西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

バッハ

2024-04-04 13:41:12 | 音楽一般
バッハは、1685年ドイツ中部の都市アイゼナハで生れ、1750年ライプツィヒで亡くなった。1750年は、音楽史におけるほぼバロック時代の後期の終りの年にあたる。
バッハは、その作品は、シュミーダーにより分野別、その中でのほぼ年代順にBWVの作品番号が振られ、作品を明示するのに大いに役立つ。BWV1からBWV1080である。ただ最近は、それを超える番号が付くものもあり、そのあたりの知識はない。

後に述べる、アルヒーフのバッハ選集を購入した時の特典にもらったものだろう。素晴らしい。
バッハについての基本知識は次の本により与えられた。

著者の角倉氏は、大学4年の時、授業でバッハについての講義を受けた。その時、どれだけ受け入れる知識があったか甚だ怪しいが、とにかく取って良かった。私にとってバッハと一つのつながりを持てたように思えた。当時まだ東ドイツの時代であった。バッハ所縁の都市は多くドイツ東部にあったが、角倉氏はそれらの都市を回ったような話をされた、ような記憶がある。(50年くらい前の話で、記憶違いもあるかも?)ある人物の研究者であれば、その人物がどのような都市の中で生活したか知りたくなるだろう。東側の国に行くのは大変な覚悟が必要な時期のことだっただろうから、特に私の記憶に残ったのではないかと思う。4年前、2020年に、私はライプツィヒに短い時間だったが行き、トーマス教会前のバッハ像に出会った。ただただ嬉しく思った。
バッハの作品をたくさん知りたいと思い、アルヒーフから11巻全部でジャストLP100枚のバッハの選集が出た時、躊躇なく購入した。本場アルヒーフのものであり、これはずっとそばに置いておきたい。
その数年後、CD時代になり、COMPLETEと銘打った作品集が出た。

全15巻、CD165枚に及ぶ全集。ずいぶん高額な買い物でしたが、真摯な編集、バッハに纏わる文化的背景など多くの知識を与えてくれるものとして購入した。書籍についてはこれからじっくり読んでいきたいと思う。
これらが出る前にも、様々なバッハのLP、CDを購入していた。処分しても惜しくないものもあれば、これは絶対に手離せないというものもある。その第一が、これだろう。

リヒテルによる、平均律クラヴィーア曲集、第1巻、第2巻の全曲である。ビクターより出されたものだが、他では見られない装丁によるものだ。それぞれLP3枚からなる。もちろんピアノによる演奏である。これは記念碑的演奏と言ってもいいだろう。遺してくれたことに感謝である。リヒテルについては演奏家編でまた書きたいと思う。
全集は、それこそCOMPLETEであるが、中に入っていないものがある。現在にその形で残ってなければ入りようがないが、それが次の曲集。

復元された6曲の協奏曲集である。たとえば、チェンバロ協奏曲第5番は、元はバイオリン協奏曲だったという。(この第2楽章を、バイオリンの演奏で聴くのが私は大好きです。)他では、このような企画はないのでは? これもそばに置いておきたいですね。
一番最後の番号、実際バッハ最後の作品になるBWV1080はフーガの技法である。楽器が指定されてないという。だから多くの演奏家によるいろいろな演奏形態が見られる。最初に書いた、角倉氏による授業の時、だれの演奏がいいですかと、直接質問しました。先生からの答えは、カール・リステンパルト指揮のザール室内管弦楽団によるものだった。もちろんこれも購入した。


全集にない曲も細かく見ればまだあったように思う。探したら、また付け加えたいと思う。またバッハの曲を後の人が編曲したものもありますね。全集には、第15巻「バッハとその周辺」に一部取り上げてありますが、これらについても、その一部を書いてみたいと思う。

ヴィヴァルディ

2024-03-28 18:18:18 | 音楽一般
アントニオ・ヴィヴァルディは、1678年ヴェネツィアに生を享け、1741年ウイーンに没した。

以前書いたが、私が高校生の頃、河出書房から「決定版 世界大音楽全集」が出版された。この当時、やはり同社から、「世界の歴史」なるものも出て、当時の私は、他では教わることのないだろうことを吸収したく、これらを購入した。これらは手元に置いておきたい思う。まだ読んでないところも多くあるので。(全集の中には、私には無意味な、役に立ちそうもない文も複数あったが)
この全集は、最初24巻で始まったが、後に6巻追加され、全30巻となった。そして私にとっては良かったことだが、書棚も売りに出され購入した。甚だ便利だった。
この書籍は、美しい写真、それに口絵が多く載せられて、私にとってはまだ見ぬ地への想像を掻き立てるものだった。
ヴェネツィアと言えば、ゴンドラである。2度私はヴェネツィアに行ったが、初めてサンマルコ広場に立った時のことは忘れられない。
ワーグナーが通ったカフェはどこだろう、亡くなった館はどこだろうと2回の見聞で見つけたりした。

蒐集家の私は、ヴィヴァルディの作品を多く聴きたい、手元に起きたいと集めに集めた。
購入した順でないが、上の大全集は、まず持つべきだろう。ヴェネツィアに本拠を置く楽団だ。作品1から14まで、生前に出版した作品を網羅したものだ。それ以前、LPでイムジチ合奏団のものも多く集めていたが、CDの便利さ、ワンセット、になっているので、購入した次第。
ところで、ヴィヴァルディは何曲作品を残しているのだろう、と見ると、今はネットに作品一覧が出ています。これらはほぼ正確なものと思っています。しかし、そのままでは使いずらいので、自分で加工して手元に置いています。その前にナンバリングですが、作曲者本人はなにも付けてないので、後世の研究者が付けます。これがまたいろいろあるようですが、今は一般にRV番号が使われるようです。私が目にしたのでは、819が最後です。一般に、協奏曲は450曲超書いているとか、とにかく猛烈な数ですね。だからいくら多く聴きたいと思っても無理です。
ところで、ヴィヴァルディはバイオリンを中心とした、ソナタや協奏曲を主に書いていると長く思ってましたが、実は宗教音楽やオペラも数多く書いているのですね。最初の頃は、知りませんでした。次のCDを見つけました。
ヴィヴァルディ 宗教音楽曲集(8CD)
また、BRILLIANTから出ているCD40枚組のセットも購入しました。これには他では出ていないだろうオペラも入っています。
THE MASTERWORKS ANTONIO VIVALDI(40CD BRILLIANT)

宗教音楽の中に、「グローリア ニ長調」(RV589)がありますが、これはフランス王ルイ15世(在位1715-74)の婚儀(1725年9月)の際に作曲されたのだと言われています。またその双子の王女(1727年8月誕生)のために「テ・デウム」(現在行方不明)が作曲されたという。
また神聖ローマ皇帝カルル6世(在位1711-40)のイタリア訪問の際には、ヴィヴァルディは「作品9 ラ・チェトラ」を献呈した。カルル6世はマリア・テレジアの父親である。

ヴェネツィアなど生国のイタリアを中心に活動したヴィヴァルディであったが、亡くなったのは現在オーストリアのウイーンであった。前世紀の半ばになり、ようやく死亡時期および場所が分かったという。「放蕩をきわめたあげくウィーンにて貧困のうちに死亡」なる文書が見つかったという。そして貧民墓地に埋葬された、と。晩年の多くの時期についてはいろいろわからないことがあるということのようだ。我々は残された作品、その録音でヴィヴァルディを知ることになる。

上は、ヴィヴァルディが亡くなった頃のウィーン。右奥に聖シュテファン大聖堂の尖塔が見えます。

鈴木バイオリンの4・5巻にヴィヴァルディの曲があり(有名なイ短調(Op.3-6)と、ト短調(Op.12-1))練習しましたが、いい曲ですね、いかにもイタリアらしい。

西洋音楽史 10

2024-03-27 13:17:39 | 音楽一般
バロック時代は、その初期にオペラの誕生を見るが、オルガン音楽もこの時代を特徴付けるものといっていいだろう。後期バロックに位置づけられる大バッハがその頂点をなしているが、それ以前にも隆盛を見ていた。大バッハ(1685-1750)が師と仰ぐブクステフーデ(1637-1707)の他に、リューベック(1654-1740)、シャイト(1587-1654)、ブルーンス(1665-1697)、スウェーリンク(1665-1621)、パッヘルベル(1653-1706)などがいる。それら大バッハ以前の作曲家のオルガン作品を集めたレコードが出た時、私は興味を持ち購入した。
1.バッハ以前のオルガンの巨匠たち(4LP アルヒーフ)
アルヒーフからは、同じくその頃の室内楽を集めた作品集も出た。
2.バッハ以前のドイツ室内楽(3LP アルヒーフ)
これにはブクステフーデ、パッヘルベルの他に、ラインケン(1623-1707)、ローゼンミュラー(1619-1684)、ヴェストホフ(1656-1705)などの作品が集められている。
以上の作曲者は、おおよそバロック中期に活躍した音楽家たちである。
この時期イタリアでは、コレッリ(1653-1713)やその門下のピエトロ・ロカテッリ(1695-1764)、フランチェスコ・ジェミニアーニ(1687-1762)など今に残る多くのバイオリン作品を産み出す作曲家が現れた。
この背景には、コレッリとほぼ同時代のバイオリン製作者アントニオ・ストラディヴァリ(1644?-1737)を中心とする今にその名器が伝わるバイオリン製作者の刺激があったことだろう。(ストラディヴァリウスというのは、ストラディヴァリをラテン語表記にしたもので、楽器のラベルに使われる。日本では「ストラド」と略称されるようだ。)
バイオリンは1550年頃、イタリアのクレモナ(ミラノの南東85㎞)でアンドレア・アマティ(1505-77、他の年代を記すものもある)によって発明されたという。当時の弦楽器のヴィオラ・ダ・ガンバは音程を取るためのフレットがあるが、バイオリンにはない。つまりほぼ今と同じ完成された状態で登場したということができる。
アンドレア・アマティは、フランス王シャルル9世(在位1560-74)から宮廷楽団のための楽器の注文を受けるなどした。そのバイオリン製作技術は息子のアントニオ(1560-1649)、ジロラモ(1562-1630)に、更に孫のニコロ(1596-1684)に継承された。そしてこのニコロの弟子がアントニオ・ストラディヴァリである。
アントニオ・ストラディヴァリの息子フランチェスコ(1671-1743)とオモボノ(1679-1742)もバイオリン製作に携わったが、その数は少ないという。
長命のアントニオ・ストラディヴァリおよびその二人の息子とほぼ同時代、所も同じクレモナにバイオリン工房を持った人物にバルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ(1698-1744)がいる。(その作品は、ラテン語表記で、グァルネリウスと呼ばれる)グァルネリは、一般に「グァルネリ・デル・ジェズ」と呼ばれる。ストラディヴァリおよびグァルネリは活躍した地からクレモナ派と呼ばれるが、グァルネリが模範としたのはブレシア(ミラノの東96㎞)に居を構えたガスパロ・ダ・サロ(1549-1609)の作品だった。サロはブレシア派の開祖と呼ばれる。アマティは甘美なメロディー楽器を、サロは朗々と鳴り響く楽器作りを目指したという。
上のような、バイオリン製作家を背景に、イタリアを中心に各地にバイオリンの技巧を駆使する名作が生れた。収集癖の私は、この時代の今に伝わる作品をいくつか購入した。
3.《メルクス/悪魔のトリル》「イタリア・ヴァイオリンの栄光」(LP アルヒーフ)
4.《ビーバー、ロザリオのソナタ》(全曲)(2LP アルヒーフ)

バロック時代も後期になると、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデルなどより一般に知られる作曲家が登場する。これからは、作曲家や演奏家別に、できるだけ時代背景を追いながら駄文を連ねていきたい。以前書いたように、何を手元に置いておきたいか取捨選択する場としたい。

今、久しぶりにバロック音楽の気分を味わおうと、ビーバーのソナタの第1番を聴いた。解説文を読むと、スコルダトゥーラの多用とある。つまり、バイオリンの調弦が普通と異なるという。マーラーの第4番の第2楽章を思いつくが、そんなもんじゃない。びっくりした。

ブラームスの「ドイツ・レクィエム」

2023-05-31 16:27:56 | 音楽一般
ブラームスの「ドイツ・レクィエムEin deutsches Requiem 作品45」は、ブラームス33歳の1866年に完成をみた作品である。全7曲からなり、レクィエムの名称からは、ラテン語の典礼文がすぐ思いつくが、ルター派のプロテスタントであるブラームスは、この典礼文を使わず、旧・新約聖書から、自分で適当な歌詞を見つけ出し作曲した。ラテン語によるレクィエムが死者の安息を願うものであるのに対し、ブラームスのこの作品は今生きる者への慰め、また喜びを見出させることを願い作曲されたと言うことができるだろう。
第1曲は、バイオリンは用いられず、クラリネット、トランペットも使われず、華やかさから遠ざかったものとなっている。バイオリンのパート譜を見ると、Nr.1 tacetとある。この語は、ラテン語taceo(タケオー)の第3人称単数である。辞書を見ると、to be silent,not speak,say nothingとある。「だまる・黙する」である。ということからではないが、この曲に魅かれた私は、第2曲を勉強したくなった。歌曲もそうだが、やはり私はこの合唱曲の歌詞を知らなくてはと思い、レコード・CDなどのライナーノート、それにありがたいことにネット上に出ている解説文などを参照させていただき、自分なりの読解を(第2曲だけであるが)書きたいと思った。

この第2曲は、解説によると7つの部分に分けられるということだ。♭が5つ付く変ロ短調であるが、♭6つの変ト長調になり、再度変ロ短調となり、後半部分は♭2つの変ロ長調で終わる。♭や♯が3つまでが私の技量範囲であったが、その意味でひとつの挑戦になる。

1.
Denn alles Fleisch, es ist wie Gras
und alle Herrlichkeit des Menschen
wie des Grases Blumen.
Das Gras ist verdorret
und die Blume abgefallen.
なぜならすべての肉体、それは草のようであり、
そして人間のすべての栄華は草の花のようであるからだ。
草は枯れそして花は落ちる。
【語釈】
denn (接)というわけは~だから,Fleisch (英のfleshと同語源)(中)肉・肉体・人間,wie (英 how)(比較の接続詞)~のように,Gras (英 grass)草(すぐ後のGrasesは単数属格),Herrlichkeit (女)栄華,MenschenはMensch(男)人・人間、の単数属格,BlumenはBlume(女)花(英 bloom)の複数形,verdorretはverdorren(自)枯れる,の過去分詞で,istと共に現在完了形となっている。abgefallenはabfallen(自)[離れ]落ちる、の過去分詞で,現在完了形を作るがistが省略されている。
2.
So seid nun geduldig, liebe Brüder,
bis auf die Zukunft des Herrn.
Siehe, ein Ackermann wartet
auf die köstliche Frucht der Erde
und ist geduldig darüber,
bis er empfahe den Morgenregen und Abendregen.
So seid geduldig.
それだから親愛なる兄弟たちよ、主の到来まで忍耐強くありなさい。
見なさい、農民は大地のすばらしい果実を待ち
そして朝の雨と夕べの雨を受け取るまで、そのことに忍耐強くある。
だから忍耐強くありなさい。
【語釈】
so(英 so)(副)それでは、seidはsein(~である)の命令法2人称複数形、nun(英 now)(副)今や・それで・それ[だ]から、lieb(英 lief(副)喜んで)(形)親愛な・敬愛する,bis auf ∼ ~に至るまで、Zukunft(女)将来・来世、HerrnはHerr(男)主・神、の単数属格,sieheはsehen(見る)(英 see)の命令法,Ackermann(男)農民warten(英 ward)はaufを伴い、~を待つ、köstlichは(形)美味な・高価な・すばらしい、Frucht(英 fruit)(女)実・果実、Erde(女)(英 earth)大地・地球、darüber(副)それについて、bisはここでは(接)まで、empfaheは3人称単数で、faheに前つづりのempがついたもの。fahenは(詩語)で現在形のみ使われる語で、fangen(捕える)と同語。empfangenは(他)受け取る、MorgenregenとAbendregenは辞書にないが、Morgen(英 morning)(男)朝、Abend(英 eve[ning])(男)夕方、Regen(英 rain)(男)雨、の合成語
3.
Denn alles Fleisch, es ist wie Gras
und alle Herrlichkeit des Menschen
wie des Grases Blumen.
Das Gras ist verdorret
und die Blume abgefallen.
なぜならすべての肉体,それは草のようであり,
そして人間のすべての栄華は草の花のようであるからだ。
草は枯れそして花は落ちる。
4.
Aber des Herrn Wort bleibet in Ewigkeit.
しかし主の言葉は永久に留まる。
【語釈】
aber(接)しかし・だが、Wort(英 word)(中)語・ことば、bleiben(自)留まる、Ewigkeit(女)永久(遠)
5.
Die Erlöseten des Herrn werden wiederkommen,
und gen Zion kommen mit Jauchzen;
Freude, ewige Freude,
wird über ihrem Haupte sein;
主に救済された人々は帰って来るだろう,
そして歓声を上げシオン山に来ることだろう;
喜び,永遠の喜びが彼らの頭上にあることだろう;
【語釈】
Erlösetenは、erlösen(他)救い出す・救済する、の過去分詞erlösetが名詞化され用いられたもの、wiederkommen(自)帰って来る、gen(前)(対格支配)(詩語)~に向かって、Zion(男)シオン山(エルサレムの丘)、Jauchzenは、jauchzen(自)歓声をあげる・歓呼する、が中性名詞として用いられたもの、ewig(形) 永久(遠)の、Freude(女)喜び、Haupt(英 head)(中)頭
6.
Freude und Wonne werden sie ergreifen,
und Schmerz und Seufzen wird weg müssen.
喜びと大いなる歓喜を彼らはつかむことになるだろう,
そして苦痛と嘆息は消え失せるにちがいないだろう。
【語釈】
Wonne(女)大歓喜・狂喜、ergreifen(他)つかむ・捕える、Schmerz(男)痛み・苦痛・苦悩、Seufzenはseufzen(自)ため息をつく・嘆息する、が中性名詞化され使われたもの、weg(英 away)(副)去って・(消え)去って
7.
ewige Freude
永遠の喜びを

この曲は、完成までに10年を要したということだ。先にも書いたがこのときブラームスは33歳。宗教曲の大曲は、晩年に物されるものと考えてしまうが、ブラームスは逆で、この後に4つの交響曲、それに室内楽など多くのすぐれた作品を遺すのであった。晩年には多くのピアノ小品などがあり、これからそれらも十分に味わっていきたいと思う。

演奏ですが、やはり私はカラヤンのものを取り上げたいと思います。カラヤンはこの作品を4回録音していますが、私は2種所持しています。

他に放送されたものをビデオからDVDに保存してあり、やはり映像で見られるのは魅力的です。戦後すぐに録音されたものも、そこにはカラヤンの思い入れがある名演と思っています。なお、現在は、本当にありがたい時代ですね、YouTubeで見られるのは嬉しいことです。クーベリック指揮の教会での録音、私は好んでこの動画を見ていろいろ学んでいます。こうなると、本当にレコード、CDは不要になってしまうのだろうか? などと思いますが、私は愛着のあるものはとても手放す気にはなれません。

西洋音楽史 9

2022-08-21 16:14:32 | 音楽一般
バロック時代前期、ドイツは国難の時を迎えるのであった。ボヘミアの急進派新教徒議員が2人の皇帝顧問官を投げ落とす事件が起こった(プラハ王宮事件、またはプラハ窓外放擲事件)。1618年5月23日のことである。前年にボヘミア王となったフェルディナントが、宗教改革後、新教が流布したボヘミアで信仰の自由を取り消したためである。皇帝マティーアスもフェルディナントを助けるべく軍隊を派遣したが、新教徒側はこれをも破る勢いを示した。翌年3月マティーアスが亡くなると、フェルディナントがフェルディナント2世として皇帝位に就いた。これに対し、新教側はフェルディナントのボヘミア王位を取り消し、新たにファルツ選帝侯フリードリヒ5世を国王に選んだ。当時ドイツ国内は新教派と旧教派に分かれ、フリードリヒは新教側である。しかしカルヴァン派のフリードリヒにルター派の諸侯たちが援助することは少なく、これに対し旧教側は国内の旧教派諸侯及びスペインの援助を受け、「白山(ビーラー・ホラ)の戦い」で勝利を収めることになる。1620年11月8日のことである。新教側は敗北し、フリードリヒはボヘミア王位を失った。この2世紀半後、チェコの愛国者ドボルザークは讃歌「白山の後継者たち」を作曲した。管弦楽伴奏の合唱曲で翌年の1873年にプラハで初演された。これだけで終われば、ドイツ国内の反乱事件は2,3年で終結したことだろう。その後、様々な思惑から周辺のデンマーク、スウェーデン、フランスがこのドイツ国内の宗教絡みの紛争に乗り出した。そして、最終的には宗教とは関係のないところで終結した。1618年に始まった戦争は1648年のウエストファリア条約で終わった。よって、30年戦争Thirty Years' Warと呼ばれる。デンマークとの戦争ではドイツ皇帝軍の司令官ワレンシュタインの活躍が見られた。フランスの作曲家でワグネリアンのヴァンサン・ダンディはシラーの戯曲に基づく管弦楽曲「ワレンシュタイン」を書いた。その後、スウェーデン王のグスタフ2世アドルフは領土的野心から紛争に加わり、皇帝軍をリュッツェンの戦い(1632)で破ったが、王自身この戦争で戦死してしまった。王の死後、スウェーデンでは、6歳の王女クリスティーナが王位に就いた。
この戦争でドイツ国内は疲弊し、人口の3分の一が失われたという。ドイツは三百数十の領邦国家に分裂し、このウエストファリア条約は「ドイツ帝国の死亡証書」と呼ばれる。

この様な時代に、ドイツでは3Sと呼ばれる音楽家が誕生し、後世に残る作品を遺した。シャイト、シャイン、シュッツである。このうち、シュッツは、ヴェネツィアに留学し、ジョヴァンニ・ガブリエリのもとで学んだ。その後、ドイツに戻るが、再びイタリア、デンマークなどに渡り、最後はドレスデンで亡くなった。シュッツの作品は、生きた時代の苦悩を体験した人の感情が込められているように思う。私はその中で「イエス・キリストの物語」「イエス・キリストの十字架上の7つの言葉」を買い求めた。
シュッツは1585年に生れたが、そのちょうど100年後、J.S. バッハが誕生した。シュッツはドイツ音楽の基礎を築き、バッハを生み出す先蹤となったと言うことができるだろう。

西洋音楽史 8

2022-08-13 13:43:30 | 音楽一般
バロック期の中期になるとイタリアでコレルリ、トレルリなどバイオリン音楽の大家が出現する。コレルリは、バイオリンを学んだ人は誰でも取り上げる「ラ・フォリア」が有名である。作品1から6にそれぞれが12曲ずつ含み、すべて録音され出ている。全集と言うとすぐ揃えたくなる私は買い求めました。その前に「ラ・フォリア」を含む作品5の全曲は買っていましたが。


コレルリの作品6「合奏協奏曲」の8に「クリスマス」と題する曲があります。トレルリにもあり、後期バロックに属するロカテルリ、マンフレディーニにもあり、これらの4曲クリスマスに因む作品をまとめて名指揮者カラヤンが録音を残してくれています。カラヤンは音楽史の隅々まで目をやり、後世に最優秀の録音を遺してくれたのは大変嬉しいことです。

国王の祝賀会でオペラが上演されたことを述べましたが、バロック中期の1666年に行われた婚儀でも同様のことが行われました。ハプスブルク家のレオポルト1世とスペイン王フェリペ4世の王女で国王カルロス2世の姉に当たるマルガリータ・テレサとの結婚式です。翌1667年チェスティ作曲の「黄金のりんご」が上演されました。5幕66場という長大なもので、目を奪うような豪華な舞台だったということだ。マルガリータはベラスケスの描いた肖像画で有名です。昔は写真はありませんでしたから、この絵をハプスブルク家に届け、お見合い写真のように扱ったということです。2人に子供は生まれたが、近親婚(伯父と姪の関係)のためか出産後まもなく亡くなったものが多かった。弟のカルロス2世も同様だった。生まれつき病弱で子供はいなかった。スペインでは、1700年にカルロス2世が亡くなったとき、スペイン継承戦争が起こった。この戦争は1713年ユトレヒト条約を結び終結したが、この年ヘンデルが作曲した「テ・デウム」がその記念に聖パウロ大聖堂で演奏されたのだった。

西洋音楽史 7

2022-08-11 15:45:00 | 音楽一般
モンテヴェルディは、1610年ローマに向かった。その時携え、教皇パウロ5世に献呈したのが「聖母マリアのミサと晩課」である。名誉職を求めたのであるが、上手くいかなかったらしい。1613年、結局モンテヴェルディはマントバからベネチアへ移り、サン・マルコ大聖堂の楽長職に就き、他界するまでの30年間ここで暮らすことになった。ベネチアは1637年に最初の公開オペラ劇場サン・カッシアーノ座が誕生し、オペラが一部貴族だけのものではなく、大衆の娯楽の場を提供するものになった。ここでモンテヴェルディは、「ウリッセの帰還」と「ポッペアの戴冠」の晩年の2大オペラを作曲した。
フランスでは、アンリ4世が1610年に暗殺された後、長男のルイ13世が即位し、その後1643年にルイ14世が4歳で王位に就いた。1653年、ルイが14歳になった時、リュリなどが作曲した宮廷バレエ「夜」に「太陽」の役で舞台に上がった。作曲者のリュリも一緒に踊ったという。リュリはルイの従妹のオルレアン家のアンヌ・マリー・ルイーズのイタリア語会話の相手にイタリアから来ていたのだったが、後にルイ14世に仕え、宮廷合奏団を指導するまでになった。ルイ14世が後に「太陽王」と呼ばれるのは、これに由来する。
ルイ14世は、1660年、スペイン国王フェリペ4世とアンリ4世の息女(つまりルイ13世の妹)のエリザベート(スペイン名イサベル)との王女のマリー・テレーズと結婚式を挙げた。この祝賀行事にイタリア出身のサン・マルコ大聖堂の楽長を務めたカヴァッリのオペラ「クセルクセス」が上演された。
ルイ14世は、1661年に宰相マザランが亡くなると、親政を開始し、パリ郊外に宮殿の造営に取り掛かった。そして1682年から王はそこに住むことになった。ベルサイユ宮殿である。ここで奏でられた音楽と作曲者に興味を持ち、次のレコードを買い求めた。全部で7枚。全部揃えると写真集がもらえるからというのでだったが、買い過ぎたか? 

この時代の音楽家には、教会音楽に印象的な作品を残したシャルパンティエやドラランド、それにクラヴサン音楽を多く作曲したクープラン(ルイとフランソワ)などがいる。



西洋音楽史 6

2022-08-10 10:56:48 | 音楽一般
バロック音楽の時代は、1600年頃から1750年頃とされる。ルネサンス時代同様、ここでも50年ごとに初期、中期、後期と区分される。
バロック音楽はいつごろから日本で一般に聴かれるようになったのだろうか。ヴィヴァルディ、バッハ以外を言うならば、1970年代以降が主でなかったか。そのころラジオでバロック音楽を扱う番組があり、私は好んで聴くようになった。(自分の中では、このような印象でしたが、実際には昭和35年にヴェンツィンガー指揮のバッハ「ブランデンブルク協奏曲」が発売され、また服部、皆川両氏の「バロック音楽の楽しみ」は昭和37年に始まったということです」)一つには、服部幸三さんの語りで、都市ごとにその都市に纏わる音楽家を取り上げていたのを思い出す。カセットテープにとり、今もわずかだが持っていて聴くことができる。また別の番組では幅広くバロック音楽の作曲者を取り上げ、その内容パンフを請求し、今もそれを持っている。下がそれである。

昭和47年から48年の放送とある。ここで知らなかった作曲家、作品を聴き、バロック音楽により開眼されたように思う。また、次の本も買い、とても勉強になった。

著者皆川氏は、読めば分かるが、独自の考えを持ち、それを披露すること多々あるが、読んで教えられることも多く、名曲名盤を100紹介しているが、7割~8割所持するようになった。バロック小辞典が付いて私などにはとても勉強になり、ありがたい。
また少し後になるが、NHK市民大学で磯山雅(ただし)氏の講義による「バロック音楽」のテキストを買った。

当時どれだけテレビを見たか(ほとんど見てなかった?)覚えてないが、今回テキストを熟読しとても勉強になった。このような本、パンフの類も私は捨てずに持っています。いつか処分するでしょうが。
磯山氏は特にバッハの著書などを買い求め、大いに勉強になることが多かった。事故で亡くなられた報を見た時は本当にびっくりした。その前に見た夢のことが氏の日記のようなものに書いてあり、それをネット上で読み、印象に残ったことを思い出す。
いくつかの本、百科事典などを読み、バロック音楽がどのような時代に、どのような事と関わっていたかなどを書いてみたいと思います。

バロック時代の開始年と言われる(実際には、1580年代にすでに始まったと考える見方もあるが)1600年の10月、フランス、ブルボン朝初代アンリ4世がイタリアの花の都フィレンツェで、トスカナ大公国を支配する名門メディチ家のマリアと結婚式を挙げた。この祝賀行事にオペラの上演が含まれていた、ペーリが作曲したオペラ「エウリディーチェ」でピッティ宮で行われた。花嫁はフランスではマリ・ド・メディシスと呼ばれることになる。またこの上演の3日後にはカッチーニらが作曲した「チェファロの強奪」がウフィツィ宮で上演されている。オペラはバロック時代に生まれ開花した。オペラ「エウリディーチェ」が1600年に上演されたことは時代を画する出来事と言っていいだろう。
その7年後、マントバの宮廷では、モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」が上演された。劇的な表現が見られ、歌劇のその後の方向を決定づけるものとなった。モンテヴェルディは、他のオペラ、マドリガル曲集、教会音楽など多くの作品を書いた。私はその中で「聖母マリアのミサと晩課」(3LP)を買い求めた。レコード店でもう一つ有名な作品「倫理的宗教的な森」(おそらく5LP) を何度も目にしたが、これは買わず仕舞いに終わった。 モンテヴェルディは、初期バロックの最大の作曲家と言っていいだろう。


ずっと昔、コンサートで指揮者にインタビューすることがあった。尋ねられた彼は、日本の民謡のことが話題となった時、民謡は嫌いです!と言った。アンタ日本人で(そう思ってました、当時)、音楽の仕事しているんだろう、と思い、嫌いでもそのような事を言うか?、と思いましたね。マーラーやショスタコをよく振る音楽家で、その時に演奏されたチャイコの「イタリア奇想曲」はとても印象に残ったのでしたが。
西洋音楽について、(ベートーベンを敬愛し、西洋音楽をよく知りたいが出発点であったが)、書いてきたが、自国の音楽も知りたいと思い、その一助に、大学時代ちょうど発売された全集を買い求めた。生協で「筑摩書房の邦楽(ホウガク)大系」が欲しいと言ったら、お店の人「法学」ですか?、と聞いてきた。

リタイア後、じっくり読み、聴いて、学びたいと思いながら、まだできていない。まあゆっくり取り組みたいと思っているところです。だけど日本の音楽の歴史は理解するには、私などにはなかなか難しいものがありますが、少しずつ読み、聴いて行きたいと思います。


西洋音楽史 5

2022-07-28 21:15:52 | 音楽一般
ルネサンス時代の初期に当たるブルゴーニュ楽派の時代はギヨーム・デュファイ(1400頃―1474)を代表とする。次のフランドル楽派はヨハンネス・オケゲム(1425頃―97)の名がまず挙げられる。彼は3代のフランス国王に仕えた。シャルル7世(1422-61)、ルイ11世(1461-83)、シャルル8世(1483-98)である。オケゲムの後、ヤコブ・オブレヒト(1450頃―1505)、ジョスカン・デ・プレ(1440頃―1521)が続き、このジョスカンを持って、中期(盛期)ルネサンスの代表とされる。
フランドル楽派の最後を飾るのは、後期ルネッサンス時代を代表するオルランド・ディ・ラッソ(1532頃―1594)である。フランドルに生を享けたが、ブルゴーニュの宮廷は既に終息し(1477)、フランドルの地はハプスブルク家、さらにスペイン王家の支配するところとなり、スペイン生まれのフェリペ2世(ヴェルディのオペラ「ドン・カルロ」のタイトルの父親に当たる、在位1556-98)は、フランドル人にとっては忌避すべきものだった。オランダ独立戦争(1568年開始)の結果、フランドルの北部はネーデルランド共和国(1581年建国を宣言)が起こるなどして、音楽家たちは、帰る故郷を失う有様になった。ラッソは、イタリアで学び、南ドイツ、ミュンヘンで没した。2000曲の教会音楽、世俗音楽を作曲して「天才オルランド」と称されたということである。
(ルネサンス時代の代表的作曲家として、
 初期‥ギヨーム・デュファイ(1400頃―1474)、
 中期(盛期)‥ジョスカン・デ・プレ(1440頃―1521)、
 後期‥オルランド・ディ・ラッソ(1532頃―1594)
  と覚えるといいでしょう。ギヨームは前に出た中世の第3期を代表するギョーム・ド・マショー(1300頃―1377)と間違えやすいので注意! ギョームGuillaumeはフランス名で、英語のWilliamにあたる。ウイリアム・テルは、仏語でギョーム・テルである)

アルヒーフレコードでは、かつてJ.S.バッハを中心に中世からウィーン古典派までの音楽を網羅的に出していた。(以前書いたマンロウの《ゴシック期の音楽》もこのシリーズ)私にはとても魅力的なシリーズで、その中からいくつか購入した。他のレーベルのものもあり、次のものを揃えてしまった。

このようなカタログも捨てられなくまだ持っている。いずれ処分することになるだろうが。

1.デュファイ、ダンスタブル:モテット集 プロ・カンティオーネ・アンティクヮ
2.オケゲム:死者のためのミサ曲 ジョスカン・デ・プレ:オケゲムの死を悼む挽歌 ブルーノ・ターナー指揮 プロ・カンティオーネ・アンティクヮ(LP)
3.アヴェ・レジナ/16世紀フランドル楽派のモテトゥス ターナー指揮 プロ・カンティオーネ・アンティクヮ
4.ジョスカン・デ・プレ:ミサ曲、モテトゥス ブルーノ・ターナー指揮 プロ・カンティオーネ・アンティクヮ(LP)
5.ラッスス:「7つの懺悔詩篇歌」第1曲、第4曲 3つのモテット ターナー指揮 プロ・カンティオーネ・アンティクヮ
6.パレストリーナ ミサ・オディエ・クリストゥス・ナトゥス・エスト フィリップ・レッジャー指揮 ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団(LP)
7.パレストリーナ:ミサ曲、モテット ターナー指揮 プロ・カンティオーネ・アンティクヮ
8.パレストリーナ 教皇マルチェルスのミサ ミサ・ブレーヴィス ウィルコックス指揮 ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団

9.パレストリーナ 《アヴェ・マリア》ミサ レッジャー指揮 ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団 
10.ビクトリア 聖週間 聖務曲集 ラ・クエスタ神父指揮(3LP)

11.ビクトリア:レクイエム ジョージ・ゲスト指揮 ケンブリッジ・セント・ジョンズ・カレッジ合唱団(LP)
12.涙のパヴァーヌ(ルネッサンス舞曲の楽しみ) マンロウ指揮 ロンドン古楽コンソート&モーリー・コンソート
13.タリス/エレミアの哀歌 ミサ曲「プエル・ナトゥス・エスト」他 レッジャー指揮 ケンブリッジ・キングズ・カレッジ合唱団
14.タリス:エレミア哀歌 バード:3声部のミサ曲 ターナー指揮 プロ・カンティオーネ・アンティクヮ


帰るべき故郷を失った後期フランドル時代の作曲家たちはイタリア、スペインなど外国にその跡を残すことになった。その頃のイタリアに誕生したパレストリーナ(1525-1594)は、折からのトリエント公会議(1545-63)の要請に応えるかのように「透明な構成、ポリフォニーとホモフォニーの適切なバランス、規則だった不協和音の用法など」(皆川氏の文章より)によるミサ曲、モテトゥスなどの教会音楽、さらに世俗マドリガルにも多くの作品を残した。8.の「教皇マルチェルスのミサ」は、パレストリーナの作品中、最も有名な曲の一つであろう。マルケルス2世(在位1555)は在位22日であった。教皇は、音楽を簡素化し歌詞が聴いてわかるよう提言した。これに応えてこの曲が作られ、命名された。
3.にはゴンベールの「アヴェ・レジナ・チェロールム」が含まれている。このフランドル出身の音楽家は神聖ローマ皇帝カルル5世(=スペイン王カルロス1世)の宮廷に仕えていた。16世紀スペインの掉尾を飾るのはトマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548-1611)である。ビクトリアの偉大な作品の一つ「死者のためのミサ曲」はフェリペ2世の妹で神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の妃のマリアの葬礼のために作曲された。ビクトリアの神秘的な作品を聴くと、私は同時代の画家エル・グレコ(1541-1614)の画風を想像してしまう。数年前、スペイン旅行でトレドのサント・トメ教会を訪れた時、そこで見たエル・グレコの最高傑作と言うべき「オルガス伯の埋葬」が10.の「聖週間 聖務曲集」とほぼ同時期の作品であることがわかった。

西洋音楽史 4

2021-08-27 13:34:46 | 音楽一般
音楽史におけるルネサンスの時代は、1450年頃から1600頃までで、この時代を50年ずつに区切り、(1)ブルゴーニュ楽派、(2)フランドル楽派、それと(3)ルネサンスからバロックへ の時代と前に述べた。ここに出るブルゴーニュ、フランドルはどのような土地で、どうつながるのか見てみたい。
ブルゴーニュは、ゲルマン民族の一派ブルグンド族の名に由来する。437年から534年まで南フランスのローヌ川周辺にブルグンド王国を作った。それ以前、ウォルムスWormsに都していたブルグンド族は、アッティラ大王に率いられたフン族によりグンテル王以下全王族が殺され滅亡した。その遺臣たちが、ローマ皇帝によりアラマン族の防波堤になるよう南フランスに移ることを許されたのだった。
アッティラというと、ヴェルディのオペラ『アッティラ』をすぐ思い浮べるが、フン族によるブルグンド王国滅亡は、1200年頃に書かれた中世ドイツの文学作品『ニーベルンゲンの歌』で語られ、ワーグナーの『ニーベルングの指輪』の題材となった。
同じゲルマン民族の一派フランク族により、ガリアの地、今のフランスに、481年フランク王国メロビング朝が建てられたが、その初代クロービス1世は最初他のゲルマン族同様キリスト教アリウス派を信奉していたが、496年ローマ・カトリックに改宗した。このことは他のゲルマン族国家を征服する口実となり、534年テウデリヒ1世の時、ブルグンド王国はフランスの一部となったのだった。その後、時代は下り、14世紀バロア朝の時代、第2代ジャン2世は百年戦争中のポアティエの戦い(1356年)で英国側のエドワード黒太子に敗れ、ロンドン塔に幽閉された。次のシャルル5世(在位1364-1380)になり、ブルゴーニュの地はその弟フィリップ剛勇公(在位1364-1404)の支配するところとなった。これが初代ブルゴーニュ公で同公国の始まりである。首都ディジョンの宮廷は著名な音楽家が活躍する場となり、芸術文化が花開くこととなる。フィリップは、1369年、フランドル伯ルイ2世と、ブラバント公ジャン3世の娘マルグリット、の長女であるマルグリットと結婚する。このことにより、ブルゴーニュ公領は、フランドルおよびアルトアの地も併せ持つようになり、公領は広がることとなった。フィリップの後を第2代ジャン無畏公(在位1404-19)が継ぐが、この時は英仏間の百年戦争中でブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立があり、ジャンは暗殺されることとなった。

下記『中世の秋』より。
このブルゴーニュの宮廷で活躍したギヨーム・デュファイ(1400頃―1474)は同じく同宮廷で活躍したジル・バンショワと異なり、イタリアにも赴き、1431年ローマ教皇エウゲニウス4世(在位1431-47)の戴冠式のためにモテット「忠実な教会の都ローマ」を、また1436年に完成したフィレンツェのサンタ・マリア大聖堂の献堂式ではモテット「みずみずしいばらの花よ」を作曲した。そして1453年オスマン・トルコによりコンスタンティノポリスが陥落した翌年にジャン無畏公の息フィリップ善良公(第3代ブルゴーニュ公、在位1419-67)の呼びかけで同都の奪還を求める集会のために「コンスタンティノポリスの聖母教会の哀歌」を作曲した。善良公と次のシャルル豪胆公(第4代ブルゴーニュ公、在位1467-77)は芸術に理解を示し、多くの音楽家が活躍した。シャルルには唯一の女子マリが残された。この結果、ブルゴーニュ公国はフランスに併合されることになり、またマリ(1457-1482)は後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(1459-1519、在位1508-1519)と結婚し、ここにフランドルの領地は神聖ローマ帝国皇帝のハプスブルク家に引き継がれることになった。オランダの歴史家ホイジンガはその主著『中世の秋』のシャルル豪胆公に多く言及している。