西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

スコットランド民謡「蛍の光」

2007-12-31 10:22:00 | 音楽一般
1年も今日が大晦日。1年の始まりは1月1日で、終わりが12月31日。この日に相応しいのはと考えると、「蛍の光」となるだろうか。日本では、学校を卒業し友との別れを告げる卒業式やまた1年の締めくくりの今日に歌われることが多くある。もっとも最近は卒業式で歌われないこともあるようだが。
「蛍の光」は元々はスコットランド民謡で、明治時代に日本で歌われるようになったものだ。スコットランド語のAuld lang syneが原題で、英語ではOld long sinceにあたるという。今に伝わる歌詞は、スコットランドの詩人ロバート・バーンズによるもので、友と再会し、昔を語り、酒を酌み交わす、というのがその内容である。日本では、これを「蛍の光、窓の雪、書(ふみ)読む月日、重ねつつ、何時しか年も、過ぎの戸を、明けてぞ今朝は、別れ行く。」と読み替えて歌っている。この作詩は何と素晴らしいのだろう。中国における逸話、貧しいために蛍の光で学び、また夜窓の外の雪に反射する月の光で勉強した「蛍雪の功」を踏まえた作詩である。4番まであり、国のために辺境の地で果たすべきことを国民に教える内容となっている。日本語の作詩は、東京師範学校の稲垣千頴である。
ベートーベンの晩年の仕事に、民謡の編曲があります。(実は、ヨーゼフ・ハイドンもやはり民謡編曲をしています。)1818年には「25のスコットランド民謡」(Op.108)を出しています。最初は、エディンバラの出版業者からの依頼で始めたが、ベートーベン自身もこの種の仕事に興味を持ち出したようで、アイルランド、ウェールズの他に大陸諸国の民謡編曲を行って全部で200曲前後あります。そしてWoO(作品番号無しの番号)156の「12のスコットランド民謡」の第11曲にこのAuld lang syneがあります。多くがそうであるように、ピアノ・バイオリン・チェロの三重奏の伴奏がついています。先日聴いてみました。日本におけるようなゆっくりした演奏ではなく早めのテンポで、同じ曲でもずいぶん違うなあと思いました。勿論日本語の歌詞のように「蛍雪の功」により立身出世したというようなものではなく、先に記したように友との再会で酒を飲むということですからこのようになるのでしょう。しかし音楽の力というのは、大きいものだとつくづく感じます。以前も書きましたが、ベートーベンの言葉をもってこの歳時記を終えたいと思います。
「音楽は哲学よりも高い啓示である。」

より良い年をお祈りします。



ブルックナー「交響曲第7番」

2007-12-30 09:48:30 | ロマン派
今日は、ブルックナーの「交響曲第7番」が初演された日です(1884年、ライプツィヒ)。
ブルックナーは、「交響曲第7番」を1881年の9月に作曲を開始した。第6番を完成した直後のことである。そして82年末に第1楽章を完成したが、その間には第3楽章を完成させてもいる。次いで、第2楽章に取り掛かったのが、83年の1月22日であった。そして4月21日にこの楽章を完成させたがその間にブルックナーにとって一つの大きな事件が起こった。師と敬愛するワーグナーの死であった。2月14日音楽院で前日にワーグナーの亡くなったことを聞き、ブルックナーは悲嘆に暮れたという。このときこの楽章のコーダの直前まで書いていた。そしてこの楽章の最後の個所にワーグナーの名を音で書き記したのだった。それは、音符を繋げるとWの文字になるというものだった。ちょうどこれは楽章中のWが付された個所でもあった。終楽章はこの年の9月に完成した。
翌84年に初演ということになったが、最初6月27日に予定されていたものが、11月になり、そして結局年も押し詰まったこの日ということになった。指揮はニキシュが担当した。ニキシュは、かつて73年10月26日の第2交響曲の初演でバイオリン・パートを弾いていた。そしてそれ以来、ブルックナーの音楽に興味を持ち、この第7番の初演に際してもあらかじめ批評家を招いてピアノでこの作品を紹介するなどしていた。初演は大成功を修めた。喝采は15分続いたと言う。この第7交響曲をもってブルックナーは名声を確立したのだった。ニキシュはこの後、フォン・ビューローの後を継いで、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第2代常任指揮者になっている。
ブルックナーは、この第7交響曲をバイエルンのルートヴィヒ2世国王(ワーグナーの庇護者)に献呈したが、次の作品第8番は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に、そして最後の交響曲となった第9番(未完成)は「愛する神」へと献呈したのだった。



ベートーベン「バイオリン・ソナタ第10番」

2007-12-29 10:24:27 | 古典派
今日は、ベートーベンの「バイオリン・ソナタ第10番」が初演された日です(1812年)。
ベートーベンは10曲のバイオリン・ソナタを書いていてその最後のものということになります。10曲中、5番の「スプリング」と9番の「クロイツェル」がとりわけ有名ですが、ニックネームは付いていませんが、この10番も内容豊かな優れた作品だと思います。
10番は、9番の「クロイツェル」の9年後に書かれた、バイオリン・ソナタのなかでは一作だけ孤立した存在となっている。9番「クロイツェル」は、ベートーベンの創作を3期に分けた場合の2期に当たっていますが、10番は3期への過渡期という捉え方がされています(2期に含まれるとする考え方もあります)。私はいつも、バイオリン・ソナタ群を見ると、その半分の数の5曲作曲しているチェロ・ソナタ群の4番と5番が第3期の作品(その入り口に当たるというべきか。3期への過渡期の作品と考える人もいます。私は単一楽章でできた第4番のソナタには第3期の弦楽四重奏曲群に見られる自由な発想が見られ、4番と5番の2曲は第3期に属するとみたいと思っています。)であることを考え、バイオリン・ソナタにも第3期に属する作品があればなどと思ってしまいます。「大公」トリオでピアノ三重奏曲を終わりとしたように、これらの組合せでは自分の考える所を表すには限界を感じたということだろうか。
ベートーベンは、10番のバイオリン・ソナタが初演された頃、大きな生活上の転機を迎えていました。それはこの年の11月2日に年金支給者の一人であるキンスキー侯爵が落馬により死去し年金が出なくなってしまったのであった。12月30日付で未亡人に手紙を書き、年金支給を要請したが、報われなかった。この年金支給はその3年以上前に結ばれた契約に基づくものだった。ベートーベンは、ウィーンの3人の貴族、すなわちルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵が、それぞれ1500グルデン、700グルデン、1800グルデンの合わせて4000グルデンの年金を支給するという契約書を、1809年3月1日付で結んでいたのだった。なぜこのような契約が結ばれたのかというと、その前年1808年10月にヴェストファーレン国王ジェローム・ボナパルト(ナポレオンの弟)から首都カッセルの宮廷楽長に招請を受けていたことが理由である。その契約は、年俸600ドゥカーテンを一生支給するほか、宮廷楽団の演奏をする以外は、自由に作曲に時間を当ててよいとするものだった。このような時、12月22日の項で述べた演奏会の失敗に見舞われ、ウィーンに愛想を尽かし、09年の1月にはベートーベンは「ウィーンを去ることにしました」との手紙を書くほどになった。これを聞いた、エルデディー伯爵夫人は、あわててウィーンの有力貴族たちに相談を持ちかけ、ベートーベンをウィーンに引き止めるためにできたのが、先の契約ということである。キンスキー侯爵の年金不払いを書いたが、実はその前にもう一つの事件が起こっていた。年金支給契約者の一人、ロプコヴィッツ侯爵が1811年夏に破産し、9月から年金支給ができなくなるというものだった。ルドルフ大公を除く2人が年金支給不能となってしまったのである。これに対し、ベートーベンは13年6月に契約違反を訴える訴訟を起こした。ベートーベンにも「年金問題」が発生していたということである。これは2年後の15年1月18日にベートーベンの勝訴となって決着が付いた。ベートーベンは、この間カッセル宮廷楽長の地位を引き受けていればと思ったことだろう。しかし恵まれた中で、あの崇高な第3期のピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲の傑作群が生まれただろうかなどとも考えてしまうし、またさらに多くの傑作が誕生したかも知れない。事実は、この後、ベートーベンはウィーンにとどまり、あのような人類史における芸術上の傑作群を残してくれたと言うことだ。
バイオリン・ソナタ第10番は、なぜかその契約違反者のうちの一人ロプコヴィッツ侯爵邸で行われ、この時ピアノはベートーベンの弟子でもあった年金支給者ルドルフ大公が担当したということである。

モーリス・ラヴェル

2007-12-28 15:12:08 | 20世紀音楽
今日は、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルの亡くなった日です(1937年)。
1930年から31年にかけて2つのピアノ協奏曲を完成させ、32年に映画「ドン=キホーテ」のための音楽を依頼される。ところが実際に出来上がった映画は他の作曲家による音楽が付けられた。結局その作品は、「ドゥルネシア姫に思いを寄せるドン=キホーテ」という3曲からなる管弦楽伴奏の歌曲集となった。この年10月パリで交通事故に遭い、重傷を負います。プッチーニの事故などとは違い、生活にも支障をきたすほどの大きな、後に脳の手術が必要となるような事故でした。ラヴェルの作曲家としての生命はここに断たれ、事故から5年後に亡くなりました。
ラヴェルの歌曲は、一つ一つがユニークなものに思えます。「シェヘラザード」「5つのギリシア民謡」「博物誌(ルナールの詩)」「民謡集(スペイン、フランスなど5曲)」「ステファヌ=マラルメの3つの詩」「2つのヘブライの歌」「マダガスカル土人の歌」などです。「マダガスカル土人の歌」などはラヴェルしか書けないのではと思います。
ラヴェルはフランスの作曲家といいましたが、父親がスイス人、母親がバスク人です。生後、家族はパリに移り住み、パリ音楽院で学びます。作曲を志す誰しもが目指すローマ大賞を5回受けながら得られず、「スペイン狂詩曲」などにより実力で当時のフランス作曲界のトップに踊り出ます。その直後に書かれたバレエ音楽「ダフニスとクロエ」が彼の最高傑作ではないかと思っています。後にフランス政府からのレジオンドヌール勲章の受章を拒否するなど、反骨漢というイメージを持ちますが、これこそがラヴェルの持ち味でしょう。ラヴェルの歌曲は、数は少ないものの、生涯に渡って書かれました。その詩の選択にはまさにラヴェルらしさがあるように思います。幸い、フランス声楽人のトップの人たちを中心にした歌曲全集が出ています。この後、その中のいくつかを聴いてみたいと思います。

スーザ「星条旗よ永遠なれ」

2007-12-27 21:24:27 | 音楽一般
今日は、スーザの「星条旗よ永遠なれ」が初演された日です(1896年)。
小さい頃家になぜかスーザの行進曲集のレコードがありました。時々聴いていたように思います。「忠誠」「ワシントン・ポスト」「士官候補生」「エル・カピタン」「美中の美」それに勿論この「星条旗よ永遠なれ」が入っていたように思います。最初はどれも似たもののように聴こえましたが、聴いていくうちにそれぞれ一つ一つの良さを感じるようになりました。「美中の美」というタイトルが印象的な語感を与えていたように思います。今辞典で調べると、「美中の美」は草花園芸博覧会のために作られたと出ています。今聴いてもスーザのこれら行進曲は古臭い感じはせず、行進曲の古典といわれる所以です。
スーザの行進曲は歴史の若いアメリカを象徴するような外面的な華やかさを感じさせますが、一方ドイツの行進曲は歴史的・伝統的な重みを感じさせます。何と言っても、ドイツ行進曲を代表する作と言えば、タイケの「旧友」です。タイケは、ほとんどこの曲1作で知られた作曲家ですが、確かにこれは名曲です。私は、プロイセン王国時代からのドイツ行進曲を集めた5枚組みのレコードを買うほどドイツ行進曲には惹かれるものがあります。それは、それらの作品にはそれぞれその歴史的な背景があり、そのような歴史から生まれた行進曲に惹かれるということです。
巨匠カラヤンは、70年代にベリリン・フィルの管楽アンサンブルを指揮してLP2枚からなるドイツ行進曲集を出したことがあります。ちょっと意外に思ったものでした。結局私は購入はしませんでしたが、ラジオで演奏を聴き、録音したことがあります。一糸乱れぬ演奏で、このような演奏をされるとなかなか一般の吹奏楽団は手も足もでないのではなどと思いました。



シベリウス・交響詩「タピオラ」

2007-12-26 20:17:20 | 20世紀音楽
今日は、シベリウスの交響詩「タピオラ」が初演された日です(1926年、ニューヨーク)。
交響詩は、19世紀の半ば頃、フランツ・リストにより確立された。その後、R.シュトラウスによってこれまでにない規模の大きな交響詩が書かれた。その間、スメタナの「我が祖国」、ボロディンの「中央アジアの草原にて」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」など多くの作品が生まれている。シュトラウスの交響詩がそろそろ終わりかけていた頃、前後するように登場し交響詩を発表していったのが、北欧フィンランドの作曲家シベリウスであった。
シベリウスは何曲くらい交響詩を書いたのだろう。「エン・サガ(伝説)」、有名な「フィンランディア」、「ポヒョラの娘」「吟遊詩人」などがあり、その最後に作曲されたのが「タピオラ」である。この交響詩「タピオラ」はこれまでにない規模の大きなもので、最後の交響曲となった第7番後に書かれ、シベリウスの最高傑作の一つという人もいる。この作品後、シベリウスは作曲をほぼ終え、約30年間一つの作品も発表することなく生涯を終えた。その理由は謎のままのようだ。

コジマ・ワーグナー

2007-12-25 08:31:43 | 音楽一般
今日は、コジマ・ワーグナーの生誕日です(1837年)。
コジマという名前を見ると小島さん、あるいは児島さんという日本人の姓を思い出してしまいます。この名前はヨーロッパの人に多く見られるのだろうか。ハンガリー出身なのでハンガリーの女性名には多くあるのだろうか。コジーマまたはコージマと伸ばす表記もあるようです。
コジマはピアニストであり作曲家でもあるハンガリーの巨匠フランツ・リストの次女で、1837年、リスト26歳の時に生まれました。母親は、マリー・ダグー伯爵夫人である。リストがマリーと知り合った時、マリーはリストより6歳年長の人妻だった。ベルリオーズによりリストに紹介されたのは1833年初めのことだった。2人は35年に生活を共にし、その年12月に長女を、37年に次女コジマを、そして39年に長男を生んだが、そのころマリーとは不和になり生活を解消する。長女と長男は早く亡くなった。コジマは最初ハンス・フォン・ビューローと結婚した。ビューローは1882年創設のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の初代常任指揮者である。2人の間には、2人の子供がいたが、コジマはビューロー自身心酔していたワーグナーと恋愛関係になり、1865年イゾルデ、1867年エーファ、1869年ジークフリートと3人の子供を生んでいる。(3人ともワーグナーの楽劇に出てくる名前である!)コジマは長命で、1930年92歳で亡くなった。その間、ジークフリートは1915年46歳でイギリス出身の女性ヴィニフレートと結婚した。有名な演出家ヴィーラントとヴォルフガングの2人を含む4人の子供をもうけたが、ジークフリートはコジマのあとを追うように同年1930年に亡くなった。その後バイロイトの主催者となったのは妻のヴィニフレートであった。1930年のドイツ。その頃党勢を伸ばしてきたのがナチスであった。党首ヒトラーはワーグナー信奉者であった。そしてヴィニフレートは根っからのナチス思想の賛美者であった。一時は2人は結婚するのではないかとの噂も立ったほどだと言う。1980年ヴィニフレートは亡くなったが、その数年前にインタビューに答えたことがあった。もし今でもヒトラーが現れたら、歓迎して出迎えるとの内容だった。私は新聞記事でそれを読んだのを記憶しています。読んだ時の印象ではたとえそのような考えだとしても時代の趨勢もあるし、よくもそこまで言うものだなと思ったのを覚えています。今ではワーグナーから見て4代目にあたる女性が演出家となり、活躍しているようですが、どうも私には彼女のような新しすぎる演出はよくわからないことがあり、曽祖父ワーグナーはこのような演出を良しとするだろうかなどと思ってしまいます。



ヴェルディ・歌劇「アイーダ」

2007-12-24 08:52:00 | オペラ
今日は、ヴェルディの歌劇「アイーダ」が初演された日です(1871年、カイロ)。
このオペラの第二幕の「凱旋行進曲」は多くの日本人に知られているだろう。そう、日本代表サッカー・チームの応援歌となっているのだ。誰が始めたのか知らないが、確かにこれはそれに相応しい音楽と言ってよいだろう。トランペットが高らかに鳴り渡る。行進曲は世に数多くあるが、この凱旋行進曲は高貴さではどれにも負けないものと思っている。歌劇「アイーダ」は他にも「清きアイーダ」「勝ちて帰れ」「おお、我が祖国」など有名な旋律が溢れた傑作です。ヴェルディは今さら言うまでもないがイタリアを代表する歌劇作曲家です。
今では、誰しもそのように考えるが、初演当時、この前奏曲はワーグナーの「ローエングリーン」の焼き直しであるとか、第二幕の行進曲はマイアーベーアの複製(戴冠式行進曲を指すか?)だとか、ワーグナーとグノーをイタリア風に焼き直したものですぐに忘れ去られるだろうとか、驚くような言葉がイタリアの新聞には載せられたということだ。しかし、3月下旬まで24回上演されたということで大衆はこのオペラの良さがわかっていたのだろう。
この歌劇は、サッカー・チームの応援歌と言うことで、日本とは結びつきが強く感じられるが、日本と関係するのはこのことだけではない。この行進曲で使われるいわゆる「アイーダ・トランペット」の製作を日本の楽器製作会社が行っていると言うことだ。ウィーン・フィルハーモニーからの依頼で8本(?)製作したというようなことを聞いたことがあります。(記憶で書いています。)またもう一つ、この「アイーダ」を初演したカイロの劇場はわりと最近のこと、全焼してしまったという。そしてその再建に日本は多くの財政補助を与えたということだ。そして再開して後、日本人指揮者が「アイーダ」を指揮するのに呼ばれたと言うことです。(これはつい最近聞いたように思います。)
私は、このイタリア歌劇を代表すると言ってよいオペラ「アイーダ」を幸運にも2度見ています。一度目は、本場イタリアのあのカラカラ劇場でです。ローマ時代の浴場が今は劇場として使われていて観光客相手に夏に公演を行っています。行進の時象が出てきて驚いたのを覚えています。確か9時から始まり、終演は12時を回っていました。2度目は、日本でです。これも本来の劇場ではなく、何と代々木体育館での「アイーダ」公演です。この時は、抽選に当たって行ったのです。迫力満点の公演だったのを覚えています。この公演は少し後にテレビ(フジ)で放送しました。勿論録画して、今ではDVDに収めています。
ヴェルディは、この後悲劇と喜劇の最高傑作とも言うべき「オテロ」と「ファルスタッフ」を生涯の総決算として書きます。「アイーダ」もそれらと同様、間違いなく傑作と考えてよいでしょう。

画像は、代々木での公演の幕間に飲んだワインのグラスです。

ヴォルフ=フェラーリ・歌劇「マドンナの宝石」

2007-12-23 09:46:40 | 音楽一般
今日は、ヴォルフ=フェラーリの歌劇「マドンナの宝石」が初演された日です(1911年、ベルリン)。
この歌劇は、おそらくその第3幕への間奏曲で有名なのではないだろうか。とても美しい旋律で、演奏を志すものは必ずや弾いてみたいと思うだろう。カラヤンはここでもそういった間奏曲の名曲を集めたレコードを残してくれています。確か3回ほどそのようなレコードを録音したと思います。その都度多少の選曲の違いを見せていますが、そのどのレコードでも最高の演奏を聴かせてくれます。この「マドンナの宝石」間奏曲は取り上げていないレコードもあるようですが、いずれにも取り上げている曲も何曲かあるようです。以前も書きましたが、カラヤンはロッシーニやウェーバーの序曲集やこの間奏曲集それにオペラ・バレエ曲集など、全曲取り上げるほどではないとする歌劇の中のエッセンスたる名旋律を最高の演奏で届けてくれるのですね。ですから愛好家にとってはこれらのレコードはまさに極上の1枚と言えるものです。

ベートーベン「交響曲第5番・第6番」

2007-12-22 21:25:18 | 古典派
今日は、ベートーベンの「交響曲第5番」と「交響曲第6番」が初演された日です。
ベートーベンの今に伝わる名作中の名作が2曲同時に初演されたことに驚いてはいけない。実は、この日ピアノ協奏曲第4番とそれにピアノ独奏と合唱を伴う作品80の合唱幻想曲のあわせて4曲が初演されたのであった。この演奏会は一体どうなっているのかと思うかもしれない。そして成功に終わったのか?
プログラムによると、
第1部
 1.交響曲《田舎の生活の思い出》ヘ長調(第5番)
 2.アリア(作品65、ああ不実なる人よ!)
 3.ラテン語による賛歌、合唱と独唱を伴う教会様式で作曲
 4.ピアノ協奏曲第4番
第2部
 1.大交響曲ハ短調(第6番)
 2.ラテン語による聖歌、合唱と独唱を伴う教会様式で作曲
 3.ピアノ独奏の幻想曲
 4.ピアノのための幻想曲、次第に全管弦楽が導入され、終曲には合唱が加わる(作品80、合唱幻想曲)
ということであった。今では考えることなど出来ないボリュームの演奏会である。この演奏会を作曲家のライヒャルトが聴衆の一人として聴いていた。そして彼は、6時半から10時半まで厳寒の会場にいて、演奏の失敗だらけを辛抱しはらはらしながら、またベートーベンを気の毒に思いながら聴いていた、ということだ。4時間!に及ぶ演奏会。オペラなら勿論あるだろうが、一般の演奏会ではおそらくないだろう。
失敗だらけ、気の毒に思ってとは?
アリアの独唱に予定していた、3年前にレオノーレを歌った名ソプラノはその愛人と作曲家が衝突し巻き添えで降りてしまった。代役のソプラノはそれを気に入らず断り、3番手のソプラノは未熟で、開演前興奮しすぎで鎮静剤をうったが効き過ぎ演奏不能になり結局アリアは歌われなかった。ベートーベンも譜面台の蝋燭をひっくり返すなどして聴衆は湧いたと記録されている。それだけではない。第2部最後の合唱幻想曲で、ピアノを独奏した彼の誤りによるものか管弦楽の不正確な演奏によるものか真相ははっきりしないが、終曲の途中で彼は演奏を止め、やり直しを命じたのであった。「ダ・カーポ(頭から)」と大声で叫ぶ作曲者を背に、寒さに震える聴衆たちは帰ってしまったのであった。
本来ならば、新作交響曲2曲を従え、野心的な内容の大演奏会で、生涯で一番の新作発表会となるべきものがこのような有様だった。この演奏会の2ヶ月ほど前に、カッセルの宮廷楽長に招きたいとの話が出ていたベートーベンは、ウィーンに嫌気をさし、翌年09年の1月には移ることを考えるほどだった。これはウィーンの貴族たちの計らいで実現を見ることはなかったが。
このプログラムを見て、もう一つ注目すべきことがある。それは現在6番ヘ長調《田園》となっているものが5番、そして現在5番ハ短調となっているものが6番と書いてあることだ。出版の関係でそのように呼ばれていたのだろう。しかし実際には現在あるような番号となった。ベートーベンの交響曲は、奇数番号のものは英雄的・激情的、それに対し偶数番号のものは温和で心安らぐものと言われるが、もしこの演奏会のプログラム通りの番号だったら、この法則は言えなかったことだろう。