西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ベートーヴェンと貴族たち

2008-01-28 09:55:02 | ベートーヴェン
ベートーヴェンがウィーンに出てから最初に接触したのは、ハンガリーの貴族ツメスカルのようだが、間もなくリヒノフスキー侯爵と知り合い、ベートーヴェンは侯爵家に一室を与えられて住むことになる。1年(別の本によると、3年という)ほどこのような生活が続いた。リヒノフスキー侯爵は作品1のピアノ三重奏曲を献呈し、またその後作品36の第2交響曲を捧げた人物である。その美人妻マリア・クリスチア-ネは、この間、かつてボンでのブロイニング家の未亡人ヘレーナがしたようにベートーヴェンの教育をしようと考えたようだ。ベートーヴェンはそれを次のように書いている。
「(リヒノフスキー侯爵夫人は)祖母のような心使いで、この邸で私の教育をしようと考えていた。何しろそれは大変なもので、彼女は私を硝子の保護瓶の中に入れようとするかのようだった。心無い者たちが私に触ったり、息を吹きかけないようにと。」
ベートーヴェンには窮屈だったのだろう、リヒノフスキー侯爵にはこの後もいろいろ世話になるのだが、気楽な生活ができる住まいへと引っ越すことになった。
ベートーヴェンの創作の大きなメルクマールとなるものは「第3交響曲《英雄》」と考えるが、この作品は、自邸にオーケストラを持つほどの貴族であるマクシミリアン・ロブコヴィッツ侯爵(1772-1816)に献呈された。そしてそのオーケストラによりロブコヴィッツ邸で1804年12月に私的初演された。この時、その場に居合わせた人々をひどく感激させた模様で、再度演奏されたということである。ロブコヴィッツ侯爵はその後、1809年にベートーヴェンに年金を与える3人のうちの一人となったが、1811年の秋に破産してしまった。この時もう一人の年金供給者の一人となったフェルディナント・キンスキー侯爵(1781-1812)は最も多額の年金を請け負ったが、1812年11月2日に落馬で亡くなってしまった。このことにより、年金は第3の供給者ルドルフ大公からのみとなり、ベートーヴェンは生活に窮するようになり、訴訟を起こしたというのは既に述べたところである。キンスキー侯爵には、作品86のミサ曲を献呈している。またルドルフ大公(1788-1831)は、皇帝フランツ1世の弟にあたり、ベートーヴェンからピアノ・作曲を教わっている。このルドルフ大公には、ピアノ協奏曲第4番・第5番、最後となったピアノ・ソナタ第32番など名曲・大曲が献呈されている。
これまでに何人かのベートーヴェンの周辺の貴族について述べましたが、まだ述べつくしてはいません。どのような芸術家であれ、その置かれた時代があります。ベートーヴェンは、好むと好まざるとにかかわらず自然とそのような貴族たちの中で、自分の芸術を開花させ、発表する場を持っていったのです。ベートーヴェンが1806年にリヒノフスキー侯爵に宛てた手紙は、現代の我々にもそのあるべき生き方を教えてくれているように思います。
「侯爵、あなたは出生の偶然により、今の地位にいるに過ぎません。私は、自分の力で今の私を築いたのです。あなたのような貴族は何千人といたし、これからもいるでしょう。だが、ベートーヴェンはここにただ一人いるだけです。」
「英雄交響曲」や「熱情ソナタ」を書いた後のことである。私たちは、これらの作品の中にベートーヴェンの強い意志を感じるべきだろう。

ブルンスヴィック家

2008-01-24 11:32:46 | ベートーヴェン
1795年、この年の3月29日から31日にかけての演奏会で、ウィーン・デビューを果たし、成功を収めたベートーヴェンは、5月に「ピアノ三重奏曲」の出版予告とその予約を募る広告を新聞紙上に載せた。「ベートーヴェン」(平野昭著)によると、123人が241部予約したということである。作品を献呈されたカール・フォン・リヒノフスキー侯爵とその家族が27部、リヒノフスキー侯爵の夫人マリア・クリスチーネの実家トゥーン伯爵夫人とその家族が25部予約したということである。その予約者の中に、ハンガリーの名家であるブルンスヴィック家のアンナ・エリザベート伯爵夫人(1752-1830)が含まれていた。
ブルンスヴィック家は、12世紀に十字軍に参加したブルンスヴィック公爵の獅子王ヘンリーの子孫ということです。この時既に寡婦となっていたアンナ・エリザベート伯爵夫人は、4人の子供たち、長女テレーゼ(1775-1861)、長男フランツ(1777-1849)、次女ヨゼフィーネ(1779-1821)、三女カロリーネ(1782-1843)のうち、テレーゼとヨゼフィーネのピアノのレッスンを作曲家ベートーヴェンに頼むことにした。後に回想記の中で、テレーゼは次のように述べている。
「18日間のウィーン滞在の間に、母は私とヨゼフィーネにベートーヴェンからレッスンを受けさせようとした。弟フランツの友人は、ベートーヴェンは呼んでも来ないだろうと言った。母は自らベートーヴェンの住まいの長い階段を昇り訪問すれば良い結果が出るだろうと言った。私たちは、作品1の楽譜を持って、彼の家に入った。偉大なベートーヴェンは大変優しく親切だった。私はピアノをかなり上手に弾いた。それが気に入り、彼はホテルへ毎日教えに来ると約束した。18世紀の最後の年の5月のことだった(実際には、1799年のことである、勘違いした?)。しかも、約束の1時間だけでなく、12時から4時・5時までも教えてくれた。この気高い人は私に満足したに違いない。彼は16日間、1日も休まず教えに来てくれた。夕方の5時までレッスンしてくれたが、私たちは少しも空腹を感じなかった。母もまた、一緒に空腹に耐えてくれた。・・・ベートーヴェンとの間に親しい心からの友情が生まれたのはこの時からだった。」(「ベートーヴェンの言葉」(津守健二著)より要約しました)
ベートーヴェンの教育者としての偉大な側面が分かる気がします。今の教育にはこのようなことが見られるだろうか。
テレーゼには作品78のいわゆる「テレーゼ・ソナタ」が献呈され、ヨゼフィーネには作品32の歌曲「希望に寄せる」が献呈され、2人とも「不滅の恋人」への手紙の相手に擬せられている。長男フランツにもピアノ・ソナタ中の最高傑作の一つとも言うべき作品57の「熱情ソナタ」と作品77の「幻想曲」とが献呈された。これら4兄弟の父親アントンの妹にスザンネがいるが、彼女はフランツ・ヨーゼフ・グイッチャルディと結婚し、その娘にジュリエッタがいる。有名な作品27の2の「月光ソナタ」を献呈されたジュリエッタ・グイッチャルディ(1784-1856)である。彼女は、1803年にヴェンツェル・ローベルト・フォン・ガレンベルク伯爵と結婚し、イタリアに去った。その後、ウィーンに戻ったジュリエッタはベートーヴェンに会おうとしたが、ベートーヴェンは会おうとしなかったということです。



ワルトシュタイン伯爵の紹介状

2008-01-23 11:06:18 | ベートーヴェン
1792年11月10日、ウィーンに着いたベートーヴェンはワルトシュタイン伯爵からの紹介状を携えていたのだろう。着いてすぐに、ニコラウス・ツメスカル・フォン・ドマノヴィッツ男爵(1759-1833)の所へ行った。そして生涯を通じての友となった。自らチェロを弾く音楽愛好家で、ベートーヴェンからの手紙も多く残されている。彼はベートーヴェンをハイドンのもとへと連れて行き、すぐにレッスンが始まった。また後にブルンスヴィック家やエステルハージー家などを紹介したのもドマノヴィッツ男爵であった。
ワルトシュタイン伯爵は、ウィーンの有名な音楽愛好家でありまたモーツァルトの保護者でもあったマリー・ヴィルヘルミーネ・フォン・トゥーン伯爵夫人(1744-1800)を叔母に持っていた。このトゥーン伯爵家には、有名な「三美人」がいた。その一人がエリザベートで、アンドレイ・ギリロヴィッチ・ラズモフスキー伯爵(1752-1836)に嫁いだ。ベートーヴェンから作品59の弦楽四重奏曲(3曲)を献呈されたことで、音楽史上に永遠に名を残すことになった。もう一人の「三美人」はマリア・クリスチアーネで、カール・フォン・リヒノフスキー侯爵(1758-1814)のもとへ嫁いだ。だからこのラズモフスキー伯爵とリヒノフスキー侯爵とは義理の兄弟にあたる。リヒノフスキー侯爵は、ベートーヴェンの作品1のピアノ三重奏曲(3曲)を献呈された他、作品13(ピアノ・ソナタ8番「悲愴」・26(ピアノ・ソナタ12番)・36(第2交響曲)などを献呈されている。

ボンで知り合ったワルトシュタイン伯爵

2008-01-22 08:52:28 | 音楽一般
ベートーヴェンが周囲の人と大きく係わり合いを持つきっかけになった人物は12歳のころ知り合った友人のフランツ・ゲルハルト・ウェーゲラー(1765-1848)です。彼を通じてブロイニング家と交際を持つようになりました。ブロイニング家には、宮廷顧問官をつとめ不慮の事故でなくなったエマヌエル・ヨーゼフ・フォン・ブロイニング(1741-77)とベートーヴェンと知り合った時にはすでに寡婦となっていたヘレーナ(1750-1838)、長男クリストフ(1771-1841)、長女エレオノーレ(1772-1841)、次男シュテファン(1774-1827)、三男ロレンツ(1777-1798)の4人の子供がいました。次男シュテファンの息子にゲルハルト(1813-1892)がいて、死の床に横たわるベートーヴェンを毎日のように訪れて慰めていたということです。ベートーヴェンからは「アリエル」とか「ズボンのボタン」とか呼ばれていた。昨日記した不滅の手紙が見つかった経緯、およびその時の出来事は当時14歳のゲルハルトが後に著書で書いています。そしてこのブロイニング家で知り合った一番重要な人物がワルトシュタイン伯爵と言っていいでしょう。伯爵によってベートーヴェンはウィーン留学が可能となったのです。

不滅の恋人

2008-01-21 10:37:52 | 音楽一般
年代を追って記述していますが、その時になったら書こうと思っていたのですが、昨日見た放送についての感想などから書いてみたいと思います。
あの研究者のことも全く知らず、また出て来た推定の女性も意外な人物だったので、その後この研究者はどのような人なのかをネットで検索しながら聞いていました。
以前も書きましたが、手元に昭和46年(1971年)発行の良心的な著書「ベートーヴェンの言葉」(津守健二著・朝日新聞社刊)があり、私は出ると同時に買い求めしっかり読んだつもりでした。その一章に「愛」というのがあり、16の説を取り上げていて、その中には、放送で出たアントーニア・ブレンターノはなかったのです。ただ今手元にあるもう1冊の伝記本には、確かに出ていました。そこには昨日テレビに出ていた方の名前はなく、アメリカの研究家が1972年に発表した説と言うことで、「アントーニエ・ブレンターノ」(1780-1869)と出ていました。そしてそこでもこの人物が手紙の相手だとの説明が簡単にですが、出ています。
「ベートーヴェンの言葉」によると、この手紙は、ベートーヴェンが遺言で、カール(甥にあたる)に銀行の株券を残すと言っているが、それがどこにあるかを探している時に貴重品を入れる用箪笥の秘密の引き出しから見つかったということです。7枚の株券とテレーゼ・フォン・ブルンスヴィックの肖像画とともに。1827年3月27日、ベートーヴェンが亡くなった日の翌日の午後のことです。この肖像画は、1809年にベートーヴェンがテレーゼに献呈したピアノ・ソナタ第24番(作品78)に対する返礼としてその2年後11年にテレーゼ自身から贈られてきた油絵である。絵の裏に「稀な天才にして大芸術家の善き人へ T・B」と記され、ベートーヴェンはそれに対し「好意を持つ仲では、求めることなく相手を想うものです。優れて尊いテレーゼよ、貴女と自分もそうですー」との礼状を書いている。
そもそもこの「不滅の恋人」の手紙は書いて出されたのだろうか。それが手元にあるということはどういうことなのか。以下は全く私の推測です。
この手紙は、1812年7月6日月曜日、朝と夕方と7日火曜日に書かれた3通で、ある特定の女性に宛てられたものだが、結局出さずにいた(最初から出すつもりがなかったのかも?)、そしてベートーヴェンはそれをその時の自分の気持ちを最後まで芸術作品の創造のばねにするために所持していた。手紙の相手とはそれを処分したくなるほどのことは後になかった。アントーニアには、いわゆる「ディアベリ変奏曲」(作品120)を献呈しています。1823年に完成した作品で、最後のピアノ・ソナタ32番を書いてピアノからは一時遠ざかっていた後、再び取り掛かった長大な変奏曲です。夫フランツ・ブレンターノとの間の娘マクシミリアーネにもピアノソナタ第30番とピアノ三重奏曲(WoO39)を贈っています(後者は死後の出版ですが)。ついでに言うと、このフランツの異母妹のベッティーナ・ブレンターノは、文学的才能を持ち、ゲーテとも付き合うほどの人ということですが、出版した書物にゲーテからの手紙をどうも自分で創作し載せているようで、またベートーヴェンからの手紙も1811年2月10日のものは本物だが、1810年と12年の2通は偽物ではないかと疑われています。どうしてこのようなことをするのかと思いますが、困った人物です。弟2人共その妻には良い感情を持っていなかったのですが、ちょうどこの手紙の年12年の10月下の弟ヨハンの家に住んでいた時同居していたあの女を追い出せとベートーヴェンが言ったら、その直後に弟はその女と結婚してしまったということは以前書きましたが、人の妻になるものをそれほど非難するのですから、自分は少なくともそのような相手ではない人を選ぶと思うのですが、このアントーニアという人はどのような人なのか。あまり詳しくは今手元にある本では伝えてくれていません。ベートーヴェンは生涯に先のテレーゼ・フォン・ブルンスヴィックも含め婚約までした人や、求婚した人はおそらく10人くらいはいたと思います。「不滅の恋人」の手紙ゆえにこの人物を生涯で最も、などと考えることもないようにも思います。私には、油絵も一緒にあったということでたとえその手紙が他の女性に宛てられたものであっても、最後まで深く思いつめていたのは生涯を独身で通したテレーゼではないかと思うのですが。また年代を追ってこの時期になったら書いてみたいと思います。ブレンターノ家もフォンが付くので、貴族だと思うのですが、昨日書いた貴族については次回書きたいと思います。



ベートーヴェンを取り巻く貴族たち

2008-01-20 11:33:37 | 音楽一般
今朝新聞を見たら、夜3チャンネル(NHK教育テレビ)で「ベートーヴェンの不滅の恋人」の手紙を取り上げるとのこと。見てみようと思います。

ベートーヴェンの伝記をよむと、貴族たちが数多く登場します。それから50年も経ったころの作曲家にはこれほどは出てこないでしょう。ベートーヴェンの置かれた時代・保守的な傾向を持つウィーンという場所柄を感じさせます。ナポレオンがオーストリアのウィーンを目指し進軍したというのは、人間の平等を高らかに掲げた自由思想は普遍的なものであり、それは特に旧体制で凝り固まったハプスブルク家のオーストリアにこそ広めねばならないとの総裁政府の意向を反映したものでした。革命前の最後の王ルイ16世は王妃マリー・アントアネットをハプスブルク家から迎えた(マリー・アントアネットは、有名な女帝マリア・テレジアの娘で、2人の神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世とレオポルト2世をそれぞれ長兄・次兄に持ち、そしてベートーヴェンが92年まで住んでいたボンの最後のケルン選帝侯マクシミリアン・フランツはその弟だった)という関係にあったが、オーストリアは革命の波及を恐れ、第1回対仏大同盟をイギリス・プロイセン・オランダなどと組み、フランスとオーストリアは敵対関係にありました。ベートーヴェンは、外国軍の自国への侵入は深く嫌悪したでしょうが、青年時代にボン大学で新しい時代の息吹きを感じさせる思想には惹かれるものがあったでしょう。先に記した97年10月のカンポ・フォルミオの和により、翌98年2月5日にフランス全権大使としてベルナドット将軍(なぜか後にスウェーデン王となる)がウィーンに赴任する。そして随員としてバイオリンの名手クロイツェル(「クロイツェル・ソナタ」で知られる)がいたのだった。このベルナドットからフランス革命の収拾者としてのナポレオンを聞き、それが「英雄」交響曲の作曲動機になったと言われています。
ベートーヴェンの周囲には以下のような貴族たちが登場し、様々な恩恵を与えています。
ニコラウス・エステルハージー侯爵
アンナ・マリー・エルデーディー伯爵夫人
ドロテア・フォン・エルトマン男爵夫人
ニコラス・ボリス・ガリツィン侯爵
キンスキー侯爵
パスクワラーティ男爵
ブルンスヴィック伯爵家
ラズモフスキー侯爵
リヒノフスキー侯爵
ルドルフ大公
ロプコヴィッツ侯爵
ワルトシュタイン伯爵
などである。これらの中には姻戚関係を持つ家族もある。次回は、これらの貴族について書いてみたい。

ピアノの弟子たち

2008-01-19 23:09:01 | 音楽一般
1796年の前半におけるほぼ半年間のプラハ旅行から帰った後、ベートーヴェンの創作が活発になったように思われる。主なものをあげると、1798年に作品9の弦楽四重奏曲、作品10のピアノ・ソナタ、それに作品12のバイオリン・ソナタがそれぞれ3曲ずつのセットで完成された。またこの年には有名な「悲愴」ソナタの作曲もある。そしてさらにこの年からは作品18の弦楽四重奏曲(6曲のセット)に取り掛かり、1800年に6曲の完成を見ている。そして1800年(18世紀の最後の年に当たる)に前年から取り掛かった交響曲第1番を完成させたのだった。そしてこの年の4月2日にブルク劇場で作曲者自身の指揮により初演された。交響曲作家としての第一歩を踏み出したのだった。満を持して発表したこの1番の交響曲が持つ意味をベートーヴェンは十分意識していたことだろう。自分の思想を表現する最大のものが交響曲であると考えたことだろう。そして同じ年に発表された始めての弦楽四重奏曲、それにこの年までに11曲発表したピアノ・ソナタ、この三つがベートーヴェンにとっては3本の柱となって生涯に渡りずっと取り組む対象であり、1度も後退することなく一歩一歩高みへと歩んでいくのだった。
ボン時代からベートーヴェンはブロイニング家の子供たちをはじめ家計を支えるために多くのピアノの生徒を取っていたが、以上の作品を生み出したころにも新しいピアノの弟子を持つことになった。1799年にテレーゼとヨゼフィーネのブルンスヴィック家の姉妹、それに1800年にジュリエッタ・グイッチャルディである。ベートーヴェンはジュリエッタの出現を、「今では私はいくらか愉しい生活をしている。・・・一人の愛らしい、魅力的な少女のおかげなのだ。」と手紙で書いている。有名な「月光」ソナタを捧げたのはこの少女である。テレーゼ・ブルンスヴィックにも後に第24番のピアノ・ソナタを捧げている。ヨゼフィーネとジュリエッタは後に結婚しているが、テレーゼだけは生涯を独身で通した。多くの研究家が述べていますが、後のベートーヴェンの「不滅の恋人への手紙」、これはこのテレーゼ・ブルンスヴィックではないかと私は思っています。さらにいろいろ本を読んで見たいと思っていますが。
このように作曲家としても基礎を固め、これから飛躍を見ようというこの時期に、実はその2年ほど前からベートーヴェンは大きな体の不調を感ずるのだった。耳の病気である。

プラハ旅行から生まれた作品

2008-01-18 12:16:38 | 音楽一般
1796年2月から7月にかけてベートーヴェンは半年に及ぶ旅行をしたことを書きました。そしてベルリンでは宮廷楽団の首席チェリスト、デュポールのために作品5の2つのチェロ・ソナタを作曲しましたが、この旅では他にもいくつかの作品を生んでいます。それは4月まで滞在したプラハにおいてです。ここでベートーヴェンは、モーツァルトとも親交があり、「レチタティーヴォとアリア」(K.272)などいくつかの作品をモーツァルトが捧げたソプラノ歌手ドゥシェク夫人に出会い、管弦楽伴奏の歌曲「おお裏切り者め!」を彼女のために作曲しました。そしてこのプラハでもう一つ珍しい作品を書いています。「マンドリンとチェンバロのためのソナチネ ハ短調」(WoO43a)などマンドリンとチェンバロのための4曲です。最初買い求めたベートーヴェンの全集にはこの作品は入っていず、その後レコード店でLPを見つけすぐ買いました。とてもよい演奏だったこともあり、すぐに私のお気に入りの作品になりました。あまり一般には知られていない作品です。さきほどこのうちの2曲を聴き、今も頭の中で快く鳴り響いています。歌曲「おお裏切り者め!」はドゥシェク夫人に出会ったことが契機で作曲されましたが、このマンドリンのための曲がどのような人物との出会いから書かれたのか、いくつかの伝記本を前にしていますが、出ていません。また何かの機会に調べたいと思います。

ベートーヴェンの作品1

2008-01-17 10:52:28 | 音楽一般
ベートーヴェンは、ウィーンへ作曲の勉強をするために来たのであったが、その腕前を披露する機会は1795年24歳の時におとずれた。この年3月29日のブルク劇場でのデビュー演奏会がそれである。他の作曲家の交響曲とオラトリオの間に演奏された自作の「ピアノ協奏曲 変ロ長調」で独奏も受け持った。これは現在第2番(Op.19)となっているピアノ協奏曲である。すなわち出版の関係で後で作曲したものが第1番(Op.15)となったのだった。翌30日にもピアノの即興演奏を行い、31日には再びピアノ協奏曲の独奏者として登場した。今度は先輩モーツァルトの作品で、第20番ニ短調(K.466)と推測されている。後になるが、この曲にはベートーヴェンの、第1・3楽章のためのカデンツァが作曲され遺されている。
このころ作曲を進めていた作品にピアノ三重奏曲がある。この当時は3曲あるいは6曲をセットにして作曲・出版することがあり、これも1番変ホ長調、2番ト長調、3番ハ短調の3曲からなっている。この3曲は出版する前にリヒノフスキー侯爵邸で初演され、この時第2回のイギリス渡航を前にしたハイドンも出席していた。そしてハイドンは第3番は出版しない方が良いと言ったということだ。ベートーヴェンは短調のこの曲を一番の自信作と思っていたようで、この言葉にベートーヴェンは傷つけられたことだろう。あるいは師ハイドンに献呈することを考えていたかも知れないが、結局この作品は、初演を行った、またウィーンに来てから住居を提供してくれたリヒノフスキー侯爵に献呈され、作品1としてウィーンのアルタリア社から出版されたのだった。この後でもしばしば見られるが、ベートーヴェンに気に障る行動・発言があれば、それは必ず後でそれに対する発露が見られるということだ。
3月29日のブルク劇場でのデビュー演奏は、渡英にあたり師ハイドンに聴いてもらえなかったが、5ヵ月後の8月30日にハイドンはウィーンへと戻った。その直後、同じくリヒノフスキー侯爵邸でハイドンを前に新作のピアノ・ソナタ(今回も3曲のセット)を初演した。今度はハイドンを感心させたらしく、何も言わなかったようだ。これは翌96年6月にアルタリア社から出版され、ハイドンに献呈された。作品番号は勿論2番である。ベートーヴェンは、生涯で32曲のピアノ・ソナタを出版したが、そして後期に属する5曲は何者にも代え難い前人未到の境地に達するものだが、その第1歩がここに記されたのだった。



1796年のヨーロッパ

2008-01-16 11:01:33 | 音楽一般
1796年7月、ベートーヴェンは半年ほどに及ぶプラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンなどへの実り多い旅行から帰り、その後も作品7、作品10のピアノ・ソナタなど意欲的に作曲を進めていくが、そのころヨーロッパはコルシカ島生まれの一人の男の侵略に慄いていた。ナポレオンである。この年3月2日にイタリア遠征軍司令官に任命されたナポレオンは、ジョゼフィーヌとの結婚2日後の3月11日軍隊をイタリアへと向けた。1ヵ月後の4月12日サボナの司令部から攻撃を開始する。次々に勝利を収めトリノへと進軍し遂に5月にミラノ占領するが、ようやくマントバで阻止される。8月には、チロルへと迫り、オーストリア国境防衛軍が敗れる報の中、ウィーンでは義勇軍が組織された。ベートーヴェンは、その義勇軍少尉フリーデルベルクの詩に付曲し、「ウィーン市民への別れの歌」(WoO121)を書き、ケヴェスディ士官に捧げた。また翌年97年4月に、ナポレオン軍がアルプスを越えウィーンに迫ると、学徒千人を含む8千人を越える義勇軍が総動員令下に組織され(学徒動員である)、ベートーヴェンは同じ少尉の詩による「オーストリア軍歌―我らは大ドイツ民族」(WoO122)を作曲した。この時ウィーン在住で65歳になるハイドンが作曲したのが、「神よ、皇帝を守り給え(皇帝讃歌)」である。
「オーストリア軍歌」は、次のように歌っている。
「我らは名を上げるためにでもまた金銭欲のためにでも戦うのではない、
 平和という幸せを得んがためである。
 ・・・
 我らの戦争は正義である。
 勝利は我らのものである。
 ・・・」
今やオーストリアという同じドイツ語を話す国にいて、国の置かれた状況を憂い、ベートーヴェンはこのような作品を書いたのである。自然なことだと考える。ベートーヴェンが「軍歌」を書いていることが理解できないならば、何も理解できないだろう。
 97年10月17日に結ばれたカンポ・フォルミオの和により、多くの犠牲を払いながらも、ウィーンの危機は避けられたのだった。