西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

耳の病と「ハイリゲンシュタットの遺書」1

2008-02-27 11:06:56 | ベートーヴェン
ベートーヴェンは、晩年にはほとんど耳が聞こえないという有様だった。いつ頃から耳の病があったのだろう。ベートーヴェンは、手紙の中で次のように述べている。
「私は、君が私のそばにいてくれたらと思う。私は非常に不幸なのだ。私の一番大切な聴覚がとても弱くなってしまったのだ。君がこちらにいるころからその兆候があった。だが、それを隠していたのだ。その後だんだん悪化してきた。・・・私の最も盛んな時期は自分の才能と力の許す限りのことをやり遂げることなく過ぎてしまうだろう。・・・私はこの不幸を超越し立ち上がろうと考える。しかし、どうしたら私にそれができるだろう。」(1801年6月1日付のカール・アメンダ宛て)アメンダ(1771―1836)は神学と音楽を大学で学び、ロプコヴィッツ侯爵の子供たちの家庭教師となり(モーツァルトの子供の教育に当たったこともあるという)、侯爵を通じてベートーヴェンと知り合った。互いに尊敬と信頼を寄せ合う仲となった。彼がウィーンに滞在したのは1798年から翌年までの短い期間だったが、故郷のクールランド(現在のラトヴィア)に帰ってからも文通を続けた。
もう一人、故郷ボン時代からの友人で医師であるフランツ・ゲルハルト・ウェーゲラー(1765―1848)にも同じ月の29日付の手紙で「3年前から私の耳はだんだん聞こえなくなってきた。」と書き、今はその妻となったベートーヴェンにとって初恋の人と言われる、かつてわが家のように家に通って心を通わしていたブロイニング家の長女エレオノーレにも秘密にしておいて欲しいと頼んでいる。
以上の手紙の内容からするとベートーヴェンが耳の不調を自覚するようになったのは1798年の夏頃だろうか。
(続く)

第三交響曲《英雄》とナポレオン

2008-02-03 17:34:35 | ベートーヴェン
第三交響曲《英雄》が作曲された動機は、1797年10月17日のカンポ・フォルミオの和により翌年98年2月5日にフランスの全権としてベルナドット将軍がウィーンに着任したことによるという。彼または彼の周辺の者からナポレオンのことを聞き、彼に捧げるためにこの《英雄》交響曲を作曲したのは事実であろう。その時、どのような話の内容だったのか、なぜ故郷のボンを踏みにじり、現在いるオーストリアを敵として戦い、敗北に追い込んだ仏軍の総帥たるナポレオンに、彼の第1期から第2期への創作の大きな変貌・転換点とも言うべきこれまでにない規模の作品を捧げようと考えたのか、私は今もって疑問に思うことがある。ボン大学で新しい思想に触れた、これはよい、そして時代の流れというものがあることも知ったであろう。しかし敵国の将である。フランス革命では、オーストリアから将来ルイ16世の妃になるべく嫁入りした、マリア・テレジアの娘マリー・アントアネットがギロチンにかけられ処刑されたことは聞いていたであろう。その後の革命の収束までにおける様々な非人間的行為も知っていたであろう。ナポレオンはそのようなことをすべて包み込んで、新しい政治体制=共和政体を築くべき人物として捉えていたのだろうか。1802年にナポレオンは終身統領に就任した。ベートーヴェンの耳には届いていたのだろうか。第三交響曲は1803年に作曲を開始したという。そして翌04年春に完成した。ナポレオンはこの年5月18日に皇帝に就任し、ナポレオン1世となった。ベートーヴェンはすぐさまこの報を聞き、この交響曲の表紙にある「ボナパルト」との献辞を強くペンで消し楽譜を床に投げつけたということである。ベートーヴェンは裏切られたと強く思ったことだろう。当時ベートーヴェンにピアノを教わっていたフェルディナント・リースは、「奴もまた、ただの人間に過ぎなかったのか。奴もまた、すべての人間の権利を踏みにじるだろう。そして、自分の野心を満たすために、すべての人の上に立ち、暴君となるだろう。」とのベートーヴェンの言葉を伝えている。この作品は、翌年05年4月7日に公開初演され、ロプコヴィッツ侯爵に献呈されたのだった。
時は移り、1812年。この年の夏、ベートーヴェンは前年に引き続き保養地テープリッツに滞在する(7月5日着)。一方、ナポレオンはこの年の6月、45万3000の兵力を伴い、ネマン川を渡りロシア侵略を開始した。
ウィーンとベルリンのほぼ中間点、ボヘミアの中立地テープリッツにはドイツやオーストリアから多くの王侯貴族が保養・社交のために参集していた。フランツ皇帝、その娘で今やナポレオン1世の皇后であるマリー・ルイーズ、オーストリアの皇后、ザクセン王、ザクセン・ワイマール公、ザクセンのマクシミリアン侯などなどで、恰も対ナポレオン外交サミットの観を呈していたということだ。ベートーヴェンにとっては、このテープリッツ滞在時に、文豪ゲーテに会う機会を持った。ゲーテとも親しいベッティーナ・ブレンターノを通して実現したのだろう。7月19日から21日にかけての3日間のことだという。実はもう一つ、大きな出来事があった。それはゲーテに会う前のことで、7月6日・7日に書かれた所謂「不滅の恋人への手紙」である。そしてベートーヴェンは9月末にウィーンに戻る。その後下の弟ヨハンがいかがわしい女と結婚しそうだと言うことを聞いて、ヨハンの住むリンツに行くが、ヨハンはその女と結婚してしまう。11月のことである。ベートーヴェンはこの頃、交響曲第8番を作曲していた。一方、ナポレオンは9月にモスクワに入城するが、焦土作戦に遭い、なすすべもなく、10月末にはモスクワ退却を開始し、再びネマン川にたどり着いたものは1万足らずであったという。ナポレオン軍は翌年13年10月のライプチヒの戦いで、決定的敗北を喫し、その翌14年には帝位を退き、エルバ島へと流された。その後、ウィーン会議華やかなりし頃の15年3月、エルバ島を脱出したナポレオンはパリ入城を果たし、ウィーンは大慌てとなった。以前「ウィーン会議」(9月18日の項)に述べた通りである。その後、ワーテルローの戦いで再度敗れ、ナポレオンは孤島セントヘレナへと流され、1821年5月5日にそこで没するのであった。その死の知らせが伝わった時、ベートーヴェンは、私はすでにそれを書いたと言った、という話がある。(勿論、《英雄》交響曲の第2楽章のことである。)それから3年後、1824年のベートーヴェンの言葉が伝えられている。「ナポレオンか! 以前、私は彼に我慢ならなかった。が今では私の考えは全く変わった。」というのがそれである。それ以外には、言葉が伝えられていない。どう変わったのか、知りたい所であるが、ナポレオンが何らかの歴史上における貢献をなしたと考えたのであろうか。

今日は、ピアノ・ソナタの第2・4番を聴きました。やはりケンプの演奏ですが、今回はCDのもので、その前に1番がありましたが、トラック5から最後まで聴きました。




ピアノ・ソナタ

2008-02-02 21:02:46 | ベートーヴェン
ベートーヴェンには、32のピアノ・ソナタがあります。作品番号がついたのが32あるということで、他にも3曲の選帝侯ソナタなどいくつかのピアノ・ソナタ作品があります。しかし注目すべきはベートーヴェン自身が作品番号を打った作品2の3曲のピアノ・ソナタからとなるでしょう。しかしここにやっかいな問題があります。32曲のうち、第19番と第20番のピアノ・ソナタは作曲者自身出版する意図のない練習用の作品と看做されているのですが、ベートーヴェンのすぐ下の弟のカールが利益を得ようと兄に無断で出版社に売り渡してしまったのです。この2つの作品は共に2つの楽章しかなく、作曲時期は作品2の3曲が完成された1795年と作品7の第4番のピアノ・ソナタの完成の1797年の間の1796年頃の作曲と考えられています。ですから、本来の1曲ごとに高みへと上り詰めるベートーヴェンのピアノ・ソナタを知るにはこの2曲は省いていいように思いますが、ほとんどすべてのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の完成者は勿論これを省いていません。この2曲についていうと、20番の方が先に完成したということです。また20番の第2楽章は後に作品20の七重奏曲に転用されています。
30曲のベートーヴェン自身が出版したピアノ・ソナタは、作曲者のその作品に込めた精神性のあり方の段階を知る上で、交響曲・弦楽四重奏曲とともに論じられるべき3本柱の一つであることは言うまでもありません。先にベートーヴェンの作品の発展段階を全部で4期に分けることを述べました。再掲すると、
ボン時代(1782-92)
第1期(1792-1802)
第2期(1803-14)
第3期(1815-27)
です。
ピアノ・ソナタの作品群を分けると、多くの評者は、作品2の1の第1番から作品22の第11番までを第1期の作品、作品26の第12番から作品90の第27番までを第2期、そして作品101の第28番から最後のピアノ・ソナタである作品111の第32番を第3期の作品としています。ここで第12番のソナタから第17番のソナタまでは年代的には1801・02年に完成を見ていますから、区分分けからすると、第1期に属すると言わなければなりませんが、ピアノ・ソナタこそベートーヴェンの思索を雄弁に語るものはないと考えられ、この分野では先行していたと考えていいのではないかと思います。
30曲のピアノ・ソナタはまさに人類の生んだ一人の偉大な音楽家の思索の足跡を如実に辿れるものとしていくら重要視してもしすぎることはないであろう。
久しぶりに今日、そのピアノ・ソナタ群を少し聴いた。ウィルヘルム・ケンプによる演奏で、第1・12・19・20の4曲である。レコードのAB両面を聴いたと言うことである。このあとも様々な演奏家によるピアノ・ソナタを聴いていきたいと思う。