリヒ大王(2世)がいる。

イギリスにとって、外国名が英語名になると当然ながら読み方が変わる。これまでに出てきたものをおさらいすると、
 ウィレム→ウィリアム、ゲオルク→ジョージ、ハノーファー→ハノーバー、ゾフィー→ソフィア、などである。

予期されていたということか、ウィリアム3世が1702年3月8日に没すると、メアリーの妹アン(在位1702-14)が女王となった。
この間、ヘンデルは、1706年の末から1710年前半までの約4年間、フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア、ナポリなどのイタリア各地で過ごすことが多かった。このうち、1707年ヴェネツィアでゲオルク・ルートヴィヒ(後の英国王ジョージ1世)の弟エルンスト・アウグスト(父親と同名)と会ったことはこののちヘンデルをハノーファーの宮廷と結びつける契機になった。もう一つの重要な出会いは1709年ローマでアゴスティーノ・ステッファーニに会ったことだろう。ステッファーニはハノーファー宮廷の楽長を務め、のちにヘンデルを同宮廷の楽長に推薦し、またデュッセルドルフの宮廷にも彼を紹介した。1710年の春、ハノーファーに着いたヘンデルは、この年の6月16日宮廷楽長に任命された。この時の選帝侯はゲオルク・ルートヴィヒである。ここでヘンデルは故郷ハレの母を訪ねた。次にデュッセルドルフに行き、この年の秋、オランダを経てロンドンへと向かった。この頃のロンドンは、イタリア・オペラが盛んに取り上げられていた。ヘンデルも時流に乗り、オペラ《リナルド》を書き、1711年2月14日に初演され、15回の上演を重ねた。有名なアリア「私を泣かせてください」はこの劇中のものである。

ヘンデル

2025-01-05 14:46:32 | 音楽一般
バッハと同年生まれの、もう一人のバロック音楽を代表するヘンデルについて詳しく知りたいと以前読んだ本を再読している。渡部恵一郎著「ヘンデル」(音楽之友社)である。

作品一覧も常に横に置きたいと思い、上記の本にもあるが、それとは別にネットにある作品表を加工して手元に用意した。これはヘンデルの作品を系統だてて並べたHWV番号を付けたもので、1から612まであり、補遺も15ほどある。この数はバッハの半分強であるが、バッハにはないオペラが40曲あり、他にオラトリオが20曲、カンタータが100曲ほどある。
ヘンデル作品の主だったものを知りたいと思い、オルガン協奏曲、合奏協奏曲、それに《木管のためのソナタ全集》(これには作品1の多くが入っている)を購入した。

その後brilliantから出た40枚組のセットものを購入した。

ヘンデルと言えば、オラトリオ「メサイア」がまず思い浮かぶが、「水上の音楽」、「王宮の花火の音楽」、など広く知れ渡った作品もあり、その他コマーシャルなどに使われた有名作品も多々ある。生涯と共にそれらを見ていきたい。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、バッハと同年の1685年にハレで生れた。(ハレ管弦楽団があるが、これはイギリスのマンチェスターを本拠とする楽団で、この町とは関係ない。)バッハの生まれたアイゼナハとは直線距離で130キロ弱のところにある町である。ヘンデルの父親は、理髪師兼外科医で、息子には法律学を学ぶよう勧めていて、ゲオルクは16歳でハレ大学に入学した。理髪師兼外科医というのは、当時多かったようだ。理髪店のシンボルマークは、赤・青・白の帯状のもので、営業中はその塔が回転している。この3色は、順に動脈・静脈・包帯を表すということで、この兼職が理解される。
ヘンデルは幼少から音楽に関心を示し、父親に隠れて屋根裏部屋でチェンバロを弾くことがあった。晩年眼病を患うが、この幼いころの習慣がこの一因になった? そのような記述には触れてないが、バッハが少年時代に月明かりの下で楽譜を書き写していた、それが後に失明の原因になったと言われているが、そのことを思い出してしまう。両者、晩年に眼の手術を受けるが、たまたま同じ眼科医にかかるが、体が弱っていたこともあるだろうが、医者の力量が十分でなかったのか、手術は失敗し、両者ともに視力を失ってしまったということだ。
バッハは、周囲に音楽を職業とする人が多くいたが、ヘンデルは音楽に関心を持つ人は皆無だった。しかし、ある町の礼拝堂でオルガンを弾いていたところ、それを耳にした人物から父親に、音楽の道に進ませるようにとのお達しが出て、晴れてヘンデルは後の大作曲家への道が開かれたという。

ヘンデルは、ドイツ生まれのドイツ人であるが、後にイギリスへと帰化する。生まれたころから、帰化するまでのイギリスを知ることはヘンデルの行動、また作品への理解に繋がることだろう。

ヘンデルの生年には、チャールズ2世が没している。同王は、ジェームズ1世(在位1603-25)に始まるスチュアート朝(1603-1714)の王である。ジェームズ1世のあと、その息チャールズ1世(在位1625-49)が立つが、内乱が立て続けに起こりーいわゆる清教徒革命であるー共和制時代を迎える。この時代は護国卿クロムウェルの独裁時代と化し、没後もその子による政治は国民の不満を招き、スチュアート朝の復活が国民から望まれることになった。チャールズ1世の息チャールズ2世(在位1660-85)が亡命先のフランスから帰り、共和政治は幕を閉じた。王政復古である。チャールズ2世の後、その弟ジェームズ2世(在位1685-88)が後を継いだが、熱心なカトリック教徒である同王についてはその王位継承を巡り、その頃誕生した2つの政党、ジェームズ排除を説く反政府派(ホイッグ党)と王位世襲の原則を尊重する宮廷派(トーリー党)が争った。政治家の資質を欠いたジェームズ2世だったが、ローマ・カトリック教徒である2度目の結婚による王妃メアリー・オブ・モデナが男児を生んだ(1688年6月)ことにより、カトリック政策が続くと予想されることを嫌った国民を背景に、オランニェ公ウィレムが王位に就くことを要請された。ウィレムは、チャールズ2世の妹で、ジェームズ2世の姉に当たるメアリーとオランニェ公ウィレム2世の息子である。そしてウィレムは、1677年に結婚した妻のメアリー(ジェームズ2世の最初の王妃で新教徒のアン・ハイドとの間の娘)と同時に即位することを条件に英国王となることを受諾した(1689年1月)。それぞれウイリアム3世(在位1689-1702)とメアリー2世(1689-94)となった。ジェームズ2世はフランスに逃亡した。流血を伴わないで、王の交替を見たということで、英国民はこれを名誉革命と呼んでいる。


バッハ(補)

2024-12-08 20:31:12 | 音楽一般
バッハ全集(小学館)は普通手に入れられる曲はもれなく入っていると言ってよいのだが、1080ある曲すべてが収まってはいない。紛失された曲などにも番号が振られているからだ。そのような曲が復元されて世に出ることがある。その一つに「マルコ受難曲」(BWV247)がある。マタイ、ヨハネの両受難曲は有名だが、「マルコ受難曲」もあったのだ。歌詞しか残されていないから、普通演奏されないのだが、バッハが他の自作品を転用して新作を作ることがあることから、研究者は歌詞に合うものをバッハの他作品から見つけて復元したのだった。それがこのレコードである。BWV198の教会カンタータから5曲転用されたということだ。


教会カンタータ「いと高き神に栄光あれ」(BWV191)も全集にないが、がこれはロ短調ミサ曲(BWV232)の「グローリア」からのパロディーで、合唱・二重唱・合唱の3曲からなる。ラテン語の歌詞になるため、厳密には教会カンタータとは言えない。


結婚カンタータ「おお、やさしき日、待ち望みし時」(BWV210)のレコードに付録のように付いているアリア「無垢よ! 潔き心の宝玉よ」はBWV番号が付いていず、全集にもなかったものだ。同じく結婚カンタータ「いざ! 甘き恍惚にいざなう力よ」に含まれていたもので、他の楽曲は失われたのだった。


「フーガの技法」は、演奏楽器の指定がないと書いたが、ではどのような楽器で演奏され録音されているのか。
全集は、ムジカ・アンティクヮ・ケルンによるものだが、先に書いたザール室内管弦楽団によるものは、指揮者の他に8種の楽器を13人が担当している。チェンバリストのグスタフ・レオンハルトは単独で録音している(ただし、第12・18番の2台のチェンバロによる)。他には、ネットを見ると、弦楽四重奏によるもの、ピアノ演奏によるものなどいろいろあるようですが、私の蒐集物にはないです。ゆっくり聴き比べ、味わいたいと思います。



バッハは、再婚した妻の名を冠した「アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集」がある。第1巻、第2巻の2つがあるが、第1巻は「フランス組曲」の最初の5曲が含まれるが大半は失われた。これに対し第2巻には、様々な小品が収められていて、バイオリンを学ぶものが必ず取り上げる「ト調のメヌエット」が入っている。これは長くバッハの作品と考えられていたが、クリスティアン・ペツォールトの作品であることが判明した。だから先の全集にも入っていない(バッハの周辺をテーマにした巻に入っていた)。私がクラシック音楽を聴き始めたころだったか、あるいはもう少しあとだったか、「ラバーズ・コンチェルト」という曲が流行ったことがある。実はこのト調のメヌエットを編曲したものだという。原曲は3拍子だが、4拍子に変わっている。なぜか心に残るメロディーに感じられた。

バッハ

2024-04-04 13:41:12 | 音楽一般
バッハは、1685年ドイツ中部の都市アイゼナハで生れ、1750年ライプツィヒで亡くなった。1750年は、音楽史におけるほぼバロック時代の後期の終りの年にあたる。
バッハは、その作品は、シュミーダーにより分野別、その中でのほぼ年代順にBWVの作品番号が振られ、作品を明示するのに大いに役立つ。BWV1からBWV1080である。ただ最近は、それを超える番号が付くものもあり、そのあたりの知識はない。

後に述べる、アルヒーフのバッハ選集を購入した時の特典にもらったものだろう。素晴らしい。
バッハについての基本知識は次の本により与えられた。

著者の角倉氏は、大学4年の時、授業でバッハについての講義を受けた。その時、どれだけ受け入れる知識があったか甚だ怪しいが、とにかく取って良かった。私にとってバッハと一つのつながりを持てたように思えた。当時まだ東ドイツの時代であった。バッハ所縁の都市は多くドイツ東部にあったが、角倉氏はそれらの都市を回ったような話をされた、ような記憶がある。(50年くらい前の話で、記憶違いもあるかも?)ある人物の研究者であれば、その人物がどのような都市の中で生活したか知りたくなるだろう。東側の国に行くのは大変な覚悟が必要な時期のことだっただろうから、特に私の記憶に残ったのではないかと思う。4年前、2020年に、私はライプツィヒに短い時間だったが行き、トーマス教会前のバッハ像に出会った。ただただ嬉しく思った。
バッハの作品をたくさん知りたいと思い、アルヒーフから11巻全部でジャストLP100枚のバッハの選集が出た時、躊躇なく購入した。本場アルヒーフのものであり、これはずっとそばに置いておきたい。
その数年後、CD時代になり、COMPLETEと銘打った作品集が出た。

全15巻、CD165枚に及ぶ全集。ずいぶん高額な買い物でしたが、真摯な編集、バッハに纏わる文化的背景など多くの知識を与えてくれるものとして購入した。書籍についてはこれからじっくり読んでいきたいと思う。
これらが出る前にも、様々なバッハのLP、CDを購入していた。処分しても惜しくないものもあれば、これは絶対に手離せないというものもある。その第一が、これだろう。

リヒテルによる、平均律クラヴィーア曲集、第1巻、第2巻の全曲である。ビクターより出されたものだが、他では見られない装丁によるものだ。それぞれLP3枚からなる。もちろんピアノによる演奏である。これは記念碑的演奏と言ってもいいだろう。遺してくれたことに感謝である。リヒテルについては演奏家編でまた書きたいと思う。
全集は、それこそCOMPLETEであるが、中に入っていないものがある。現在にその形で残ってなければ入りようがないが、それが次の曲集。

復元された6曲の協奏曲集である。たとえば、チェンバロ協奏曲第5番は、元はバイオリン協奏曲だったという。(この第2楽章を、バイオリンの演奏で聴くのが私は大好きです。)他では、このような企画はないのでは? これもそばに置いておきたいですね。
一番最後の番号、実際バッハ最後の作品になるBWV1080はフーガの技法である。楽器が指定されてないという。だから多くの演奏家によるいろいろな演奏形態が見られる。最初に書いた、角倉氏による授業の時、だれの演奏がいいですかと、直接質問しました。先生からの答えは、カール・リステンパルト指揮のザール室内管弦楽団によるものだった。もちろんこれも購入した。


全集にない曲も細かく見ればまだあったように思う。探したら、また付け加えたいと思う。またバッハの曲を後の人が編曲したものもありますね。全集には、第15巻「バッハとその周辺」に一部取り上げてありますが、これらについても、その一部を書いてみたいと思う。

ヴィヴァルディ

2024-03-28 18:18:18 | 音楽一般
アントニオ・ヴィヴァルディは、1678年ヴェネツィアに生を享け、1741年ウイーンに没した。

以前書いたが、私が高校生の頃、河出書房から「決定版 世界大音楽全集」が出版された。この当時、やはり同社から、「世界の歴史」なるものも出て、当時の私は、他では教わることのないだろうことを吸収したく、これらを購入した。これらは手元に置いておきたい思う。まだ読んでないところも多くあるので。(全集の中には、私には無意味な、役に立ちそうもない文も複数あったが)
この全集は、最初24巻で始まったが、後に6巻追加され、全30巻となった。そして私にとっては良かったことだが、書棚も売りに出され購入した。甚だ便利だった。
この書籍は、美しい写真、それに口絵が多く載せられて、私にとってはまだ見ぬ地への想像を掻き立てるものだった。
ヴェネツィアと言えば、ゴンドラである。2度私はヴェネツィアに行ったが、初めてサンマルコ広場に立った時のことは忘れられない。
ワーグナーが通ったカフェはどこだろう、亡くなった館はどこだろうと2回の見聞で見つけたりした。

蒐集家の私は、ヴィヴァルディの作品を多く聴きたい、手元に起きたいと集めに集めた。
購入した順でないが、上の大全集は、まず持つべきだろう。ヴェネツィアに本拠を置く楽団だ。作品1から14まで、生前に出版した作品を網羅したものだ。それ以前、LPでイムジチ合奏団のものも多く集めていたが、CDの便利さ、ワンセット、になっているので、購入した次第。
ところで、ヴィヴァルディは何曲作品を残しているのだろう、と見ると、今はネットに作品一覧が出ています。これらはほぼ正確なものと思っています。しかし、そのままでは使いずらいので、自分で加工して手元に置いています。その前にナンバリングですが、作曲者本人はなにも付けてないので、後世の研究者が付けます。これがまたいろいろあるようですが、今は一般にRV番号が使われるようです。私が目にしたのでは、819が最後です。一般に、協奏曲は450曲超書いているとか、とにかく猛烈な数ですね。だからいくら多く聴きたいと思っても無理です。
ところで、ヴィヴァルディはバイオリンを中心とした、ソナタや協奏曲を主に書いていると長く思ってましたが、実は宗教音楽やオペラも数多く書いているのですね。最初の頃は、知りませんでした。次のCDを見つけました。
ヴィヴァルディ 宗教音楽曲集(8CD)
また、BRILLIANTから出ているCD40枚組のセットも購入しました。これには他では出ていないだろうオペラも入っています。
THE MASTERWORKS ANTONIO VIVALDI(40CD BRILLIANT)

宗教音楽の中に、「グローリア ニ長調」(RV589)がありますが、これはフランス王ルイ15世(在位1715-74)の婚儀(1725年9月)の際に作曲されたのだと言われています。またその双子の王女(1727年8月誕生)のために「テ・デウム」(現在行方不明)が作曲されたという。
また神聖ローマ皇帝カルル6世(在位1711-40)のイタリア訪問の際には、ヴィヴァルディは「作品9 ラ・チェトラ」を献呈した。カルル6世はマリア・テレジアの父親である。

ヴェネツィアなど生国のイタリアを中心に活動したヴィヴァルディであったが、亡くなったのは現在オーストリアのウイーンであった。前世紀の半ばになり、ようやく死亡時期および場所が分かったという。「放蕩をきわめたあげくウィーンにて貧困のうちに死亡」なる文書が見つかったという。そして貧民墓地に埋葬された、と。晩年の多くの時期についてはいろいろわからないことがあるということのようだ。我々は残された作品、その録音でヴィヴァルディを知ることになる。

上は、ヴィヴァルディが亡くなった頃のウィーン。右奥に聖シュテファン大聖堂の尖塔が見えます。

鈴木バイオリンの4・5巻にヴィヴァルディの曲があり(有名なイ短調(Op.3-6)と、ト短調(Op.12-1))練習しましたが、いい曲ですね、いかにもイタリアらしい。

西洋音楽史 10

2024-03-27 13:17:39 | 音楽一般
バロック時代は、その初期にオペラの誕生を見るが、オルガン音楽もこの時代を特徴付けるものといっていいだろう。後期バロックに位置づけられる大バッハがその頂点をなしているが、それ以前にも隆盛を見ていた。大バッハ(1685-1750)が師と仰ぐブクステフーデ(1637-1707)の他に、リューベック(1654-1740)、シャイト(1587-1654)、ブルーンス(1665-1697)、スウェーリンク(1665-1621)、パッヘルベル(1653-1706)などがいる。それら大バッハ以前の作曲家のオルガン作品を集めたレコードが出た時、私は興味を持ち購入した。
1.バッハ以前のオルガンの巨匠たち(4LP アルヒーフ)
アルヒーフからは、同じくその頃の室内楽を集めた作品集も出た。
2.バッハ以前のドイツ室内楽(3LP アルヒーフ)
これにはブクステフーデ、パッヘルベルの他に、ラインケン(1623-1707)、ローゼンミュラー(1619-1684)、ヴェストホフ(1656-1705)などの作品が集められている。
以上の作曲者は、おおよそバロック中期に活躍した音楽家たちである。
この時期イタリアでは、コレッリ(1653-1713)やその門下のピエトロ・ロカテッリ(1695-1764)、フランチェスコ・ジェミニアーニ(1687-1762)など今に残る多くのバイオリン作品を産み出す作曲家が現れた。
この背景には、コレッリとほぼ同時代のバイオリン製作者アントニオ・ストラディヴァリ(1644?-1737)を中心とする今にその名器が伝わるバイオリン製作者の刺激があったことだろう。(ストラディヴァリウスというのは、ストラディヴァリをラテン語表記にしたもので、楽器のラベルに使われる。日本では「ストラド」と略称されるようだ。)
バイオリンは1550年頃、イタリアのクレモナ(ミラノの南東85㎞)でアンドレア・アマティ(1505-77、他の年代を記すものもある)によって発明されたという。当時の弦楽器のヴィオラ・ダ・ガンバは音程を取るためのフレットがあるが、バイオリンにはない。つまりほぼ今と同じ完成された状態で登場したということができる。
アンドレア・アマティは、フランス王シャルル9世(在位1560-74)から宮廷楽団のための楽器の注文を受けるなどした。そのバイオリン製作技術は息子のアントニオ(1560-1649)、ジロラモ(1562-1630)に、更に孫のニコロ(1596-1684)に継承された。そしてこのニコロの弟子がアントニオ・ストラディヴァリである。
アントニオ・ストラディヴァリの息子フランチェスコ(1671-1743)とオモボノ(1679-1742)もバイオリン製作に携わったが、その数は少ないという。
長命のアントニオ・ストラディヴァリおよびその二人の息子とほぼ同時代、所も同じクレモナにバイオリン工房を持った人物にバルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ(1698-1744)がいる。(その作品は、ラテン語表記で、グァルネリウスと呼ばれる)グァルネリは、一般に「グァルネリ・デル・ジェズ」と呼ばれる。ストラディヴァリおよびグァルネリは活躍した地からクレモナ派と呼ばれるが、グァルネリが模範としたのはブレシア(ミラノの東96㎞)に居を構えたガスパロ・ダ・サロ(1549-1609)の作品だった。サロはブレシア派の開祖と呼ばれる。アマティは甘美なメロディー楽器を、サロは朗々と鳴り響く楽器作りを目指したという。
上のような、バイオリン製作家を背景に、イタリアを中心に各地にバイオリンの技巧を駆使する名作が生れた。収集癖の私は、この時代の今に伝わる作品をいくつか購入した。
3.《メルクス/悪魔のトリル》「イタリア・ヴァイオリンの栄光」(LP アルヒーフ)
4.《ビーバー、ロザリオのソナタ》(全曲)(2LP アルヒーフ)

バロック時代も後期になると、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデルなどより一般に知られる作曲家が登場する。これからは、作曲家や演奏家別に、できるだけ時代背景を追いながら駄文を連ねていきたい。以前書いたように、何を手元に置いておきたいか取捨選択する場としたい。

今、久しぶりにバロック音楽の気分を味わおうと、ビーバーのソナタの第1番を聴いた。解説文を読むと、スコルダトゥーラの多用とある。つまり、バイオリンの調弦が普通と異なるという。マーラーの第4番の第2楽章を思いつくが、そんなもんじゃない。びっくりした。

ブラームスの「ドイツ・レクィエム」

2023-05-31 16:27:56 | 音楽一般
ブラームスの「ドイツ・レクィエムEin deutsches Requiem 作品45」は、ブラームス33歳の1866年に完成をみた作品である。全7曲からなり、レクィエムの名称からは、ラテン語の典礼文がすぐ思いつくが、ルター派のプロテスタントであるブラームスは、この典礼文を使わず、旧・新約聖書から、自分で適当な歌詞を見つけ出し作曲した。ラテン語によるレクィエムが死者の安息を願うものであるのに対し、ブラームスのこの作品は今生きる者への慰め、また喜びを見出させることを願い作曲されたと言うことができるだろう。
第1曲は、バイオリンは用いられず、クラリネット、トランペットも使われず、華やかさから遠ざかったものとなっている。バイオリンのパート譜を見ると、Nr.1 tacetとある。この語は、ラテン語taceo(タケオー)の第3人称単数である。辞書を見ると、to be silent,not speak,say nothingとある。「だまる・黙する」である。ということからではないが、この曲に魅かれた私は、第2曲を勉強したくなった。歌曲もそうだが、やはり私はこの合唱曲の歌詞を知らなくてはと思い、レコード・CDなどのライナーノート、それにありがたいことにネット上に出ている解説文などを参照させていただき、自分なりの読解を(第2曲だけであるが)書きたいと思った。

この第2曲は、解説によると7つの部分に分けられるということだ。♭が5つ付く変ロ短調であるが、♭6つの変ト長調になり、再度変ロ短調となり、後半部分は♭2つの変ロ長調で終わる。♭や♯が3つまでが私の技量範囲であったが、その意味でひとつの挑戦になる。

1.
Denn alles Fleisch, es ist wie Gras
und alle Herrlichkeit des Menschen
wie des Grases Blumen.
Das Gras ist verdorret
und die Blume abgefallen.
なぜならすべての肉体、それは草のようであり、
そして人間のすべての栄華は草の花のようであるからだ。
草は枯れそして花は落ちる。
【語釈】
denn (接)というわけは~だから,Fleisch (英のfleshと同語源)(中)肉・肉体・人間,wie (英 how)(比較の接続詞)~のように,Gras (英 grass)草(すぐ後のGrasesは単数属格),Herrlichkeit (女)栄華,MenschenはMensch(男)人・人間、の単数属格,BlumenはBlume(女)花(英 bloom)の複数形,verdorretはverdorren(自)枯れる,の過去分詞で,istと共に現在完了形となっている。abgefallenはabfallen(自)[離れ]落ちる、の過去分詞で,現在完了形を作るがistが省略されている。
2.
So seid nun geduldig, liebe Brüder,
bis auf die Zukunft des Herrn.
Siehe, ein Ackermann wartet
auf die köstliche Frucht der Erde
und ist geduldig darüber,
bis er empfahe den Morgenregen und Abendregen.
So seid geduldig.
それだから親愛なる兄弟たちよ、主の到来まで忍耐強くありなさい。
見なさい、農民は大地のすばらしい果実を待ち
そして朝の雨と夕べの雨を受け取るまで、そのことに忍耐強くある。
だから忍耐強くありなさい。
【語釈】
so(英 so)(副)それでは、seidはsein(~である)の命令法2人称複数形、nun(英 now)(副)今や・それで・それ[だ]から、lieb(英 lief(副)喜んで)(形)親愛な・敬愛する,bis auf ∼ ~に至るまで、Zukunft(女)将来・来世、HerrnはHerr(男)主・神、の単数属格,sieheはsehen(見る)(英 see)の命令法,Ackermann(男)農民warten(英 ward)はaufを伴い、~を待つ、köstlichは(形)美味な・高価な・すばらしい、Frucht(英 fruit)(女)実・果実、Erde(女)(英 earth)大地・地球、darüber(副)それについて、bisはここでは(接)まで、empfaheは3人称単数で、faheに前つづりのempがついたもの。fahenは(詩語)で現在形のみ使われる語で、fangen(捕える)と同語。empfangenは(他)受け取る、MorgenregenとAbendregenは辞書にないが、Morgen(英 morning)(男)朝、Abend(英 eve[ning])(男)夕方、Regen(英 rain)(男)雨、の合成語
3.
Denn alles Fleisch, es ist wie Gras
und alle Herrlichkeit des Menschen
wie des Grases Blumen.
Das Gras ist verdorret
und die Blume abgefallen.
なぜならすべての肉体,それは草のようであり,
そして人間のすべての栄華は草の花のようであるからだ。
草は枯れそして花は落ちる。
4.
Aber des Herrn Wort bleibet in Ewigkeit.
しかし主の言葉は永久に留まる。
【語釈】
aber(接)しかし・だが、Wort(英 word)(中)語・ことば、bleiben(自)留まる、Ewigkeit(女)永久(遠)
5.
Die Erlöseten des Herrn werden wiederkommen,
und gen Zion kommen mit Jauchzen;
Freude, ewige Freude,
wird über ihrem Haupte sein;
主に救済された人々は帰って来るだろう,
そして歓声を上げシオン山に来ることだろう;
喜び,永遠の喜びが彼らの頭上にあることだろう;
【語釈】
Erlösetenは、erlösen(他)救い出す・救済する、の過去分詞erlösetが名詞化され用いられたもの、wiederkommen(自)帰って来る、gen(前)(対格支配)(詩語)~に向かって、Zion(男)シオン山(エルサレムの丘)、Jauchzenは、jauchzen(自)歓声をあげる・歓呼する、が中性名詞として用いられたもの、ewig(形) 永久(遠)の、Freude(女)喜び、Haupt(英 head)(中)頭
6.
Freude und Wonne werden sie ergreifen,
und Schmerz und Seufzen wird weg müssen.
喜びと大いなる歓喜を彼らはつかむことになるだろう,
そして苦痛と嘆息は消え失せるにちがいないだろう。
【語釈】
Wonne(女)大歓喜・狂喜、ergreifen(他)つかむ・捕える、Schmerz(男)痛み・苦痛・苦悩、Seufzenはseufzen(自)ため息をつく・嘆息する、が中性名詞化され使われたもの、weg(英 away)(副)去って・(消え)去って
7.
ewige Freude
永遠の喜びを

この曲は、完成までに10年を要したということだ。先にも書いたがこのときブラームスは33歳。宗教曲の大曲は、晩年に物されるものと考えてしまうが、ブラームスは逆で、この後に4つの交響曲、それに室内楽など多くのすぐれた作品を遺すのであった。晩年には多くのピアノ小品などがあり、これからそれらも十分に味わっていきたいと思う。

演奏ですが、やはり私はカラヤンのものを取り上げたいと思います。カラヤンはこの作品を4回録音していますが、私は2種所持しています。

他に放送されたものをビデオからDVDに保存してあり、やはり映像で見られるのは魅力的です。戦後すぐに録音されたものも、そこにはカラヤンの思い入れがある名演と思っています。なお、現在は、本当にありがたい時代ですね、YouTubeで見られるのは嬉しいことです。クーベリック指揮の教会での録音、私は好んでこの動画を見ていろいろ学んでいます。こうなると、本当にレコード、CDは不要になってしまうのだろうか? などと思いますが、私は愛着のあるものはとても手放す気にはなれません。