西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ドレスデン その2

2020-02-15 16:14:25 | 音楽一般
歌劇「魔弾の射手」の作曲家ウェーバーは、1817年ザクセン王国の首都ドレスデンに宮廷劇場の音楽指揮者に招かれた。劇場に向かうウェーバーは、絵画館広場に面したワーグナー家の前を、小児麻痺のため不自由な足を引きずりながら歩いていたという。それを窓から眺めていたワーグナーは妹のツェチリエに、「ごらん、あの人がこの世で一番偉い人だよ。どんなに偉いかは、お前には全然わかるまい。」と言ったという。「魔弾の射手」にすっかり魅了されたワーグナーは、ウェーバーの指揮ぶりを見て、心の中で、皇帝や国王よりも、あのような指揮者になりたいと願ったという。

ドレスデンに関し、私にまっ先に思い浮かぶのは、1970年カラヤンが当時、東西の壁を越えて、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮して成し遂げたワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の録音だ。ベルリン・フィルを振ってこの楽劇をどうして残さなかったのかと思いながらも、このシュターツカペレ・ドレスデンを振ったレコードは、その歌手陣の見事さから、2度とこれを越えるのが出ることは無いのではと思わせる内容だ。何度聴いたことだろう。そして今私はダーフィト役を歌唱したペーター・シュライヤーの歌いぶりを思い返してしまう。シュライヤー、それにやはりこの録音でハンス・ザックスを歌ったテオ・アダムは当地の聖十字架合唱団の一員であったが、9歳のワーグナーもこれに付属する学校に所属していた。
オイゲン・ヨッフムがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮して成し遂げたブルックナーの交響曲全集もやはり言わないといけない。ルドルフ・ケンペがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮して成し遂げたリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲全集も、その演奏の素晴らしさとともに他では手に入れられない曲が含まれていることもあり、私にとっては貴重な全集である。マルティン・フレーミヒの指揮するさきほどの聖十字架教会合唱団によるブルックナーの「モテット集」のCDも貴重な私の財産だ。このように私にとってはドレスデンは、多くの音楽的財産を享受した都市なのであった。

前回、フラウエン教会の展望台に上ったことを書いたが、その教会は今その威容を誇っている。


この今の教会の姿は2005年に蘇ったものだ。1743年に今あるノイマルクト広場に建てられた教会は、終戦間近の1945年2月13日のドレスデン大空襲による連合国軍の爆撃で跡形もなく破壊されてしまった。そのときの瓦礫で復元できるところはそれを用いて再建されたという。なぜこの日なのか。以前にも書いたことだが、この日はドレスデンに関係の深いワーグナーの命日である。私には、どうしてこの日がなどとなるが、ある評論家はこの様な行為を日付フェチと呼んだ。(日本の戦中戦後にも同様のことが見られる。)この行為に深い傷を負っているのは連合軍側であることを知ることになる。教会の頂上にある黄金の十字架は、その連合国側の一員であるイギリスから送られたものと聞いた。私は、ワーグナーの命日が6月以降だったらどうしただろうと思ったりする。このようなことが続く限り、平和な時代は手の届かないところにあるように感じざるを得ない。

ドレスデン市内に爆撃を奇蹟的に免れたマイセン焼タイルで描いた君主の行列を見ることができる。ザクセン君主やその時代の芸術家など93名が描かれているという。


ドレスデン滞在の最終日に、チェコとの国境に近いおもちゃ作りの村ザイフェンに行った。

チャイコフスキーのバレエ音楽で有名なくるみ割り人形。

続いて、マイセンの町へ。



マイセン磁器工場を見学した後、マイセンの町の小散歩。


マイセンは、昨年暮れに亡くなった、先ほども述べたペーター・シュライヤー氏の生まれ故郷。生家は市内のどこかかと思いましたが、後で少し離れたところのようだと知りました。旅の終りで小雨の中、夕方の散策となりました。

ライトアップされたアルブレヒト城をカメラに収めて今回の観光はすべて終わりとなりました。


「ザクセン宮廷の雰囲気が漂う」とガイドブックにあるフラウエン教会隣のコーゼルパレーでツアーの人たちとのフェアウェルパーティーとなりました。



すべて美味しくいただきました。

帰りの飛行機でもこんなデザートが。



日本とヨーロッパはやはりずいぶん離れていますね。


機内から富士山を見ることができました。

(完)

ドレスデン その1

2020-02-14 22:31:45 | 音楽一般
ドレスデンは「エルベ川のフィレンツェ」と言われるそうだ。私たち(私と妻)はドレスデンの町を展望したいと思い、フラウエン(聖母)教会の塔の展望台に上ることにした。途中までエレベーターがあると聞いていたが、故障?で動いていないという。受付のおばちゃん、400段以上あるがそれでもいいかと聞いてくる。ここまで来たら、と1人8ユーロ払って階段を上り始める。途中で一度休んだ。一気にはいけない。その上登ると途中からスロープに。何とか登り切り、展望台へ。







今夜はこれから、ゼンパーオーパーでモーツァルトの歌劇「魔笛」を見ることになっていた。ここはドレスデン宮廷劇場とも言われ、ワーグナーの歌劇「リエンツィ」「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」が初演されたところだ。

ゼンパーオーパー正面。

内部に入ってみる。





ワーグナー像である。もう一人この劇場に所縁の人物の像が置いてある。


ウェーバーである。私がこのウェーバー像をデジタルカメラに収めている時、そばにじっと立つ(おそらく)ドイツ人のおばちゃんが何も言わずに立っていた。ふと私はおばちゃんの顔を見るなり、「Weber(ウェーバーですよね)」と言った。まあ、ここで私の語彙の範囲にある「Der Komponist von (~の作曲家です)」と言ったら、おばちゃん「Freischuetz(魔弾の射手)」とすかさず言う。私「Ja.(そうですね)」と。

「魔笛」間もなく開演。


第1幕が終り、休憩。


終り、出演者が勢ぞろい。


こういう演出もあるのかなという感想を持ちました。演奏は流石伝統的な音楽都市の申し分ないものでした。夜の女王のアリアは、とても印象的でした。

ドイツ旅行 ライプツィヒ(続々)

2020-02-13 22:55:30 | 音楽一般
この当時のライプツィヒはヨーロッパで有数の音楽的伝統を持つ都市であった。この都市には、1409年創立のライプツィヒ大学があり、ワーグナーもそこに在籍したが、後に音楽家として名を馳せる人物がここの大学に法律を学びに近郊の町ツヴィッカウからやって来た。ローベルト・シューマンである。1828年5月のことであった。ここでシューマンは、重要な人物に出会う。ピアノの教師のフリードリヒ・ヴィークである。そしてその次女をクララ・ヨゼフィーネ(1819年生)という。クララは5歳から父親からピアノ教育を受けた。そして1828(1827?)年には、ゲヴァントハウス管弦楽団と共にモーツァルトの「ピアノ協奏曲 変ホ長調」を満員の聴衆の前で演奏したという。(9歳である。何たる天才!)


クララが当地に生活していたことを示す銘板。
 
シューマンは、ヴィークからピアノの教授を受け、また和声と対位法も学んだ。その後、シューマンは、父親ヴィークの反対を受けながらも、1840年に娘のクララと結婚した。この年は、シューマンの「歌曲の年」と言われている。多くの歌曲を生み出した年であった。

ワーグナーに話は戻るが、1832年、19歳の時、ワーグナーは1曲の交響曲を書き上げた。ワーグナーに交響曲が、と思う人もいるかもしれない。「交響曲 ハ長調」である。私の知る限りこの曲は、日本のワーグナーのスペシャリスト若杉弘氏の録音があるだけだ。ワーグナーにはもう一つホ長調のものがあるが、こちらは1(あるいは2)楽章しかない未完である。しかしこちらは若杉氏のを含め3種のCDが出ていて、所持している。(若杉氏のだけ2楽章あり、他の2種は1楽章のみ。)このハ長調の交響曲について結婚前のクララ・ヴィークがシューマンにあてた手紙(1832年12月17日)の中で「ベートーベンのイ長調交響曲にそっくりだそうですわ。」と噂を伝えたという話が残っている。

ライプツィヒにはもう一人語るべき音楽家がいる。メンデルスゾーンである。


ハンブルク生まれのこの作曲家を語る時、まず第一に言われることは、そう、1829年3月のバッハの「マタイ受難曲」の蘇演であろう。この年を持って、バッハは復活したのであった。現代から見ると何たる不思議と思わざるを得ないが、バッハは死後ほとんど忘れ去られた状態にあったのだ。それはさておき、メンデルスゾーンは1835年にライプツィヒにゲヴァントハウス管弦楽団に指揮者として招待された。この時、ワーグナーはさきほどの「交響曲 ハ長調」の総譜を様々な思惑からメンデルスゾーンに渡した。しかしなかなか色よい返事がないまま、メンデルスゾーンは亡くなってしまった。1847年のことである。楽譜は一時紛失状態になってしまったが、後に1877年、ドレスデンで発見されて、ワーグナーの亡くなる前年に再度演奏されたということである。あの誰しもを魅了させるホ短調のバイオリン協奏曲を書いたメンデルスゾーンですが、このようなことがあったのですね。

このライプツィヒには、若き日の森鴎外が、医学研究のため行っている。鴎外が通ったところとして有名なAuerbachs Kellerアウアーバッハス・ケラーがある。その前にはこのような像が立っている。ファウストとメフィストフェレスである。



鴎外はここで一緒に行った哲学者の井上哲次郎にゲーテの「ファウスト」の翻訳を勧められたということだ。

次回から、今回の旅行の最終地ドレスデンについて語ります。

ドイツ旅行 ライプツィヒ(続き)

2020-02-12 22:52:10 | 音楽一般
上の画像は、ライプツィヒではなくこの後に行くドレスデンの街角で撮影したものです。

ライプツィヒに誕生したワーグナーだが、警察署書記のカルル・フリードリヒ・ワーグナーと製パン業者の娘ヨハンナ・ロジーナ・ワーグナーの第9子になる。ワーグナーは、1813年5月22日に生れたが、父親はその半年後の11月22日に「ライプツィヒの戦い」後に流行したチフスで43歳で亡くなってしまった。母ヨハンナは1814年8月、ルートヴィヒ・ハインリヒ・クリスティアン・ガイヤ―と再婚した。そして1815年2月に、彼女にとって第10子に当たるワーグナーの妹が生まれた。私は「大音楽家・人と作品9 ヴァーグナー」(高木卓著)(音楽之友社)を参考にして書いているが、以上がそこに述べられている事実である。子供は当然学校に上がれば、その時の父親の姓を名乗るであろう。リヒャルト・ガイヤ―とワーグナーは名乗ったこともあった。後の人はワーグナーの父親について詮索しているが、今に伝えられている名の通りと言ってよいと思う。4男のリヒャルトと長男の容貌が似ている、父親の弟(叔父)と甥リヒャルトの筆跡が類似している、とある。他の理由も出ているが、あまりワーグナーの音楽を語る上では、関係ないことと言えよう。

ワーグナーは、母の再婚に伴いドレスデンに移住するが、14歳のクリスマスにライプツィヒに戻って来た。そしてゲヴァントハウスの演奏会でベートーベンの音楽を聴き、このとき「私は音楽家になろうと決心した」と後に自伝に書いた。そしてベートーベンの交響曲を学ぶことにより作曲法を身に付けたという。それはワーグナーによるベートーベンの「第九交響曲」の2手用ピアノ編曲にその一端が示されていると言ってよいだろう。1830年ワーグナー17歳の時のことである。おそらく現在この一種しか発売されていないだろう。私は数年前CD店でそれを見つけることができた。



何とも面白い表紙である。本人たちが見たらどう思うだろうか。
(続く)

ドイツ旅行 ライプツィヒ

2020-02-11 21:50:48 | 音楽一般
ポツダムからライプツィヒに入り、Thueringer Hofというトーマス教会すぐ近くのレストランで昼食を取る。食事を終え、ライプツィヒ市内散策が始まった。
ライプツィヒは、大バッハが、室内楽曲、管弦楽曲における多くの傑作を生みだしたケーテン時代(1717ー23年)に続き、住むことになった地である。結局バッハは、この地で生涯を終えることになる。このライプツィヒ時代(1723-50年)は、聖トーマス教会付属学校カントル(合唱長)として生活を送ることになった。それゆえここではカンタータ、受難曲などの今も光彩を放つ宗教音楽の傑作群を生み出すことになる。とうとう目の前にこの像を見ることができた!


バッハに関する書を見ると必ずこのトーマス教会前に立つバッハ像が出てくる。いつかこの像を直に見ることができるだろうか、などと思っていた。そこに私は立っていた! 最初は私は、やはりモーツァルトやベートーベンの音楽を好んで聴き、バッハは周囲の人が良いと言っても、なかなか実感できないでいた。20代半ばくらいからだろうか、ちょうど大部のレコード全集が出て、買い求め、自然多く聴くようになり、今ではCDの全集でほとんどすべて聴くようになった。今ちょうどレッスンで、鈴木のバイオリン指導曲集の8巻の中のバッハのラルゴを勉強している。これは「無伴奏バイオリン・ソナタ 第3番 ハ長調」の中に含まれる曲である。

このトーマス教会にはバッハのお墓もある。


画像には、奥のステンドグラスが見られるが、その前に洗礼台があるのも見えるだろう。実は、ここで総合芸術とも言うべき楽劇の大作曲家リヒャルト・ワーグナーが洗礼を受けたのだった。1813年のことである。
ここトーマス教会で偶然にもカンタータ?のリハーサル風景に出くわすという幸運を持った。


ライプツィヒには、トーマス教会ともう一つニコライ教会がある。ニコライ教会は、知ってのごとく、毎週月曜に行われていた祈祷集会が民主化要求のデモへと発展し、1989年のベルリンの壁崩壊へと繋がった。


ライプツィヒで生れたワーグナーはこれら2つの教会に付属する学校で学んだ。
(続く)

ドイツ旅行 ポツダム

2020-02-10 17:46:03 | 音楽一般
ベルリンから次の宿泊地ドレスデンに行く途中午前中はポツダム観光をした。ポツダムは実に広い。我々の旅行ではツェツィーリエンホーフ宮殿の観光が含まれていた。ポツダム会議の舞台で、我々日本人にはすぐにポツダム宣言なる言葉が思い浮かぶ。ドイツ人ガイドさんからいろいろな部屋での詳しい説明があったが、我々日本人を意識してなのかこの「ポツダム宣言」という言葉は聞かれなかったように思う。
ツェツィーリエンホーフ宮殿は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の息子である皇太子ヴィルヘルムの妻の名ツェツィーリエに由来する。ヴィルヘルム2世が息子家族のために建設を命じ、1917年に完成した。少し歴史を語ると、(西洋音楽とは逸れてしまうが)、1918年のドイツ革命後、第一次世界大戦に敗北したドイツは、父親ヴィルヘルム2世、皇太子ヴィルヘルム共にオランダに亡命することになった。だからこの宮殿での皇太子としての生活は2年もなかったことになる。その後、一市民としてドイツに帰国し、再びこの宮殿に住むことになったが。また、父親のヴィルヘルム2世は、日本との関係でも語られることが多い。日清戦争後、遼東半島の割譲に異議を唱えるロシアは、ドイツ、フランスを誘い、日本にこの地を清国に返還するよう主張した(いわゆる三国干渉)。このとき、外相の陸奥は、三国干渉の「張本ハ露国タルコト勿論ナレトモ露国ヲシテ斯ク迄急激ニ其猛勢ヲ逞クスルニ至ラシメタルハ実に独逸ノ豹変ニ基因シタリ」と言っていた。このときロシア皇帝ニコライ2世はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を「大西洋提督」と、ヴィルヘルム2世の方はニコライ2世を「太平洋提督」と、お互い呼んだそうである。まあ我々からすれば勝手に呼ばないでもらいたいところだ。

ツェツィーリエンホーフ宮殿

内部の一室


ポツダムと言えば、誰しもサンスーシ宮殿が思い浮かぶだろう。今回旅程の関係でここは訪問個所には入っていなかった。次回、いつになるか?、訪れる機会があればと思う。

ポツダム、サンスーシ宮殿と言えば、歴史を学んだ人はフリードリヒ2世(大王)をすぐ思い浮べるだろう。この人である。


王は、フランスの哲学者ヴォルテールなどとも交わり、啓蒙専制君主と呼ばれることがある。音楽にも才能を示し、フルートの演奏のみならず、作曲もする。
現代の名フルート奏者(ベルリンフィルのソロ奏者)のこの人がそのフリードリヒ大王の作品をおさめたCDを出している。大王に扮したパユである。


CD2枚からなるこのフルート作品集にはこの大王と関係する何人かの作品が入っている。


フランツ・ベンダ、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツなどの作品と共に、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、それにその父親の ヨハン・ゼバスチアン・バッハの作品も収められている。クヴァンツはフリードリヒ大王のフルートの先生で、エマヌエル・バッハは大王の宮廷にチェンバロ奏者として仕えた。父親の大バッハはフリードリヒ大王の招きに応じて、1747年5月にポツダムのサンスーシ宮殿を来訪した。ここでバッハはオルガン、チェンバロの腕前を披露するとともに、王に主題の提出を求め、それによる即興演奏を行った。ライプツィヒに戻り、フーガやカノン、それとこの作品の中心ともなるべきフルート、バイオリン、通奏低音による4楽章からなるトリオ・ソナタを作曲した。そして7月に王に献呈することとなった。これがバッハ晩年の傑作「音楽の捧げもの」である。

次回は、そのバッハが長く活躍し、晩年を過ごすことになったライプツィヒについて語ります。

ドイツ旅行 ベルリン その2

2020-02-09 20:37:28 | 音楽一般
今回の旅行には、ベルリンのフィルハーモニーホールでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートが最初から組み込まれていた。フィルハーモニーホールは、「カラヤンのサーカス小屋」などとも呼ばれることもあり、外見がとてもユニークである。



その本場フィルハーモニーホールで、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を聴く、これはいつ実現できることだろうか、などと永年思ってきたことだった。それが今回実現できた! ベルリン・フィルが日本に来たとき、1度聴いたことがある。もちろん指揮はカラヤン氏。サインも頂いたし、一度は聴いてみたいと思っていた。この時の曲目は、モーツァルトの「レクイエム」とブルックナーの「テ・デウム」だった。今回はカラヤン氏ではないが、同じベルリン・フィルをこのホールで聴くことができたのだ! 指揮は、日本でもお馴染みのパーヴォ・ヤルヴィ氏。曲目は、
前半 1.ストラヴィンスキー「幻想的スケルツォ」
   2.アブラハムセン「ホルン協奏曲」
休憩 (20分位)
後半 3.ベルリオーズ「幻想交響曲」
の3曲で、アンコールは無しでした。

開演前の様子。



2曲目が終わった後、独奏者のベルリン・フィルのソロ・ホルン奏者のシュテファン・ドール氏、指揮者のヤルヴィ氏、それに作曲者のアブラハムセン氏があいさつに立っています。この曲は昨年作曲されたばかりの新作なのですね。ドール氏の独奏を最初から考え作曲されたのだと思います。



すべての演奏が終わった後です。



今回のコン・マスは残念ながら樫本大進氏ではありませんでした。私としては、やはり樫本氏を見られればと思っていたので。しかし日本人奏者が2人いたようです。プログラムを購入しましたが、そこに楽団員の名簿がありました。第1バイオリンに町田琴和さんの名前がありましたので、2プルトのアウトの女性は、この方で間違いないでしょう。もう一人は、ソロ・ヴィオリストの清水直子さんです。私自身は確認できなかったのですが。すごいですよね。日本人がこのような世界最高峰のオーケストラで活躍しているのですから。それと、フルート趣味の妻はパユが出ていればと言っていました。演奏ですが、すべて終わった後、ベルリン・フィルはやはり「別格」だなという印象を持ちました。一糸乱れぬ演奏、曲に対する徹底的な思い入れ、楽団員相互の調和、などカラヤン時代の伝統が続いていると強く感じました。また機会があるかはわかりませんが、特別な一日でした。

ベルリンでは、古代史の博物館、美術館でも様々な芸術を堪能しました。以下はそのうちのいくつかの画像です。








次回は、ポツダムについて語ります。

2020年 ドイツ旅行 ベルリン その1

2020-02-08 21:07:30 | 音楽一般
昨年、念願のオーストリアの(ほぼ)一周旅行をした。その中でモーツァルトやベートーベン、それに指揮者カラヤンの足跡を辿ることができた。もう一つどうしても行きたかったドイツ東部の旅行を今回することができた。いわゆる西ドイツに当たる所はずいぶん前、約40年前に行った。今回のドイツ東部、ベルリン、ライプツィヒ、ドレスデンの旅は初めてである。



ベルリンのブランデンブルク門と言えば、ベルリンを象徴する場所と言ってよいだろう。

ブランデンブルクというと、バッハのブランデンブルク協奏曲を誰しもすぐ思い浮べる。この題名はバッハ自身によるものではないが、この6曲からなる曲集が1721年ブランデンブルク辺境伯に献呈されたところから、一般に用いられているということだ。これらはバッハのケーテン時代(1717~23年)の作品で、バッハの協奏曲の頂点をなすものである。



この門は旧東ベルリンに属する。30年以上前になるが、この門の近くの東西ベルリンを隔てるいわゆる「ベルリンの壁」が若者たちにより壊され、東西ベルリン市民が抱き合う姿がテレビなどに映し出された。以前「バカの壁」という本が流行ったが、建てて壊される壁は、賢明な壁とは言えないだろう。旅行では、ベルリン観光の中で、ブランデンブルク門、そしてこのベルリンの壁の見学が組み込まれていた。



この壁は1989年11月9日に壊され、その年の12月25日、クリスマスの日に、東ベルリンの現在コンツェルトハウスとなっている会場で記念のベートーベンの「第九交響曲」が演奏された。東西6つの交響楽団員からなり、指揮はバーンスタインである。この時、普通Freude(喜び)と歌うところをFreiheit(自由)と歌わせた。この時だからこそ許されるのかも知れない。両語とも2音節ということで無理なくできることも理由になるかもしれない。画像はその録音を収めたCDである。右上を見ていただきたい。ここにそのベルリンの壁の欠片が収められている。「本物」である。ベルリン観光でドイツ人女性のガイドさんが完璧な日本語で詳しく分かりやすい説明をしてくれていたが、この方にベルリンの壁の欠片を持ってますと言ったら、本物なの?、と聞かれましたが、CDの表にあるように本物である。