西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ベートーヴェンの引越し

2008-05-26 10:38:31 | 音楽一般
ベートーヴェンは、1792年の11月10日にウィーンに移り住むようになり、以後プラハ、ライプツィヒ、ドレスデン、ベルリンに旅行したり、チェコのテープリッツに行ったりとオーストリア国外に出たことはありましたが、ほとんどをオーストリア国内で過ごしました。ウィーン市内がそのうちの大部分を占めます。私はいつかその足跡を訪ねたいものだと思い(実現するかはわかりません)、ガイドブックを購入し調べたく思いました。伝記でいろいろな町の名が出たりするのですが、どこなのかしっかり位置付けをしたいと思ったのです。「ウィーンとオーストリア」(地球の歩き方)を買い求めました。20年以上前にウィーンにはツアーで訪れ、その時は市内に一泊しただけ、その時にもガイドブックを買い、その後も趣味でオーストリアのガイドブックは買いましたが、今回の本はそれらと格段の違いを見せるほど詳しいですね。またこの楽聖のこともその足跡を追えるべく詳しく書かれています。
この本によると、70回以上引っ越したという。ですから恐らく全部を跡付けることは不可能でしょう。引越しの理由は、近所・家主との騒音を巡る争い、またベートーヴェン自身の嫌な思いをしたからということもあったでしょう。その住居跡のうち、3箇所がウィーン市内で記念館として公開されているという。「パスクァラティハウス」「ハイリゲンシュタット遺書の家」「エロイカ・ハウス」ということだ。勿論ベートーヴェンの散歩道Beethovengangも歩いてみたいですね。でも森を歩く時はZeckeに注意ということである。ウィルス性の脳炎を引き起こすダニということである。2度以上のワクチン接種が必要とのこと。行く前から心配しているといったところです。

「未完成交響楽」

2008-05-10 23:57:14 | 音楽一般
今日、シューベルトに纏わる映画「未完成交響楽」を見ました。2度目です。以前ビデオに収録したものを、探し出して再び見たということです。80年代の始め頃テレビから録画したようです。今のDVD収録などに比べれば画質などは年月も経ちぐんと劣るでしょうが、ノイズなどもなく楽しむことができました。この映画は、1933年の映画ということで、白黒です。このような昔の映画を見ると、今のカラーのに比べればその点で「劣る」ということなのでしょうが、不思議とこのような考えには少しもならず、優れた映画として楽しみました。勿論この映画を見ることになったのは、今回の「ラ・フォル・ジュルネ」音楽祭の影響でしょう。シューベルトに関する映画としては「野バラ」(タイトルはこれでいいのか?)というのもあり、これもいい映画だったと思います。我がビデオ蒐集にあるかどうか。探してみたいと思っています。

この映画は、いわゆる「未完成」交響曲が未完成に終わったことをテーマに、それをシューベルトの恋と絡めて扱ったものですが、ここで扱われていることは全くのフィクションと言っていいでしょう。この映画は「フィクション」として楽しめばいいのです。なぜこの音楽史に残るべき「未完成」交響曲が未完成に終わったのかはいまだ十分には説明されていないように思います。私などは、第3楽章がスケッチが残されていて、オーケストレーションも9小節目までなされている(映画はここまでの演奏が何度か聞かれました)ので、シューベルトは、本来これまでの交響曲同様4楽章作品として完成させようとしていたのだと思います。それが、思うように作曲の筆が進まず、そのまま忘れ去られたということではないかと思います。シューベルトにとっては、その後に続く作品は次々と生み出されていったのですから。そして、2楽章だけでもその素晴らしい内容からしてまた時間的にもハイドンなどの交響曲の4楽章分はあるしということで、今頻繁に取り上げられているのだと思います。勿論これでは少しも説明にならず、なぜ筆が進まなく忘れるまでになったのか、ということを言わねばならないと思う人も多いでしょう。第1・第2楽章とも3拍子であり、行き詰まりを感じたなどという説明を読んだことがありますが、はたしてその説明も十分なものと言えるのか。

シューベルトは交響曲をいくつ書いたのか。またそのナンバリングはどうあるべきか。先日の音楽祭で、第7番「未完成」、第8番「グレイト」となっていました。私がクラシック音楽に興味を持った頃、「未完成」は第8番で、「グレイト」は9(7)番となっていました。私にとっては「未完成」は第8番なのですね。余計なことですが、高校時代、年度の最後に担任に対するイメージを生徒全員が書くというのがありましたが、その中で、ある生徒が、シューベルトの第8番と書いたのを思い出します。「未完成」というわけです。私だけでなく、「未完成」は第8番なのです。

最初に戻りますが、シューベルトは交響曲をすべて断片などを拾って13曲書いたと考えます。D(ドイッチュ)番号の82,125,200,417,485,589が第1番から第6番であることは問題ないでしょう。4番には《悲劇的》というニックネームが付いています。すべて4楽章で1813年から18年までに書かれました。ここまでの番号付けは問題ありません。
次に断片・スケッチ状態で残されているものを見ると、次のようになります。
D615 交響曲 ニ長調 1818年作曲
D997(新D2B) 交響曲 ニ長調 1811年?または1812年頃作曲
(新D708A) 交響曲 ニ長調 1818年または1820年以降作曲
(新D936A) 交響曲 ニ長調 1828年?作曲
以上の4曲については、若い頃の作品断片であるD997以外はその断片などの状態で録音が行われています。マリナーの全集が最初だったと思いますが、これは実に有難いことです。
すると残り3曲となりそうですが、ここで幻の調性不明の《グムンデン-ガシュタイン》交響曲というのがあるのです。ですからあと4つの作品を考えます。
1821年に4楽章からなるホ長調の交響曲を書きましたが、シューベルトはこれをピアノ譜のみのスケッチとして残しているだけです(D729)。これを後にワインガルトナーがオーケストレーションして完成させました。1934年のことです。これが第7番(4楽章)で、今日そのワインガルトナー版を聴くことができます。次がその翌年の1822年に作曲された有名なロ短調の《未完成》交響曲(D759)です。ですからこれが第8番となります。普通に演奏されるのは2楽章ですが、第3楽章のスケッチはあるし、さらに第4楽章を追加し4楽章構成のものと考え、この復元した形で録音もなされています。(ここまでの復元はかなり無理があると思います)次の第9番が1825年に書いたとされる《グムンデン-ガシュタイン》交響曲(D849)です。これはスケッチさえも全く伝えられていません。調性不明ということです。そして最後第10番になるのがハ長調の《グレート》と呼びなわされるD944の交響曲である。ということで、《未完成》は第8番、そして《グレート》は第10番です。
以上述べたのは、シューベルトの研究家アルフレート・アインシュタインがその優れた著作「シューベルト」の中で示した考えによるものである。
時代が遡り、1839年シューマンは長大な交響曲《グレート》を発見し、49年に出版された。この時まだ6番までしかシューベルトの交響曲は知られていなかったので当然第7番となったのだった。そしてその後1865年に《未完成》が発見され第8番となった。結局、シューベルトは8曲の交響曲を作曲したということで落ち着いてよかったのだろうが、ここでホ長調のスケッチで残されたもの(D729)が浮上してきた。それで作曲年代も考慮され、第7番ホ長調(D729)、第8番ロ短調《未完成》、第9番ハ長調《グレート》となった。ここでも《未完成》は第8番である。その後さらに、シューベルトの交響曲には《グムンデン-ガシュタイン》交響曲と呼ばれる紛失されたと考えられる幻の交響曲があることが作曲者の手紙などから推測された。1825年7月から8月にかけて作曲されたと考えられた。それで、これが第9番となり実体はなく失われた交響曲というわけである。そのため、《グレート》は第10番と一つ番号を下げたというわけである。これで、《グレート》は7番・9番そして10番の番号を与えられたことがわかる。《未完成》は8番と不動である。
ここに最近の研究が加わり次のような修正を受けることになった。
研究成果というのは、《グムンデン-ガシュタイン》交響曲と呼ばれるものは存在せず、《グレート》がそれに当たるということである。つまり長らくシューベルト最後の年1828年3月以降の作曲と考えられていた《グレート》は1825年3月から翌年26年の作曲ということである。またD729ホ長調の交響曲(スケッチ状態のもの)は、一つの作品として扱うのは不可能とのことから交響曲作品から削除すべきということである。それで、現段階では最終的に、第7番「未完成」、第8番「グレイト」となっているということである。ここではじめて両作品に新たな番号がふられたということである。これが先の音楽祭で割り当てられた番号ということになる。

ここで話を終わりにしたいところであるが、1986年から87年にかけてアバドがヨーロッパ室内管弦楽団と共に録音した「シューベルト交響曲全集」にはさらに管弦楽曲の大曲が録音されている。4楽章からなる《グラン・デュオ》である。これは元々は4手のためのピアノ・ソナタ ハ長調(遺作) 作品140(D812)でヨーゼフ・ヨアヒムがオーケストラ編曲したものである。ヨアヒムは、「グムンデン-ガシュタイン交響曲」の原形をこの作品と考え編曲したのだった。

シューベルトの交響曲のナンバリングは以上のように落ち着いたが、それでは年代順につけたD番号900番台の交響曲は一つもなくなってしまうことになる。私にはどうしてもあの偉大な「グレイト」交響曲(D870~880くらいの番号となるだろう)は、どれも重要な作品が並ぶ900番台の作品と考えなければ収まりがつかないように思うからである。

久しぶりに、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴く。
アシュケナージ(LP)で第15番と第16番。

「熱狂の日」音楽祭見聞記(その2)

2008-05-06 23:52:09 | 音楽一般
今日も行きました。しかしチケットはこれをと思うのは手に入るはずもなく(追加公演は、もちろん売り切れていました)、無料のコンサートをいくつか楽しみました。
その1。東京フォーラムでない丸の内の会場です。シューベルトのミサ曲、それにアンコールの合唱による「アヴェ・マリア」。よかったですね。
その2。東京フォーラムでの「未完成」全曲。
結局2つだけでした、聴いたのは。余韻を味わって来たといったところです。

実は、今日もサインをしてもらいました。「イザイ弦楽四重奏団」です。申し訳なかったですが、作曲家イザイの名前は知っていましたが、この団体のことは知らず、また今回コンサートを聴いたわけでもありません。CDが並んでいたので、見ると、ベートーヴェンの非常に珍しい弦楽四重奏曲を収めたCDがあったのです。これを購入してサインを貰ったというわけです。



その珍しい曲ですが、記憶も十分でなく果たして持っているのではと思いながらも、絶対に2つ乃至3つは持っていないだろうと思って今調べてみると、1つだけでした、所持してなかったのは。それは Quartet Fragment(1817) in B minor とあるものです。時間は何と 0.37。これ一つのために買ったことになるでしょうか。これまでも何種類も同じ曲を違った演奏家で聴いてみたいと思い買っているのでそれはいいのですが、知らない曲が2~3増えたかと思っていたのは、わずか1曲ということになりました。その一つですが、作品番号が付いていないのですね。ベートーヴェンなら、Op.とかWoOとかHessとかの番号が付くはずなのですが、それが付いていないのです。Hess 35は所持していないのですが、それのことなのか?まだ聴いていないのですが、聴けばわかるのだろうか。
来年またこの団体が来たらぜひ聴いてみたいと思っています。もちろんケフェレック女史も。

「熱狂の日」音楽祭見聞記(続き)

2008-05-05 14:49:40 | 音楽一般
昨日、思いがけないことがありました。最初のコンサートが終わり出てみると、法隆寺の八角堂のようなところで、演奏している女性の姿。ピアノです。去年ここで演奏するバイオリニスト、それに昨日も記したいちむじん、と聴いて、今年はどんな人がするのだろうと、前もって情報を得てなかったので、当日もらったパンフを見ると、アンヌ・ケフェレック女史とありました。通りすぎる所だったのですが、終わるまで拝聴。だけどずいぶんサービスしてくれる人だなあと思いました。私自身、その名は夙に知っていましたが、どのような特徴をもち、どのようなレパートリーのピアニストなのか、ほとんど知りませんでした。フランス人だから、もちろんフランス音楽は得意とするでしょう、ドイツ系の音楽は、特にベートーヴェンなどは?、などというところです。
その後、次の無料音楽会を聴きに下に下りていくと(半券がないと行けないところ)、なんとケフェレック女史のサイン会があるとのこと。これから始まるところでした。女史の演奏CDなどがおいてあり、その中から1枚(といっても2枚組み)ラヴェルを買い求め、サインの列に。(サインがCD購入を条件としているというようなことではなかったようですが、私はやはりCDにサインしてもらわないとしても、このようなときは買うべきだと思います。)にこやかな雰囲気でサインしてくれるのが良いですね。女史はそのような人でした。

化石化した私のフランス語、
Ici, s'il vous plait.(ここにサインをお願いします。)
Est-ce que je peus vous prendre en photo?(お写真撮っていいですか。)
も何とか通じたようで、1枚撮らせていただきました。(もし失礼なようでしたら、削除します)



閨秀のピアニストのイメージでしたが、CD売り場ではシューベルトの連弾曲集やベートーヴェンのソナタ集などのCDもありました。それも聴いてみたいと思っているところです。しかし、腕を命としているピアニストですから、腕は大丈夫なのだろうかなどと思ってしまいます、多くの人たちにサインして。私もしてもらった一人ですが。



音楽祭は明日まで。もう一度あの雰囲気の中でシューベルトを聴きに半券を持って行きたいと思っているのですが。追加公演がされるということですが、着くのが遅くなりそうで、入手はちょっと無理かな。

「熱狂の日」音楽祭見聞記

2008-05-04 23:14:46 | 音楽一般
去年に続いて、「熱狂の日」音楽祭に行きました。今年は4年目ですが、1・2年目は行きそびれてしまいました。今年のテーマはシューベルト。私は常々3番目に好きな作曲家と言っています。(1番目ベートーヴェン、2番目ブルックナー)CD時代になったからか、これまでなら演奏されなかったようなものまで、出してくれています。そのおかげで、ほとんどの作品を聴くことができます。ハイペリオンからのリート全集が、もう2・3年前になるでしょうか出た時は嬉しくてしようがありませんでした。合唱曲の全集なども出されました。もちろん交響曲、弦楽四重奏曲、教会音楽、などなどシューベルトの作品のうちの多くの分野の全集が出されています。膨大すぎるせいか、「シューベルト大全集」などはこれまで聞いていませんが、各分野の全集が揃えば、「シューベルト全集」と言っていいでしょう。
そのくらいシューベルト好きを自認しているのですから、すべてのコンサートを聴きたいくらいですが、そうもいきません。また珍しい作品もあり聴きたいなあと演奏の一覧表を眺めるばかりです。今日はロッシーニとシューベルトの作品を取り上げたものとやはり最初にシューベルトの舞曲を、その後にシュトラウスやブラームスの作品を取り上げたコンサートの2つを聴きました。もう少しネットなどで、早くチケットを購入しておけば良かったかなと思っています。来年はそのようにしたいと思っています。
この他にもいくつかの演奏を堪能しました。その中で、最後に聴いたギター・デュオ「いちむじん」の「セレナーデ」は本当によかったですね。良い演奏であってこそですが、このシューベルトの「セレナーデ」は本当に何度言っても言い足りないくらいの名曲です。ずっと以前、この曲を聴いてクラシック音楽を好きになった人がいることを聴いたことがあります。このような素晴らしい曲を蔵するクラシック音楽をまだまだそのような宝を捜し求めたいという気持ちは自然なことだと思います。この曲は、以前私もバイオリンで弾いたことがありますが、今日のようなギターでの演奏が合っているのではと追認した次第です。

再び、先祖を辿って

2008-05-01 10:04:57 | ベートーヴェン
ベートーヴェンの様々な伝記本を読んでみると、その祖先は15世紀末にフランドル地方に生活していた人物にまで辿れるということです。系図を作成してみると、この人は楽聖ベートーヴェンの9代前の人物であることがわかりました。名前は、ヤン・ファン・ベートーベン(Jan van Beethoven)と出ています。一世代を30年として、1770年生まれのベートーヴェンの9代前ですから、1500年生まれとなり、ほぼ当てはまると言っていいでしょうか。アクメ(acme)を40歳頃と考えると少しずれもありますが。(もちろん、このようなことは当然ありうることです。)
フランドルFlandre(英語では、フランダースFlanders)は、フランス北西端部からベルギー西部にかけての地方、と地名辞典に出ています。中心都市はリール(フランス領)・ヘント(ベルギー領)です。ヘントは、ベルギー西部の商工業都市で、仏名ガン(Gand)、英名ゲント(Ghent)で、13世紀に自由都市となり、ヨーロッパ最大の織物工業都市として繁栄をみました。ゴシック式大聖堂や市庁舎が16世紀にかけて建てられています。当時話されていた言語は、中期低地ドイツ語(現代のオランダ語の前身)でしょうか。
このヤンの孫がアールトです。その妻の名がヨジーネ・ヴァン・ヴレセラールとありますが、この女性は、1595年秋、「魔法使い(魔女)」として焼き殺されたとありました。この言葉からは、私などは、魔法の杖だか、箒だかに乗って空を飛ぶイメージを持っているので、少し驚きましたが、これらは後の研究者が知ったことでベートーヴェンには関係なかったことでしょう。
「魔女狩り」を事典(ブリタニカ)でみると、「12世紀末頃から、カトリックの異端者追放の手段として行われた宗教的迫害行為。・・・16~17世紀には西ヨーロッパ全域に、また新大陸アメリカに及んだ。したがってその裁判はきわめて残酷、不条理なもので魔女旋風はヨーロッパを暗黒化し」と出ています。おそらくは、この女性は当時として進んだ考えの持ち主だったのかも知れません。
この夫妻の孫がマルクで、ルーベン(Leuven)(仏語ルーヴァンLouvain)に移り住みます。その子がコルネリウスで、メケレン(Mechelen)(仏語マリーヌ(Malines))にやはり移り住みます。その孫が、このメケレンに生まれた我が楽聖の祖父にあたるルイス・ファン・ベートーベン(1712-73.12.23)です。彼はあることから、21歳の時1732年にボンに移り住みます。ここでは、ルートヴィヒと名乗ったことでしょう。その翌年1733年9月7日、彼はマリア・ヨゼファ・ポールと結婚し、3人の子が生まれましたが、1人だけが成人しました。これが楽聖の父ヨハンです。祖父ルートヴィヒは、バス歌手で、1763年には楽団指揮者になるほどの才能を持った人物で、ベートーヴェンは、ウィーンに移り住んでからもその肖像画を取り寄せるほどの尊敬すべき人でした。祖父ルートヴィヒ以前には、音楽家は見当たらず、彼から音楽の血筋は始まったようです。妻のマリア・ヨゼファ・ポールは、ケルンの施療院でアルコール中毒で死んだということです。父ヨハン、それにベートーヴェン自身のアルコール好きは、この祖母から来ているのでしょうか。一人成人した第3子のヨハン(1740頃―。12.18)は、1767年9月12日に父ルートヴィヒの反対を受けながら結婚したのが、楽聖の母親にあたるマリア・マグダレーナ・ケフェリヒ(1746-87.7.17)です。エーレンブライトシュタインに生まれた、料理人の娘であるこの女性との結婚が反対されたのはおそらくマリア・マグダレーナが寡婦だったからでしょう。彼女は、19歳の時に、ヨハン・ライムという宮廷の使用人と結婚しましたが、短い結婚生活で夫と死別しました(1765年)。その2年後に、ヨハンと結婚したことになります。母マリア・マグダレーナは、ベートーヴェンは「母は善良な、愛すべき、私の最も良い友人でした。」と亡くなった後、手紙で書いています。私は、ベートーヴェンは祖父からその音楽家としての才能を、またこの母親から人間の優しさを受け継いだのだと考えます。そしてそれがあのような人類史に残る偉大な作品を生み出したのです。母親のあり方は、大きなものだと思う次第です。