ベートーヴェンは、晩年にはほとんど耳が聞こえないという有様だった。いつ頃から耳の病があったのだろう。ベートーヴェンは、手紙の中で次のように述べている。
「私は、君が私のそばにいてくれたらと思う。私は非常に不幸なのだ。私の一番大切な聴覚がとても弱くなってしまったのだ。君がこちらにいるころからその兆候があった。だが、それを隠していたのだ。その後だんだん悪化してきた。・・・私の最も盛んな時期は自分の才能と力の許す限りのことをやり遂げることなく過ぎてしまうだろう。・・・私はこの不幸を超越し立ち上がろうと考える。しかし、どうしたら私にそれができるだろう。」(1801年6月1日付のカール・アメンダ宛て)アメンダ(1771―1836)は神学と音楽を大学で学び、ロプコヴィッツ侯爵の子供たちの家庭教師となり(モーツァルトの子供の教育に当たったこともあるという)、侯爵を通じてベートーヴェンと知り合った。互いに尊敬と信頼を寄せ合う仲となった。彼がウィーンに滞在したのは1798年から翌年までの短い期間だったが、故郷のクールランド(現在のラトヴィア)に帰ってからも文通を続けた。
もう一人、故郷ボン時代からの友人で医師であるフランツ・ゲルハルト・ウェーゲラー(1765―1848)にも同じ月の29日付の手紙で「3年前から私の耳はだんだん聞こえなくなってきた。」と書き、今はその妻となったベートーヴェンにとって初恋の人と言われる、かつてわが家のように家に通って心を通わしていたブロイニング家の長女エレオノーレにも秘密にしておいて欲しいと頼んでいる。
以上の手紙の内容からするとベートーヴェンが耳の不調を自覚するようになったのは1798年の夏頃だろうか。
(続く)
「私は、君が私のそばにいてくれたらと思う。私は非常に不幸なのだ。私の一番大切な聴覚がとても弱くなってしまったのだ。君がこちらにいるころからその兆候があった。だが、それを隠していたのだ。その後だんだん悪化してきた。・・・私の最も盛んな時期は自分の才能と力の許す限りのことをやり遂げることなく過ぎてしまうだろう。・・・私はこの不幸を超越し立ち上がろうと考える。しかし、どうしたら私にそれができるだろう。」(1801年6月1日付のカール・アメンダ宛て)アメンダ(1771―1836)は神学と音楽を大学で学び、ロプコヴィッツ侯爵の子供たちの家庭教師となり(モーツァルトの子供の教育に当たったこともあるという)、侯爵を通じてベートーヴェンと知り合った。互いに尊敬と信頼を寄せ合う仲となった。彼がウィーンに滞在したのは1798年から翌年までの短い期間だったが、故郷のクールランド(現在のラトヴィア)に帰ってからも文通を続けた。
もう一人、故郷ボン時代からの友人で医師であるフランツ・ゲルハルト・ウェーゲラー(1765―1848)にも同じ月の29日付の手紙で「3年前から私の耳はだんだん聞こえなくなってきた。」と書き、今はその妻となったベートーヴェンにとって初恋の人と言われる、かつてわが家のように家に通って心を通わしていたブロイニング家の長女エレオノーレにも秘密にしておいて欲しいと頼んでいる。
以上の手紙の内容からするとベートーヴェンが耳の不調を自覚するようになったのは1798年の夏頃だろうか。
(続く)