西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

バラキレフ「イスラメイ」

2007-12-12 09:07:33 | 国民楽派
今日は、バラキレフのピアノ曲「イスラメイ」が初演された日です(1869年)。
この「イスラメイ」はとても有名です。それは、これがピアノ演奏者にとって難曲中の難曲だからです。ピアノを弾けない私にはこれがどう難しいのかわかりません。また楽譜を見たこともないので判断しようもありません(見ても分からないでしょう)。と書いたあとネットで探したら、楽譜を見ることができました。確かに弾くのが難しそうです。(私には全部そう見える?)フランスの作曲家ラヴェルは、この「イスラメイ」に対抗しようと、「夜のガスパール」でもっと難しい曲を書こうとしたそうです。対抗意識を燃やさせるほどの難曲であるということです。
バラキレフは、ロシア国民楽派に属するいわゆる「5人組」の一人です。キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフが他の4人です。私は深く知ってるなどとはまだ到底言えませんが、彼ら国民楽派の音楽には、自国に対する愛着が感じられ、どの国であろうと、そのような音楽は私の好むものです。そのような心情が表れやすいのは、歌曲ではないかと思います。ずいぶん前に、他にチャイコフスキーなども含んだロシア音楽の歌曲の集大成とも言えるレコードが出ているのを知った時、私はすぐに買い求めました。ボリス・クリストフが歌ったものです。ブルガリア出身のこの歌手は、母の祖国であるロシアの作品を愛情込めて歌い遺そうとしたのでしょう。このロシア歌曲の集大成のレコードは、ロシア音楽を知る上で私にはなくてはならないものです。



チャイコフスキー「バイオリン協奏曲」

2007-12-04 13:27:35 | 国民楽派
今日は、チャイコフスキーの「バイオリン協奏曲」が初演された日です(1881年、ウィーン)。
バイオリン協奏曲の名曲を特に、「3大」あるいは「4大」バイオリン協奏曲といって、ベートーベン、メンデルスゾーン、ブラームス、それにチャイコフスキーをさしますが(「3大」のときはどれがはずれるのだろう?)、いずれも作曲者の1曲だけの作品ということで言うのかも知れない(メンデルスゾーンはもう一つ発見されたそうですが)。いずれも確かに名曲で、やはりこの場合は「3大」は使いづらいかもしれません。
チャイコフスキーのこの作品は、作曲者の叙情的な味わいが読み取れる、心から名曲と言っていいものだと思います。私は、クラシック音楽入門間もないころ、これを聴いてその第1楽章がとても印象的で心に残っていたのを思い出します。旋律は浮かぶのだけれども何という曲だったのかとしばらくそんな時期がありました。この名曲は自分ではとても弾けないような彼方にあるものと思っていましたが、バイオリン名曲集にこの第二楽章が取り上げられていて、「カンツォネッタ」として出ているのですね。どのくらいかかったのか、一応弾き遂げました。勿論その演奏は拙劣なものだったでしょうが、兎に角この最高の作品と思っていた一部でもその曲を自分で弾けた時は本当に嬉しかったですね。その前にだったか、バッハのバイオリン協奏曲の1番も曲集に出てきて、これは全楽章弾きました。その後、音符がたくさん並んでいるその楽譜を見て、よくこれが弾けたなと今では思うばかりです。いつかまた習ったことを思い出しながらこれらの曲を弾いてみたいと思います。

アレクサンドル・ボロディン

2007-11-12 08:07:39 | 国民楽派
今日は、ロシアの作曲家アレクサンドル・ボロディンの生誕日です(1833年)。
1833年は、ドイツではブラームスの生年でもあります。ブラームスは97年に亡くなっていますから、ボロディンはちょうど10年生涯が短かったことになります。
ボロディンは、大学では医科大学で薬学を学んだがまた化学者でもあった。それで作曲家としてはあくまでもディレッタントであり、作品数もブラームスに比べ、生涯の短さ以上に少ないが、決してロシア音楽史の中でボロディンはないがしろにはできない存在である。例えば、交響曲はわずかに完成されたものは2曲だけであるが、その第2交響曲は、ワインガルトナーによって、チャイコフスキーの第6交響曲《悲愴》とともに、ロシア及びロシア人を知る上で、必要不可欠のものであると断言されている。この交響曲はしばしば《英雄的》と称され、ロシアへの自然の讃歌、溢れ出る気力を表現していると言われている。ボロディンはかくも重要なシンフォニストなのである。交響詩《中央アジアの草原にて》もタタールの血をひくといわれるボロディンらしい作品である。この曲はロシア音楽のなかでもその民謡風な調べ故、私の好きな曲の一つである。そしてオペラ「イーゴリ公」はいうまでもなく第2交響曲とともにボロディンの最高傑作に数えられるものである。さらにその第3楽章が「夜想曲」として単独に演奏されることもある弦楽四重奏曲第2番もボロディンを語る上では欠かせないものだろう。この「夜想曲」はとても魅力的な旋律である。ずっと以前この曲がテーマ音楽になっていた番組があったのが思い出されます。この作品がボロディンのものと知った時、ボロディンのもう一つの魅力を発見した気がしました。

リムスキー・コルサコフ・管弦楽曲「スペイン奇想曲」

2007-10-31 08:48:24 | 国民楽派
今日は、リムスキー・コルサコフの管弦楽曲「スペイン奇想曲」が初演された日です(1887年、ペテルブルク)。
リムスキー・コルサコフは、フランスのラヴェルとともに管弦楽法の大家などと呼ばれています。この「スペイン奇想曲」もその名に恥じない美しさ・煌びやかさを持った名曲だと思います。しかしやはり交響組曲「シェヘラザード」はそれにも優る名曲だと思います。旋律がいいですね。一度聴けば誰でも口ずさみたくなるような軽快なメロディーがふんだんに使われています。これらに比べると時間も短い「ロシアの復活祭序曲」。この作品を知ったのは少し後でしたが、これもリムスキー・コルサコフの遺した名曲の一つに数え上げられるでしょう。

ムソルグスキー「禿山の一夜」

2007-10-27 07:44:32 | 国民楽派
今日は、ムソルグスキーの管弦楽曲「禿山の一夜」が初演された日です(1886年、ペテルブルク)。
「禿山の一夜」は、確か小学校か中学校くらいの音楽教科書に載っていたような気がします。その題名の「禿山」が生徒の興味を引くだろうということなのでしょうか。その時鑑賞曲として聴いたかどうかは覚えていません。
今、曲名辞典を見ますと、「管弦楽曲」の部類に、「禿山のヨハネ祭の夜」(1867年作曲)、注として、のちにリムスキー・コルサコフの編曲によって「禿山の一夜」となる曲の原形の一つ、とあります。その後に、「禿山の一夜」(リムスキー・コルサコフ版)(11881~83年作曲、初演ペテルブルク)とあり、注として、リムスキー・コルサコフがムソルグスキーの死後その意図を生かして、「禿山の聖ヨハネ祭の夜(聖がついている!どちらが正しいのか?)」の最終稿と思われる歌劇「ソロチンスクの市」の中の「若者の夢」及び、その前の稿である合作オペラ・バレエ「ムラダ」の中の合唱・管弦楽の曲を生かす形でに管弦楽曲に編曲した。交響詩と呼ぶことがある、と長々と説明があります。要するに、ムソルグスキー自身、この曲を書くに当たり、素材をそれまでの自分の作品に求め、書き上げたが、「弱い」部分があると思ったのか、後に管弦楽法の大家リムスキー・コルサコフがやはりムソルグスキーの過去の作品を生かす形で、書き直した、というこのだと思います。これまでは多く、いわゆる「リムスキー・コルサコフ版」が多く取り上げられていたように思いますが、最近はいわゆる「原典版」が用いられているようです。最近、以前ビデオ収録したアバド指揮ベルりん・フィルによるこの作品を聴きましたが、それも確か「原典版」となっていたかと思います。しかし呼び方は「禿山の一夜」となっていて、「禿山の(聖)ヨハネ祭の夜」とはなっていませんでした。やはりよく知られた題名が使われているということでしょうか。ところでこの「禿山の(聖)ヨハネ祭の夜」というのは、そもそも何なのでしょうか。いつかそのようなことも調べてみたいと思っているところです。ある軽いクラシックに関する本に、演奏者が禿の鬘を被って演奏したら面白いだろうなどというのが出ていましたが、どうなんでしょう。

ジャン・シベリウス

2007-09-20 09:36:36 | 国民楽派
今日は、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスの亡くなった日です(1957年)。
大学生の頃だったか、テレビで團伊玖磨が出演するクラシック音楽家をめぐる旅の番組がありました。すこぶる良質の番組で、毎週楽しみにしてまた気に入った内容のものはビデオに撮ったりしました。その時、軽快なマーチ風の音楽がテーマ曲に流れていましたが、それがシベリウスのカレリア組曲の中の第3曲「行進曲」でした。今もその曲を聞いたのですが、曲の途中で團氏の声が出てきてしまうのですね。シベリウスとの出会いは、フィンランディアとこの行進曲ということになるでしょうか。さらに、その番組の後にできたのだったか、「オーケストラがやってくる」というこれも良い番組でよく見ていましたが、司会の山本直純が小学生くらいの子に、どんな曲が好き?と聞いたら、その子が「あまり知られてないけど、シベリウスの2番の交響曲」と言ったのを思い出します。その頃私はその曲を熟知していたのだろうか。今となっては自信を持って名曲と人に推せ、旋律は頭の中でいつでも鳴り響きますが。
今年は、シベリウスの没後50年で、同じ北欧の作曲家グリーグの没後100年でもあります。これから今年いっぱいいろいろこの2人に因んだ音楽会があるのではと思います。私はと言うと、今年この二人の記念CDが出たので躊躇することなく買ってしまいました。グリーグが21枚組、シベリウスが16枚組みです。シベリウスの方は作曲全体からするとやや少なめですが、いずれも地元北欧の奏者が中心となって録音された名演と思っています。これから秋、冬とこれら北欧の調べを聴いていきたいと思っています。




シベリウス・交響詩「フィンランディア」

2007-07-02 07:03:24 | 国民楽派
今日は、シベリウスの交響詩「フィンランディア」が初演された日です(1900年、パリ)。
フィンランドは、ウラル語族中のフィン=ウゴル語派に属するフィンランド語を話すフィン人の国で、言語的にはエストニア語と同じ仲間に入り、周辺の有力な言語ロシア語、スウェーデン語などとは大きく異なっています。ですから、当然のことながら、独立した1国であるべきですが、フィンランドの歴史を見ていくと、容易な道程ではなかったことが分かります。スウェーデンに併合された時期もありましたが、近代を見ると隣国の大国ロシアに思うように扱われていたことが分かります。それは1899年2月15日のニコライ2世による声明がもたらしたものです。内容は、ロシアの利害に関わる法律は、フィンランド議会の同意無しにこれをフィンランドにおいて強制的に施行できる、というものです。これはフィンランドのロシアへの従属を意味します。このニコライ2世は、皇太子時代日本に来て、巡査に切りつけられるという事件に遭遇した(1891年、大津事件)人物である。また後には、ロシア革命において、ボリシェヴィキ一派により硫酸をかけられ殺された。
1900年には、ロシア語の強制、さらに01年には、フィンランド軍を解散してロシア軍に編入するという勅令が出された。
シベリウスが、交響詩「エン・サガ」や組曲「カレリア」を書き、そしてこの交響詩「フィンランディア」を書いたのはこのような時代であった。またこのことから、本来国内で初演すべきものが出来なかったことも理解されるであろう。
1901年には、イタリア旅行時に有名な「交響曲第2番」を作曲し、最高傑作とも言われる「交響曲第5番」が1915年に書かれた。その後、フィンランドは念願の独立を達成したのだった(1919年)。しかし、第2次大戦においても、苦難の道を歩んだ。
今年は、シベリウスの没後50年ということで、様々な記念行事が行われることだろう。それに合わせて、CD15枚組みの選集が出された。シベリウスの曲を聴いて、フィンランドの情景が思い浮かばないものはないように思われる。私は、それらを聴きながら、大国ではないが独立の意気に燃えた、本来あるべき国のあり方を探りたいと思う。

エドヴァルド・グリーグ

2007-06-15 11:32:46 | 国民楽派
今日は、ノルウェーの作曲家エドヴァルド・グリーグの生誕日です(1843年)。
なくなったのが、1907年ですから、今年はちょうど没後100年の記念年になります。同じ北欧フィンランドの作曲家シベリウスは1957年に亡くなっていますから、同じく今年は没後ちょうど50年で、北欧の2大作曲家の、今年は記念の年となります。
グリーグの名を知らしめる最高の作品は、やはり「ピアノ協奏曲 イ短調」ではないでしょうか。フランス的でも、ドイツ的でもない、まさに北欧の白夜の国を思わせるような旋律を私はここに見出すことが出来るように思います。私は、前にも述べましたが、このようなその国民の持つ自然な民族感情から湧き出る調べを聴くのがとても好きです。西洋の各国の古典音楽には、その国民の最高の調べがあるように思います。時には、これが自国を守る、他国の侵入を許そうとしない国民の意識をまとめる役割を担うことがあるでしょう。今の「グロ-バル」を優先するような考えは歴史の浅い国の、また人工的に作られた国家の長続きしない思想でしょう。「ピアノ協奏曲 イ短調」と共に、もちろんグリーグといえば、「ペール=ギュント」をあげないわけにはいきません。「第1組曲」の第1曲「朝」は、これぞまさしく北欧が生んだ調べでしょう。
グリーグは、非常に多くのピアノ作品を書いています。その中心は、10集からなる「抒情小曲集」です。グリーグの真髄は、このような短編ともいうべきピアノ曲にあるのではないかと思います。
室内楽曲では、特にバイオリン・ソナタの3番を割とよく聴きます。室内楽にも忘れてはならない佳品があるように思います。以上の作品のほとんどすべてを聴けることは嬉しいことです。1993年の生誕150年記念の年に、クナルダールによる「ピアノ曲全集」(CD10枚)、それと「室内楽曲全集」(CD3枚)(これはロシアの演奏家によるものですが、北欧の作曲家グリーグへの共感溢れた名演と思います)が出たのです。私は、これが当分グリーグの決定版的演奏ではないかと思っています。

スメタナ・歌劇「売られた花嫁」

2007-05-30 09:55:12 | 国民楽派
今日は、スメタナの歌劇「売られた花嫁」が初演された日です(1866年、プラハ)。
スメタナと言うと、6曲からなる管弦楽曲「我が祖国」が有名で、とりわけその第2曲「モルダウ(ヴルタヴァ)」が良く知られています。この曲は、本当に名曲だと思います。教科書にもよく取り上げられ、歌詞も付けられて合唱作品として歌われています。もちろん原曲を短くした形でですが。この世界中誰からも愛されている名曲ですが、楽譜の終わりには「全くの聾になって」と言う言葉が書かれているということです。スメタナは「我が祖国」作曲の頃から、精神的に病んでいったようです。曲を聴いてそのような印象を受けることは少しも考えられないですが。この曲について、スメタナは楽譜に、ヴルタヴァ川の第1の源、第2の源、森の狩、農民の婚礼、月光・水の精の輪舞、聖ヨハネの急流、ヴルタヴァはゆったりと流れる、ヴィシェフラドの動機、などと書いているが、曲を聴いて自然にそのようなイメージが湧いてくることだろう。この連作「我が祖国」をスメタナはプラハ市に捧げた。プラハでは、毎年「プラハの春音楽祭」において、スメタナの命日の5月12日にこの作品の全曲演奏で、幕を開けている。スメタナのこの作品は、チェコ国民を一つに纏め上げる強い絆となっているのである。
1990年の「プラハの春音楽祭」は非常に感動的なものとなった。前年のビロード革命により、チェコの共産主義体制が崩壊し、1948年以来、チェコの戦後体制(自由なき共産党による独裁体制)を嫌い、国外に亡命していたラファエル・クーベリックが、ハヴェル大統領の強い要請の下、自由チェコに帰ってきて、このスメタナの「我が祖国」を指揮したからである。私は、この時ほど音楽の持つ、強い力を感じたことはない。クーベリックは、寧ろ淡々と指揮していたように思った。自由の地チェコで、「我が祖国」を指揮出来ることは当然のことだと言わんばかりのように思えた。戦後の東欧の置かれた状況について、教科書では「ソ連」の衛星国家群のような読む人を欺く表現が使われていた。1989年を境に、それがすべてウソだったとわかったということである。

歌劇「売られた花嫁」は、その序曲が時折演奏されるが、先日の「ラ・フォル・ジュルネ音楽祭」での無料コンサートで取り上げられていた。その時の説明で、この序曲は、演奏も難しく、技量を試すのにぴったりで、オケの入団テストなどに使われることがあるような話だったと思う。聴いてみて確かに難しそうな曲に思えた。スメタナは、ピアノ作品でもかなりの技量を必要とする作品を書いているということだ。

つい先日、CDショップで、いろいろ探していたら、10枚組のスメタナの選集ともいうべきセット物に出くわしました。この歌劇「売られた花嫁」の他に、もう一つ「ダリボル」と言う歌劇が入っていて、「我が祖国」はもちろん、弦楽四重奏曲1・2番、チェコ舞曲などのピアノ作品などが入っていて、長らくスメタナの主要作品を聴きたいと思っていたのですが、これでほとんどすべて揃ったように思いました。



ミリイ・バラキレフ

2007-05-29 11:14:22 | 国民楽派
今日は、ロシアの作曲家ミリイ・バラキレフの亡くなった日です(1910年)。
バラキレフは、いわゆる「5人組」といわれるロシア国民楽派の指導者として知られています。「5人組」は、以下の作曲家たちです。
バラキレフ(1837-1910)
ボロディン(1833-87)
キュイ(1835-1918)
ムソルグスキー(1839-81)
リムスキー=コルサコフ(1844-1908)
バラキレフは、1855年にロシア音楽の祖といわれるグリンカ(1804-57)に出会い、1860年代にグループが結成されました。いわゆるアカデミズムとは一線を画した、ロシアの現実の生活に基盤を置く、その多くは、ディレッタントの音楽家たちです。そのような意味で、同時代に活躍した折衷楽派といわれるチャイコフスキーとは違った、洗練さとは遠いものを感じたりすることがあるのですが、私は彼らにこそロシアの大地から沸き起こる自然な感情を見て取れ、そこに魅力を感じます。
バラキレフの名を有名にしているのは、ピアノ曲の「イスラメイ」ではないでしょうか。これはピアニストにとって難曲中の難曲ということです。後に、フランスの作曲家ラヴェルは、これを越えるようなピアノ曲に挑み、書いたという話もあります。交響曲も2曲書いています。交響詩に、「タマーラ」というのがあり有名ですが、「ルーシ」の方に注目したいと思います。辞典によると、最初は管弦楽曲「3つのロシアの主題による序曲 第2番」(1863-64)とある。後に、1884年改訂され、音画「千年」となったようだ。そしてさらに1907年に改訂されたということだ。この曲は、ロシア建国1000年を祝して作曲されたものだ。国民を代表する作曲家が、このような祝典曲を作曲するのは自然なことであるが、ロシアの建国はいつなのだろう。ユトランド半島方面からリューリクがノブゴロドに今のロシアの基となる国を建てたのが862年と言うことで、それから千年経過した1862年を指しているのだろうか。800年代にそれに代わる年を見つけることは難しそうなので、この年ということでいいのだろうと思うが、辞典にあった、1884年の改訂版が音画「千年」と呼ばれることに疑問を持ったのだ。しかし、別の所で見たところ、最初の版がすでに音画「千年」と呼ばれたことになっている。これなら年も近いから納得できる気もする。
バラキレフの交響曲2曲を収めたCD2枚に、管弦楽曲「3つのロシアの主題による序曲」と交響詩「ロシア」がフィルアップされていたので、久しぶりに聴いてみた。最初の曲は「第1番」ということなのだろうか、また交響詩が「ルーシ」でなく「ロシア」となっている。どういうことなのだろう。