西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

西洋音楽史 9

2022-08-21 16:14:32 | 音楽一般
バロック時代前期、ドイツは国難の時を迎えるのであった。ボヘミアの急進派新教徒議員が2人の皇帝顧問官を投げ落とす事件が起こった(プラハ王宮事件、またはプラハ窓外放擲事件)。1618年5月23日のことである。前年にボヘミア王となったフェルディナントが、宗教改革後、新教が流布したボヘミアで信仰の自由を取り消したためである。皇帝マティーアスもフェルディナントを助けるべく軍隊を派遣したが、新教徒側はこれをも破る勢いを示した。翌年3月マティーアスが亡くなると、フェルディナントがフェルディナント2世として皇帝位に就いた。これに対し、新教側はフェルディナントのボヘミア王位を取り消し、新たにファルツ選帝侯フリードリヒ5世を国王に選んだ。当時ドイツ国内は新教派と旧教派に分かれ、フリードリヒは新教側である。しかしカルヴァン派のフリードリヒにルター派の諸侯たちが援助することは少なく、これに対し旧教側は国内の旧教派諸侯及びスペインの援助を受け、「白山(ビーラー・ホラ)の戦い」で勝利を収めることになる。1620年11月8日のことである。新教側は敗北し、フリードリヒはボヘミア王位を失った。この2世紀半後、チェコの愛国者ドボルザークは讃歌「白山の後継者たち」を作曲した。管弦楽伴奏の合唱曲で翌年の1873年にプラハで初演された。これだけで終われば、ドイツ国内の反乱事件は2,3年で終結したことだろう。その後、様々な思惑から周辺のデンマーク、スウェーデン、フランスがこのドイツ国内の宗教絡みの紛争に乗り出した。そして、最終的には宗教とは関係のないところで終結した。1618年に始まった戦争は1648年のウエストファリア条約で終わった。よって、30年戦争Thirty Years' Warと呼ばれる。デンマークとの戦争ではドイツ皇帝軍の司令官ワレンシュタインの活躍が見られた。フランスの作曲家でワグネリアンのヴァンサン・ダンディはシラーの戯曲に基づく管弦楽曲「ワレンシュタイン」を書いた。その後、スウェーデン王のグスタフ2世アドルフは領土的野心から紛争に加わり、皇帝軍をリュッツェンの戦い(1632)で破ったが、王自身この戦争で戦死してしまった。王の死後、スウェーデンでは、6歳の王女クリスティーナが王位に就いた。
この戦争でドイツ国内は疲弊し、人口の3分の一が失われたという。ドイツは三百数十の領邦国家に分裂し、このウエストファリア条約は「ドイツ帝国の死亡証書」と呼ばれる。

この様な時代に、ドイツでは3Sと呼ばれる音楽家が誕生し、後世に残る作品を遺した。シャイト、シャイン、シュッツである。このうち、シュッツは、ヴェネツィアに留学し、ジョヴァンニ・ガブリエリのもとで学んだ。その後、ドイツに戻るが、再びイタリア、デンマークなどに渡り、最後はドレスデンで亡くなった。シュッツの作品は、生きた時代の苦悩を体験した人の感情が込められているように思う。私はその中で「イエス・キリストの物語」「イエス・キリストの十字架上の7つの言葉」を買い求めた。
シュッツは1585年に生れたが、そのちょうど100年後、J.S. バッハが誕生した。シュッツはドイツ音楽の基礎を築き、バッハを生み出す先蹤となったと言うことができるだろう。

西洋音楽史 8

2022-08-13 13:43:30 | 音楽一般
バロック期の中期になるとイタリアでコレルリ、トレルリなどバイオリン音楽の大家が出現する。コレルリは、バイオリンを学んだ人は誰でも取り上げる「ラ・フォリア」が有名である。作品1から6にそれぞれが12曲ずつ含み、すべて録音され出ている。全集と言うとすぐ揃えたくなる私は買い求めました。その前に「ラ・フォリア」を含む作品5の全曲は買っていましたが。


コレルリの作品6「合奏協奏曲」の8に「クリスマス」と題する曲があります。トレルリにもあり、後期バロックに属するロカテルリ、マンフレディーニにもあり、これらの4曲クリスマスに因む作品をまとめて名指揮者カラヤンが録音を残してくれています。カラヤンは音楽史の隅々まで目をやり、後世に最優秀の録音を遺してくれたのは大変嬉しいことです。

国王の祝賀会でオペラが上演されたことを述べましたが、バロック中期の1666年に行われた婚儀でも同様のことが行われました。ハプスブルク家のレオポルト1世とスペイン王フェリペ4世の王女で国王カルロス2世の姉に当たるマルガリータ・テレサとの結婚式です。翌1667年チェスティ作曲の「黄金のりんご」が上演されました。5幕66場という長大なもので、目を奪うような豪華な舞台だったということだ。マルガリータはベラスケスの描いた肖像画で有名です。昔は写真はありませんでしたから、この絵をハプスブルク家に届け、お見合い写真のように扱ったということです。2人に子供は生まれたが、近親婚(伯父と姪の関係)のためか出産後まもなく亡くなったものが多かった。弟のカルロス2世も同様だった。生まれつき病弱で子供はいなかった。スペインでは、1700年にカルロス2世が亡くなったとき、スペイン継承戦争が起こった。この戦争は1713年ユトレヒト条約を結び終結したが、この年ヘンデルが作曲した「テ・デウム」がその記念に聖パウロ大聖堂で演奏されたのだった。

西洋音楽史 7

2022-08-11 15:45:00 | 音楽一般
モンテヴェルディは、1610年ローマに向かった。その時携え、教皇パウロ5世に献呈したのが「聖母マリアのミサと晩課」である。名誉職を求めたのであるが、上手くいかなかったらしい。1613年、結局モンテヴェルディはマントバからベネチアへ移り、サン・マルコ大聖堂の楽長職に就き、他界するまでの30年間ここで暮らすことになった。ベネチアは1637年に最初の公開オペラ劇場サン・カッシアーノ座が誕生し、オペラが一部貴族だけのものではなく、大衆の娯楽の場を提供するものになった。ここでモンテヴェルディは、「ウリッセの帰還」と「ポッペアの戴冠」の晩年の2大オペラを作曲した。
フランスでは、アンリ4世が1610年に暗殺された後、長男のルイ13世が即位し、その後1643年にルイ14世が4歳で王位に就いた。1653年、ルイが14歳になった時、リュリなどが作曲した宮廷バレエ「夜」に「太陽」の役で舞台に上がった。作曲者のリュリも一緒に踊ったという。リュリはルイの従妹のオルレアン家のアンヌ・マリー・ルイーズのイタリア語会話の相手にイタリアから来ていたのだったが、後にルイ14世に仕え、宮廷合奏団を指導するまでになった。ルイ14世が後に「太陽王」と呼ばれるのは、これに由来する。
ルイ14世は、1660年、スペイン国王フェリペ4世とアンリ4世の息女(つまりルイ13世の妹)のエリザベート(スペイン名イサベル)との王女のマリー・テレーズと結婚式を挙げた。この祝賀行事にイタリア出身のサン・マルコ大聖堂の楽長を務めたカヴァッリのオペラ「クセルクセス」が上演された。
ルイ14世は、1661年に宰相マザランが亡くなると、親政を開始し、パリ郊外に宮殿の造営に取り掛かった。そして1682年から王はそこに住むことになった。ベルサイユ宮殿である。ここで奏でられた音楽と作曲者に興味を持ち、次のレコードを買い求めた。全部で7枚。全部揃えると写真集がもらえるからというのでだったが、買い過ぎたか? 

この時代の音楽家には、教会音楽に印象的な作品を残したシャルパンティエやドラランド、それにクラヴサン音楽を多く作曲したクープラン(ルイとフランソワ)などがいる。



西洋音楽史 6

2022-08-10 10:56:48 | 音楽一般
バロック音楽の時代は、1600年頃から1750年頃とされる。ルネサンス時代同様、ここでも50年ごとに初期、中期、後期と区分される。
バロック音楽はいつごろから日本で一般に聴かれるようになったのだろうか。ヴィヴァルディ、バッハ以外を言うならば、1970年代以降が主でなかったか。そのころラジオでバロック音楽を扱う番組があり、私は好んで聴くようになった。(自分の中では、このような印象でしたが、実際には昭和35年にヴェンツィンガー指揮のバッハ「ブランデンブルク協奏曲」が発売され、また服部、皆川両氏の「バロック音楽の楽しみ」は昭和37年に始まったということです」)一つには、服部幸三さんの語りで、都市ごとにその都市に纏わる音楽家を取り上げていたのを思い出す。カセットテープにとり、今もわずかだが持っていて聴くことができる。また別の番組では幅広くバロック音楽の作曲者を取り上げ、その内容パンフを請求し、今もそれを持っている。下がそれである。

昭和47年から48年の放送とある。ここで知らなかった作曲家、作品を聴き、バロック音楽により開眼されたように思う。また、次の本も買い、とても勉強になった。

著者皆川氏は、読めば分かるが、独自の考えを持ち、それを披露すること多々あるが、読んで教えられることも多く、名曲名盤を100紹介しているが、7割~8割所持するようになった。バロック小辞典が付いて私などにはとても勉強になり、ありがたい。
また少し後になるが、NHK市民大学で磯山雅(ただし)氏の講義による「バロック音楽」のテキストを買った。

当時どれだけテレビを見たか(ほとんど見てなかった?)覚えてないが、今回テキストを熟読しとても勉強になった。このような本、パンフの類も私は捨てずに持っています。いつか処分するでしょうが。
磯山氏は特にバッハの著書などを買い求め、大いに勉強になることが多かった。事故で亡くなられた報を見た時は本当にびっくりした。その前に見た夢のことが氏の日記のようなものに書いてあり、それをネット上で読み、印象に残ったことを思い出す。
いくつかの本、百科事典などを読み、バロック音楽がどのような時代に、どのような事と関わっていたかなどを書いてみたいと思います。

バロック時代の開始年と言われる(実際には、1580年代にすでに始まったと考える見方もあるが)1600年の10月、フランス、ブルボン朝初代アンリ4世がイタリアの花の都フィレンツェで、トスカナ大公国を支配する名門メディチ家のマリアと結婚式を挙げた。この祝賀行事にオペラの上演が含まれていた、ペーリが作曲したオペラ「エウリディーチェ」でピッティ宮で行われた。花嫁はフランスではマリ・ド・メディシスと呼ばれることになる。またこの上演の3日後にはカッチーニらが作曲した「チェファロの強奪」がウフィツィ宮で上演されている。オペラはバロック時代に生まれ開花した。オペラ「エウリディーチェ」が1600年に上演されたことは時代を画する出来事と言っていいだろう。
その7年後、マントバの宮廷では、モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」が上演された。劇的な表現が見られ、歌劇のその後の方向を決定づけるものとなった。モンテヴェルディは、他のオペラ、マドリガル曲集、教会音楽など多くの作品を書いた。私はその中で「聖母マリアのミサと晩課」(3LP)を買い求めた。レコード店でもう一つ有名な作品「倫理的宗教的な森」(おそらく5LP) を何度も目にしたが、これは買わず仕舞いに終わった。 モンテヴェルディは、初期バロックの最大の作曲家と言っていいだろう。


ずっと昔、コンサートで指揮者にインタビューすることがあった。尋ねられた彼は、日本の民謡のことが話題となった時、民謡は嫌いです!と言った。アンタ日本人で(そう思ってました、当時)、音楽の仕事しているんだろう、と思い、嫌いでもそのような事を言うか?、と思いましたね。マーラーやショスタコをよく振る音楽家で、その時に演奏されたチャイコの「イタリア奇想曲」はとても印象に残ったのでしたが。
西洋音楽について、(ベートーベンを敬愛し、西洋音楽をよく知りたいが出発点であったが)、書いてきたが、自国の音楽も知りたいと思い、その一助に、大学時代ちょうど発売された全集を買い求めた。生協で「筑摩書房の邦楽(ホウガク)大系」が欲しいと言ったら、お店の人「法学」ですか?、と聞いてきた。

リタイア後、じっくり読み、聴いて、学びたいと思いながら、まだできていない。まあゆっくり取り組みたいと思っているところです。だけど日本の音楽の歴史は理解するには、私などにはなかなか難しいものがありますが、少しずつ読み、聴いて行きたいと思います。