ベートーヴェンがウィーンに出てから最初に接触したのは、ハンガリーの貴族ツメスカルのようだが、間もなくリヒノフスキー侯爵と知り合い、ベートーヴェンは侯爵家に一室を与えられて住むことになる。1年(別の本によると、3年という)ほどこのような生活が続いた。リヒノフスキー侯爵は作品1のピアノ三重奏曲を献呈し、またその後作品36の第2交響曲を捧げた人物である。その美人妻マリア・クリスチア-ネは、この間、かつてボンでのブロイニング家の未亡人ヘレーナがしたようにベートーヴェンの教育をしようと考えたようだ。ベートーヴェンはそれを次のように書いている。
「(リヒノフスキー侯爵夫人は)祖母のような心使いで、この邸で私の教育をしようと考えていた。何しろそれは大変なもので、彼女は私を硝子の保護瓶の中に入れようとするかのようだった。心無い者たちが私に触ったり、息を吹きかけないようにと。」
ベートーヴェンには窮屈だったのだろう、リヒノフスキー侯爵にはこの後もいろいろ世話になるのだが、気楽な生活ができる住まいへと引っ越すことになった。
ベートーヴェンの創作の大きなメルクマールとなるものは「第3交響曲《英雄》」と考えるが、この作品は、自邸にオーケストラを持つほどの貴族であるマクシミリアン・ロブコヴィッツ侯爵(1772-1816)に献呈された。そしてそのオーケストラによりロブコヴィッツ邸で1804年12月に私的初演された。この時、その場に居合わせた人々をひどく感激させた模様で、再度演奏されたということである。ロブコヴィッツ侯爵はその後、1809年にベートーヴェンに年金を与える3人のうちの一人となったが、1811年の秋に破産してしまった。この時もう一人の年金供給者の一人となったフェルディナント・キンスキー侯爵(1781-1812)は最も多額の年金を請け負ったが、1812年11月2日に落馬で亡くなってしまった。このことにより、年金は第3の供給者ルドルフ大公からのみとなり、ベートーヴェンは生活に窮するようになり、訴訟を起こしたというのは既に述べたところである。キンスキー侯爵には、作品86のミサ曲を献呈している。またルドルフ大公(1788-1831)は、皇帝フランツ1世の弟にあたり、ベートーヴェンからピアノ・作曲を教わっている。このルドルフ大公には、ピアノ協奏曲第4番・第5番、最後となったピアノ・ソナタ第32番など名曲・大曲が献呈されている。
これまでに何人かのベートーヴェンの周辺の貴族について述べましたが、まだ述べつくしてはいません。どのような芸術家であれ、その置かれた時代があります。ベートーヴェンは、好むと好まざるとにかかわらず自然とそのような貴族たちの中で、自分の芸術を開花させ、発表する場を持っていったのです。ベートーヴェンが1806年にリヒノフスキー侯爵に宛てた手紙は、現代の我々にもそのあるべき生き方を教えてくれているように思います。
「侯爵、あなたは出生の偶然により、今の地位にいるに過ぎません。私は、自分の力で今の私を築いたのです。あなたのような貴族は何千人といたし、これからもいるでしょう。だが、ベートーヴェンはここにただ一人いるだけです。」
「英雄交響曲」や「熱情ソナタ」を書いた後のことである。私たちは、これらの作品の中にベートーヴェンの強い意志を感じるべきだろう。
「(リヒノフスキー侯爵夫人は)祖母のような心使いで、この邸で私の教育をしようと考えていた。何しろそれは大変なもので、彼女は私を硝子の保護瓶の中に入れようとするかのようだった。心無い者たちが私に触ったり、息を吹きかけないようにと。」
ベートーヴェンには窮屈だったのだろう、リヒノフスキー侯爵にはこの後もいろいろ世話になるのだが、気楽な生活ができる住まいへと引っ越すことになった。
ベートーヴェンの創作の大きなメルクマールとなるものは「第3交響曲《英雄》」と考えるが、この作品は、自邸にオーケストラを持つほどの貴族であるマクシミリアン・ロブコヴィッツ侯爵(1772-1816)に献呈された。そしてそのオーケストラによりロブコヴィッツ邸で1804年12月に私的初演された。この時、その場に居合わせた人々をひどく感激させた模様で、再度演奏されたということである。ロブコヴィッツ侯爵はその後、1809年にベートーヴェンに年金を与える3人のうちの一人となったが、1811年の秋に破産してしまった。この時もう一人の年金供給者の一人となったフェルディナント・キンスキー侯爵(1781-1812)は最も多額の年金を請け負ったが、1812年11月2日に落馬で亡くなってしまった。このことにより、年金は第3の供給者ルドルフ大公からのみとなり、ベートーヴェンは生活に窮するようになり、訴訟を起こしたというのは既に述べたところである。キンスキー侯爵には、作品86のミサ曲を献呈している。またルドルフ大公(1788-1831)は、皇帝フランツ1世の弟にあたり、ベートーヴェンからピアノ・作曲を教わっている。このルドルフ大公には、ピアノ協奏曲第4番・第5番、最後となったピアノ・ソナタ第32番など名曲・大曲が献呈されている。
これまでに何人かのベートーヴェンの周辺の貴族について述べましたが、まだ述べつくしてはいません。どのような芸術家であれ、その置かれた時代があります。ベートーヴェンは、好むと好まざるとにかかわらず自然とそのような貴族たちの中で、自分の芸術を開花させ、発表する場を持っていったのです。ベートーヴェンが1806年にリヒノフスキー侯爵に宛てた手紙は、現代の我々にもそのあるべき生き方を教えてくれているように思います。
「侯爵、あなたは出生の偶然により、今の地位にいるに過ぎません。私は、自分の力で今の私を築いたのです。あなたのような貴族は何千人といたし、これからもいるでしょう。だが、ベートーヴェンはここにただ一人いるだけです。」
「英雄交響曲」や「熱情ソナタ」を書いた後のことである。私たちは、これらの作品の中にベートーヴェンの強い意志を感じるべきだろう。