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西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ペーリ・歌劇「エウリディーチェ」

2007-10-06 10:11:51 | バロック
今日は、ペーリの歌劇「エウリディーチェ」が初演された日です(1600年)。
ペーリは、以前にも書きましたが、オペラ作品の第1号を飾る「ダフネ」の作者です。残念ながらこれは台本のみが残っているだけです。そして現存する歌劇で一番古いのが同じペーリによるこの「エウリディーチェ」です。この上演は、メディチ家のマリアとフランス国王アンリ4世の結婚を祝して行われました。マリアは、フィレンツェの名門メディチ家の出身で、マリア・デ・メディチです。フランスに嫁いだので、フランス語読みにすると、マリー・ド・メディシスとなります。ルーベンスの作品にある「マリー・ド・メディシスの生涯」の主人公です。
エウリディーチェは、昨日も述べましたが、オルペウスの妻で、毒蛇に咬まれて死んでしまいます。そして冥界の王ハデスとの約束を守らなかったので、オルペウスはエウリュディケを永遠に失ってしまいます。ここまでは昨日述べましたが、その後オルペウスはどうなったかと言うと、故郷のトラキアに戻りましたが、女性には全く関心を示さなかったので、トラキアの女たちは、彼に軽蔑されていると思い、彼を怒りから殺してしまいました。そして、竪琴と共に、トラキアの女に川に流されたオルペウスの首が拾われたということであった。ルドンなど近代の画家たちは、この情景を好んで描いています。
オッフェンバックに有名な喜歌劇「天国と地獄」があるが、原題は「地獄のオルフェ」である。これはオルペウスとエウリュディケの悲恋物語をパロディー化したもので、「序曲」中のフレンチカンカンは知らない人はいないメロディーである。モンテヴェルディの「オルフェオ」とは大違いで、オルペウスとエウリュディケの物語を扱った一番有名な作品はやはりこのオッフェンバックによるものということになるでしょうか。

グルック・歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」

2007-10-05 10:48:05 | バロック
今日は、グルックの歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」が初演された日です(1762年)。
グルックは、他にも「アウリスのイフィゲニア」など、ギリシア神話に纏わる多くの歌劇を書いています。このオルフェオとエウリディーチェですが、オルフェオは元のギリシア語ではオルペウスで、各国語によりオルフェ、オルフェウス、オルフェオなどとなります。エウリディーチェは、ギリシア語ではエウリュディケです。
オルペウスは、竪琴弾きで、動物のみならず樹木や岩をも感動させたと言われるほどの名手です。オルペウスは、ニンフ(半神半人の美少女の妖精)のエウリュディケと結婚しますが、彼女は野を歩いている時毒蛇に咬まれ死んでしまいます。オルペウスは、冥府に下ったエウリュディケを求めて冥界に行き、そこの王ハデスと王妃ペルセポネの「地上に戻るまでは決して振り返って妻の顔を見てはならない」という条件で、エウリュディケを連れ戻すことを許されますが、地上に戻る前にエウリュディケの顔を見てしまい、彼女は冥府に連れ戻され、オルペウスは2度とエウリュディケに会うことができなくなった、というのがこの悲恋物語のあらましです。絵画、彫刻などでも頻繁に取り上げられる主題ですが、音楽の分野で見ると、カッチーニ、ペーリ、モンテヴェルディ、ペルゴレージ、ラモーなどバロック期に活躍した音楽家からハイドン、リスト、オーリック、ストラビンスキーなど古典派、ロマン派、近代の作曲家にまで数多く取り上げられています。オルペウスが竪琴と歌の名手であると言うことが大きな理由かもしれません。このように、この種の音楽をしっかり理解するにはその背景となるギリシア神話の知識も必要に思います。そのような勉強に一時期興味を持って取り組んだことがありましたが、再度ここで勉強したいと思っています。



ヨハン・マッテゾン

2007-09-28 10:32:58 | バロック
今日は、ドイツの作曲家ヨハン・マッテゾンの生誕日です(1681年)。
生年から分かるように、大バッハやヘンデルとほぼ同時代の人です。マッテゾンもやはり私にはほとんど知らない作曲家に属するでしょう。でも20年以上も前に購入した3枚組みのレコード、「バロック時代のドイツ室内楽集」に彼の作品が収められていたように思います。(今手元にないので)モンなどの作品もあったように思います。私はその頃の、大バッハなど有名な音楽家の作品だけでなく、一般にはあまり知られていない作品も聴いてみたい、そのような思いから買った記憶があります。当時アルヒーフ・レーベルから出た作品目録を見るのが楽しみでした。
ネットでマッテゾンを検索すると、ヘンデルと諍いを起こしたと言うようなことが出ています。後には仲直りしたようですが。また、作家で外交官でもあったということで、ずいぶん多彩な人であったことが分かります。あまりこれまでしっかり聴いたことが無かったですが、これを機会に聴き直してみたいと思いました。

フランチェスコ・ジェミニアーニ

2007-09-17 12:09:02 | バロック
今日は、イタリアの作曲家フランチェスコ・ジェミニアーニが亡くなった日です(1762年)。
ジェミニアーニは、コレリやA.スカルラッティに学んだ、イタリア・バロックの最後期の作曲家で、有名なヴィヴァルディとほぼ同時代に活躍しました。主にイギリスを活動場所としていて、バイオリン奏法の著作なども残しています。
私は、彼の師にあたるコレリをイタリア・バロック音楽の中では愛好し、エドゥアルト・メルクスの演奏による、有名な「ラ・フォリア」を含む12曲からなる作品5のソナタ集のレコードを所持していますが、一つ分からないことがありました。それは、本来ならば、コレリの作曲した形で全12曲録音すべき所、なぜか第7曲だけは他の作曲家による編曲版を用いているのです。その編曲をしたのがこのジェミニアーニでした。今、久しぶりにその第7曲を聴きましたが、コレリのよさはそのままに合奏協奏曲に移し変えられたといった印象を持ちました。
このジェミニアーニとマンフレディーニを最後に、イタリア・バロックは終焉を迎えるのであった。

フランソワ・クープラン

2007-09-11 11:30:05 | バロック
今日は、フランスの作曲家フランソワ・クープランの亡くなった日です(1733年)。
フランソワ・クープランは、ブルボン王朝の最盛期ルイ14世・15世時代に活躍しました。音楽史でいうと、後期(盛期)バロック時代にあたりますが、特にフランスにおいては、ロココ時代と言い慣わしていいように思います。ヴェイロン・ラクロワによる彼のクラブサン曲の演奏を聴けば、まさに優雅なその調べはロココ趣味にピッタリなように感じられるからです。
クープランの名は、その後の作品にも出てきます。同じフランスの作曲家ラヴェルの6曲からなるピアノ曲「クープランの墓」です。またこのうちの4曲は、管弦楽組曲にラヴェル自身により編曲されました。
ドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウスも「クープランのクラヴサン曲による舞踏組曲」を書いています。これは8曲からなるもので、歌劇「薔薇の騎士」に通じるような響きです。
クープランは、バッハと同じく一族が音楽家であった。ルイ・クープランもこの一族である。J.S.バッハが大バッハといわれているように、このフランソワ・クープランも大クープランと言われています。その作品の多さや後に与えた影響を見ると頷けるように思います。

バッハ「農民カンタータ」

2007-08-30 22:32:19 | バロック
今日は、バッハの「農民カンタータ」が初演された日です(1742年)。
バッハは、200曲に及ぶ教会カンタータを書いていますが、世俗カンタータも少なからぬ数書いています。その多くは失われてしまったようですが、20曲ほどを私たちは現在楽しむことができます。
そのうちの一つ、「農民カンタータ」は、1742年のこの日、ライプチヒ近くのクラインチョハー村では、新しい領主を迎えて夏祭りが催されたが、その時に演奏されたものだ。Mer hahn en neue Oberkeet(おいらは新しい領主様をいただいた)と始まるこの曲は、民謡を取り入れた楽しい曲で、当時の農民の姿が伝わってくるようだ。上に記したドイツ語は、スペルミスではありません。北部ザクセン方言が使われているのです。普段バッハについて私たちが抱くものとは違うバッハ像が伝わってくるようです。
バッハの世俗カンタータで、何と言っても一番楽しませてくれるのは、「コーヒー・カンタータ」だろう。この中で、
「ああ、コーヒーは何と美味しいのでしょう、
 1000回のキスよりも甘く、
 マスカットワインよりもマイルド、
 コーヒー、コーヒー、私にはこれがないと駄目なの」
とコーヒー狂の娘リースヒェンにバッハは歌わせている。コーヒーを娘にやめさせようと、父親は、「やめないなら、結婚させないぞ」と脅すが、娘は「それならやめるけど、結婚したら、夫を説き伏せ、コーヒーを飲ませてもらうわ」と娘も負けない。バッハの大らかさを見るようである。
ウィーンは、ウィーンで多いのは銅像とカフェで、ウィーンから銅像を取ると、ウィーンの人口は半分になる、などと冗談で言われているということだが、それほどまでに多いコーヒー店の第1号は、1683年に産声を上げた。これは、ウィーンを攻めその後退却したトルコ軍が残した豆の入った袋、その豆がなんであるかを知っていたポーランド人が開いたということである。これがヨーロッパにコーヒーが伝わった最初などと言われることがあるが、そうではなく、すでに1650年イギリスのオックスフォードにコーヒーハウスが開かれたということだ。そしてオランダ、フランスでも飲まれるようになった。ドイツ語圏で第1号店の栄誉を担うのが、上に述べたウィーンのカフェということである。その後ドイツ各地に広がり、バッハの地元ライプチヒの第1号店は1685年、つまりバッハの生まれた年にできたということであった。バッハの遺産目録には、楽器や蔵書の他に銀や真鍮でできたコーヒーポットやコーヒー皿があげられていたということだ。バッハもかなりのコーヒー通だったのだろう。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

2007-07-28 08:59:46 | バロック
今日は、ドイツの作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハの亡くなった日です(1750年)。
大バッハについては、ベートーベンの言葉「バッハは、小川(バッハ)ではなく、大海(メーァ)である」がよく音楽史における彼の評価を表しているように思います。しかしそのバッハが亡くなる前年には、バッハ死去の場合の後任のトマス・カントル職を決める試験が行われたということだ。というのは、バッハは晩年そこひを患い、視力を失いかけていてほとんど仕事が出来ない状態だったからである。(小さい時に暗い所で、楽譜を長時間見ていたのが原因とされている。)それにしてもまだ健在の時に後任を決めようとするとは!翌年になり、2度イギリスの眼科医により手術を受けるが、効果はなかった。バッハは、この手術で体力を消耗してしまったということだ。この眼科医は後にヘンデルの手術も行ったがこの時も失敗している。音楽史上に名を残す音楽家の手術に2度も失敗したのである。
バッハ晩年の大作「音楽の捧げ物」と「フーガの技法」は高貴な作品である。この2作で十分に音楽史に名を残すと言っても良いのでは。後者は残念ながら、未完に終わった。失明のために筆を進ませることができなかったのである。楽譜の最後に、「このフーガで、BACHの名が対位主題に持ち込まれたところで、作曲者は死去した」と次男のエマヌエルが書いている。この作品は楽器が指定されていないことでも知られている。今では、チェンバロ、オルガン、室内楽、弦楽四重奏などで演奏され、我々は聴くことができるがバッハの意図したのはどれだったのだろう。
バッハは、死後忘れられ、1829年のメンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」の復活上演を持ってバッハ復活の年と言われている。それはその通りであるが、実はモーツァルトにもベートーベンにもバッハに刺激を受けた作品があることを忘れてはならない。モーツァルトは、平均律から5曲を弦楽四重奏曲に編曲している。ベートーベンも同じく平均律中の作品を弦楽五重奏曲に編曲している。しかしメンデルスゾーンによるバッハ復活は、その後の音楽家たちに大きな刺激になったことは事実である。シューマン、ショパン、ブラームス、マーラー、20世紀音楽の旗手シェーンベルクにさえも、その影響は大きいことがわかる。そのような意味で、ベートーベンが言った「大海」の意味は全くその通りなのであった。

ドメニコ・スカルラッティ

2007-07-23 09:21:53 | バロック
今日は、イタリア・ナポリ楽派の作曲家ドメニコ・スカルラッティの亡くなった日です(1757年)。
ドメニコ・スカルラッティは、同じくナポリ楽派の創始者であるアレッサンドロ・スカルラッティの子で、バロック後期時代の作曲家です。彼のソナタは、チェンバロ用の練習曲と言ってよいものですが、何と500曲を越える膨大なものです。CD時代の今日、私たちは幸運にもこれらすべてを聴くこともできますが、私は今のところ所持していません。彼のごく一部を聴くだけです。彼のこの膨大なソナタ集は、ロココ趣味にも通じるということですが、いつか全貌を聴ければと思っています。
彼の生年の1685年ですが、この年は歴史に残る音楽家が2人誕生しています。大バッハとヘンデルです。そしてバッハの亡くなったのは、1750年。1600年ごろ始まったバロック時代は、約50年ごとに、初期・中期・後期(=盛期)と様相を変えて行きますが、その後期の区切れ目がこの年に当たります。もちろんちょうどの年数で区切られるはずもないのですが、大まかに捉えた場合は、このようになると言ってよいでしょう。ついでに言うと、バロックの前のルネサンス時代も同様に、1450年頃スタートし、50年ごとに、初期・中期・後期と移り変わり、1600年頃終焉を向かえ、バロック時代へと入っていきます。とても覚えやすいです。1750年のあとは、美術で言うならば、ロココ時代となるのでしょうが、音楽上はあまりこの言葉は使われていないように思います。代わりに古典派の時代などと呼ばれ、次はロマン派の時代と音楽史上偉大な19世紀を迎えることになります。

ヘンデル「水上の音楽」

2007-07-17 09:03:38 | バロック
今日は、ヘンデルの「水上の音楽」が初演された日です(1717年)。
「水上の音楽」は、一度に今あるような曲全体が作られたのではなかった。17年の初演の後も、36年にも演奏されているが、その曲の中身は、改変されたり、新たに加わったものもあったという。全曲はヘ長調、ニ長調、ト長調に分けられるということもその証左になっている。
初演されたころ、国王ジョージ1世は、テームズ川に船を浮かべ音楽家に演奏させることを好んで行っていた。いろいろあり、その仕事がヘンデルに回ってきて、この日の初演となったのである。ジョージ1世は、スチュアート朝が女王アンの死で途絶えると、ドイツ・ハノーファーの宮廷から遠縁にあたる関係で呼ばれたのであった。一生ドイツ語しか話せなかったという。ヘンデルは、かつてこの宮廷の楽長をしていたが、留守にしてイギリスに来ていた。そこに偶然にも、新たな国王がやって来たということである。そのため、ご機嫌取りのつもりでこの「水上の音楽」が作曲されたという話も面白く伝わっていたが、これは事実ではないということが今では立証されている。しかし国王は、この音楽を大変に気に入り、3回演奏させたということだ。確かにこの曲は、ヘンデルを代表する傑作だと思います。

バッハ「復活祭オラトリオ」

2007-03-30 10:16:35 | バロック
この時期、キリスト教会では、復活祭があります。春分以降の満月のあと最初の日曜に行われる、ということです。可能性としては、3月22日から4月25日ということのようです。今年は、いつなのだろう。まだニュースなどでは耳にしてないようですが。
大バッハの作品に「復活祭オラトリオ」(BWV.249)というのがあります。説明を見ますと、世俗カンタータ(BWV.249a)より転用、とあります。このように、教会作品には世俗作品からの転用が多いようです。しかし、その逆、世俗作品には教会作品からの転用はないというのをどこかで読んだような覚えがあります。自分でも調べてみたいと思っているところですが。