ベートーヴェンは歌曲をどのくらい書いているのか。どのような曲があるのだろうか。
ドイツ・リートの流れを見ると、ベートーヴェンはどうもその中で重要な位置を占めていないようだ。数は少ないながらも(LPにして2枚ほど)傑作揃いのモーツァルトのリートを引き継ぐものとして、シューベルト、シューマン、ブラームス、ヴォルフ、そしてR.シュトラウスがドイツ・リートの主流ということになるだろうか。もちろんプフィッツナーなどを加える人もいるかも知れない。
今、「Ludvig van Beethoven」という大著を目の前に置いているのだが、この歌曲を論じた項を参考に書いていきたい。
*この書物は1970年前後に出されたグラモフォンのLP78枚からなる全集につけられた特典である。LPレコードと同サイズの書物で、その当時の最高の研究家による一書である。
ベートーヴェンは生涯に約90曲の歌曲を書き、かなり多くの歌曲草案を残した、ということだ。本書に記された4つの創作期で、その数を記してみる。
1.ボンの青少年時代(1783-92)
18曲
2.ウィーンの修行時代(1792-99)
23曲
3.中期の創作時代(1803-11)
31曲
4.後期(1813-23)
19曲
ベートーヴェンの生涯と比べると、欠けている年月があるが、1曲も作られていないということだろう。合計すると91曲となる。
上のように述べられているのを見ると、何がそれらにあたるのか調べてみたくなる。今もその数でよいのか?この書に出ているのを記し、また割愛されているのは加えたいと思う。
それらを記す前に、ベートーヴェンの歌曲での一つの想い出がある。
「花売り」という曲を今の人たちは知っているだろうか。教科書で学んでいるのだろうか。最近の音楽教科書を見ることもあるが、目にしていない。
「ミラーララーラシドーシラ」という出だしの短調の物悲しい曲想の(と私には思われる)曲である。小学校だったか、中学校だったか、の音楽教科書にあり、教室で歌ったのを思い出します。その時作曲家の名前を見て、ベートーヴェンの曲なんだと思ったことでしょう。ベートーヴェンが「花売り」という曲を書いたのだなと自然に思っていました。ところが、そのような曲はありません。「モルモット」という曲でした。作品52の7です。詩はかのゲーテです。
「わたしはいろんな国へ行った、
モルモットと一緒に。
どこでも食物は見つけたよ、
モルモットと一緒に。
こっちでも、あっちでも、モルモットと一緒に。」
という詩です。今、2度聴きました、久しぶりに。わずか33秒の曲です。ずいぶんとイメージが違うなあと思ったものでした。作曲ははっきりしませんが、1790年ごろ、ベートーヴェン19歳頃の作品ということです。この作品52は8曲からなる歌曲集ですが、全く作曲年代がわからない曲もあれば、一番後に作曲されたものでも1796年以前ということで、作曲年代はバラバラです。そして「英雄」交響曲(Op.55)の3つ前の番号を付けられましたが、作曲時期を表していないことは明白です。作曲者の意図に反して出版されたもので、弟が小遣い稼ぎに出版したのではないかと思われます。他にもこのようなベートーヴェンの意に反した出版がされていることは以前書きました。
もう一つ大学時代での思い出です。クラシック音楽の好きな友人が、「自然における神の栄光」という歌曲のことを言ったのです。レコードで聴いてはいたでしょうが、少しも記憶にありませんでした。これはゲレルトの詩によるものですが、ベートーヴェンらしい作品だと思います。ベートーヴェンらしい作品というのは、ベートーヴェンはモーツァルトの作品を取り上げて、「私には決して不品行なテキストのために、作曲の気分を作り出すことはできない。」と言っています。そのような意味でベートーヴェンが書くのはこのような曲だろうということです。そのようなことからも、その時の私がこの作品のことを知らず、友人の口から出たことでまだベートーヴェンのことを知らない(もちろん今でもまだ少しもその全体像を掴めているとは言えません。)と痛感したものでした。今この曲も久しぶりに聴きました。ゲレルトは一般にはあまり知られていない詩人と思いますが、ベートーヴェンは自分の思想を謳ってくれているような詩人を見つけようと常に詩集を身近に取り読んでいたのだと思います。
今年も折に触れ、書きたいと思います。
ドイツ・リートの流れを見ると、ベートーヴェンはどうもその中で重要な位置を占めていないようだ。数は少ないながらも(LPにして2枚ほど)傑作揃いのモーツァルトのリートを引き継ぐものとして、シューベルト、シューマン、ブラームス、ヴォルフ、そしてR.シュトラウスがドイツ・リートの主流ということになるだろうか。もちろんプフィッツナーなどを加える人もいるかも知れない。
今、「Ludvig van Beethoven」という大著を目の前に置いているのだが、この歌曲を論じた項を参考に書いていきたい。
*この書物は1970年前後に出されたグラモフォンのLP78枚からなる全集につけられた特典である。LPレコードと同サイズの書物で、その当時の最高の研究家による一書である。
ベートーヴェンは生涯に約90曲の歌曲を書き、かなり多くの歌曲草案を残した、ということだ。本書に記された4つの創作期で、その数を記してみる。
1.ボンの青少年時代(1783-92)
18曲
2.ウィーンの修行時代(1792-99)
23曲
3.中期の創作時代(1803-11)
31曲
4.後期(1813-23)
19曲
ベートーヴェンの生涯と比べると、欠けている年月があるが、1曲も作られていないということだろう。合計すると91曲となる。
上のように述べられているのを見ると、何がそれらにあたるのか調べてみたくなる。今もその数でよいのか?この書に出ているのを記し、また割愛されているのは加えたいと思う。
それらを記す前に、ベートーヴェンの歌曲での一つの想い出がある。
「花売り」という曲を今の人たちは知っているだろうか。教科書で学んでいるのだろうか。最近の音楽教科書を見ることもあるが、目にしていない。
「ミラーララーラシドーシラ」という出だしの短調の物悲しい曲想の(と私には思われる)曲である。小学校だったか、中学校だったか、の音楽教科書にあり、教室で歌ったのを思い出します。その時作曲家の名前を見て、ベートーヴェンの曲なんだと思ったことでしょう。ベートーヴェンが「花売り」という曲を書いたのだなと自然に思っていました。ところが、そのような曲はありません。「モルモット」という曲でした。作品52の7です。詩はかのゲーテです。
「わたしはいろんな国へ行った、
モルモットと一緒に。
どこでも食物は見つけたよ、
モルモットと一緒に。
こっちでも、あっちでも、モルモットと一緒に。」
という詩です。今、2度聴きました、久しぶりに。わずか33秒の曲です。ずいぶんとイメージが違うなあと思ったものでした。作曲ははっきりしませんが、1790年ごろ、ベートーヴェン19歳頃の作品ということです。この作品52は8曲からなる歌曲集ですが、全く作曲年代がわからない曲もあれば、一番後に作曲されたものでも1796年以前ということで、作曲年代はバラバラです。そして「英雄」交響曲(Op.55)の3つ前の番号を付けられましたが、作曲時期を表していないことは明白です。作曲者の意図に反して出版されたもので、弟が小遣い稼ぎに出版したのではないかと思われます。他にもこのようなベートーヴェンの意に反した出版がされていることは以前書きました。
もう一つ大学時代での思い出です。クラシック音楽の好きな友人が、「自然における神の栄光」という歌曲のことを言ったのです。レコードで聴いてはいたでしょうが、少しも記憶にありませんでした。これはゲレルトの詩によるものですが、ベートーヴェンらしい作品だと思います。ベートーヴェンらしい作品というのは、ベートーヴェンはモーツァルトの作品を取り上げて、「私には決して不品行なテキストのために、作曲の気分を作り出すことはできない。」と言っています。そのような意味でベートーヴェンが書くのはこのような曲だろうということです。そのようなことからも、その時の私がこの作品のことを知らず、友人の口から出たことでまだベートーヴェンのことを知らない(もちろん今でもまだ少しもその全体像を掴めているとは言えません。)と痛感したものでした。今この曲も久しぶりに聴きました。ゲレルトは一般にはあまり知られていない詩人と思いますが、ベートーヴェンは自分の思想を謳ってくれているような詩人を見つけようと常に詩集を身近に取り読んでいたのだと思います。
今年も折に触れ、書きたいと思います。
小学校の6年生の音楽の教科書に楽譜も載っていて、放課後学校のハモンドオルガンを弾きながら歌ってました❣️
*「歌曲についてベートーヴェンの葛藤が偲ばれる」
自分の個人的な感想として「過去の大家と呼ばれる作曲家の皆様方は共通して、何でもどんなジャンルでも作曲できる」と。現実にモーツァルトなどはまさに万能であった様です。もちろんシューベルト等も相当広範囲な創作フィールドでしたが、意に反してか?オペラ等は後世には残らなかった、、、ベートーヴェンの歌曲については正直自分も代表的な数曲を除いてはほとんど知らず聴かなかった、、、これはやはりベートーヴェンと言う方はやはり「シンフォニーやコンチェルト、ミサ曲などの大掛かりなオーケストレーションの大家」であるからです。
サイトヘッド様も言われる「ベートーヴェンの詩に対する要求」はかなりうるさく厳しかった様で、これは唯一の歌劇「フィデリオ」の一連の騒動でもお解りの通りですが、、、、実はベートーヴェンの晩年、急激に容体が悪化しいよいよ死期が迫って来た時、弟子のシントラーがベートーヴェンの気力を呼び覚ます為か、当時ようやくウィーンで名の知られて来たシューベルトの楽譜をかき集めてベートーヴェンの枕元に差し出し「貴男の後を継げるのはシューベルトしかいない」と。この時のベートーヴェンの驚きは想像を超えたものの様であり、驚くべき言葉として「シューベルトには神の火花が散っている」と、、、、この言葉は最大にして最高の絶賛でありどんなにシューベルトが喜んだ事か、、、まずベートーヴェンが驚いたのは「その歌曲の数と多さであり、シューベルトの詩を探し見抜く能力」だったと言われます。特に魔王、糸車のグレートヒェン等は「自分もこの詩を知っていたら必ず曲を付けただろう」と、、実は一説にはゲーテの魔王の詩にベートーヴェンも曲をつけようとしたが遂に出来なかったとも言われますが。更に「シューベルトのオペラやシンフォニーもぜひ見たい」とベートーヴェンは切望していたと言われます。此処でシューベルトの天才ぶりを書くつもりは無く、何となく解るのは「ベートーヴェンには、詩に対するリサーチ能力と言いますか巡り合わせが悪かった」のではないかと、、、やはりシューベルト等は「とにかく仲間友人が数多く-シューベルティアーデ-シューベルト連中と言われる年下年上問わずの仲間が溢れ、更にシューベルトの天才的な直感=つまり誰それ問わずに詩だけを見抜く天才的な能力が在った事-そのために今日、詩人としては全く無名ながらも「シューベルトの歌曲によってのみ名前が後世に残った無名詩人たち」が数多いのには驚かされます。
やはりこういった、いわば庶民的な交流や身分の差など一切気にしなかったシューベルトに対し、ベートーヴェンのいわば一貫した態度-相手にした女たちは全て王侯貴族の超セレブばかり、、の様な方には正直ある意味狭い世界しか見えなかった?とも思われてなりません。おそらくはベートーヴェンと言う巨人も「最晩年の床の中で、多少なりとも後悔していた点=例えば詩に対するめぐり合わせ」等など、胸に去来するものが在ったと思われます。
蛇足ですが、女性に関してはベートーヴェンは実は「全オールスターセレブ一本」では決して無かった事は知られており、例えば「自宅付近の百姓家の小娘」等にも興味を持っていた節があり、何でもその娘の親父が悪さして警察に捕まり豚箱に放り込まれた際、何故か青筋建てて弁護してやり自分まで豚箱に放り込まれそうになった、、、と言う文献もあります。やはりこういった点が「人間ベートーヴェンの隠された一面」ともいえるのではないでしょうか。今回は勉強させて頂きました。 敬具