西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

フランツ・リスト

2007-07-31 07:04:26 | ロマン派
今日は、ハンガリーの作曲家フランツ・リストが亡くなった日です(1886年)。
リストは、ピアノの巨匠として有名ですが、作曲家としても多方面に渡り膨大な作品を残しています。手元にある音楽家の伝記と作品を論じた本によると、作品表はベートーベンが27ページに対してリストは55ページとなっています。そのうち約半数の27ページがピアノ曲(連弾・2台のための、を含む)に当てられています。ピアノの詩人と言われるショパンは管弦楽曲は、有名な2つのピアノ協奏曲を含め数曲書いただけですが、リストはこの分野でも数多くの作品を書いています。その中でも特筆すべきは、交響詩でしょう。リストが開拓した新しい音楽分野と言っていいでしょう。音楽辞典によると、13曲ほど書いています。この分野は後にR.シュトラウスが引き継ぎ、大成します。他に、大規模な2曲のオラトリオをはじめ、宗教音楽の分野でも多くの作品を残しています。他に合唱曲やリートの分野でも少なからぬ数の作品を書いています。だから到底リストについては、その一部を聴いて論ずるにしか過ぎないのですが、私はリストの作品から好みの作品を挙げるとすると、ピアノ協奏曲第1番、交響詩「前奏曲」、ハンガリー狂詩曲第2番(管弦楽版)、「愛の夢」第3番、「巡礼の年」ということになるでしょうか。誰もが挙げるような有名作品ばかりですが、これらはリストの多方面に渡る特徴をよく表しているのではないかと思いますが、どうでしょうか。
ある時、リストのピアノ曲の解説で、その晩年の作品には、未来の、20世紀音楽に通じるものがあるという批評を聞いたことがありますが、私にはまだそのことが掴めていません。私はまだリストについてはほとんど知らないようです。リストは、「音楽とは、本質的に宗教的なものである」という言葉を述べているそうです。この言葉の真意を掴むべくこれからも彼の音楽に耳を傾けたいと思います。

フレデリック・ショパン

2007-07-30 07:06:40 | ロマン派
今日は、フレデリック・ショパンがウィーンに到着し、演奏会に出演した日です(1829年)。
1810年生まれのショパンは、19歳になっていた。29年の7月に、ワルシャワの音楽院を卒業したショパンは、「際立った才能の持ち主」との評価を得、父親は息子をウィーンへと飛び立たせる。ベートーベンが亡くなってから2年、シューベルトが亡くなった翌年に当たるが、ウィーンは依然パリと並ぶ音楽の都であることには変わりなかった。ここで演奏したのは、自作の「ドン・ジョヴァンニの『お手をどうぞ』による変奏曲」と「演奏会用ロンド『クラコーヴィヤク』」の2曲で管弦楽の伴奏を持つピアノ曲だった。2回の演奏会はともに好感を持って迎えられた。幸運にも、演奏会の成功は、自作の出版を齎し、気を良くして、8月半ばウィーンを立ち、プラハ、ドレスデンを通過し、ワルシャワへと戻った。
この1829年は、ショパンにとってもポーランドにとっても大きな意味を持つ年だった。ナポレオンの敗退後、ウィーン会議により、ポーランドはロシア・プロイセン・オーストリアにより再度分割され、ワルシャワ大公国の大部分をロシアが占領し、「ポーランド王国」を立てたが、ロシア皇帝ニコライ1世が王位に就いた。ポーランドはロシアに併合されたわけだ。ロシアの支配を快く思わない愛国的ポーランド人は秘密結社を組織し、29年の春には、ワルシャワに革命の気運が起こった。そして30年になると、7月にパリで起こった七月革命とその余波を受けたベルギーのオランダからの独立があり、これらはポーランドの革命運動を激しく揺さぶった。11月蜂起がそれである。翌31年1月、議会はニコライ1世の退位を宣言するにいたり、独立したかに見えたが、秋には、ロシア軍のワルシャワ軍事占領により、ポーランド王国は廃止され、ロシアの1州となった。ショパンは、この年、ウィーンからザルツブルク、ミュンヘン、シュトゥットガルトと旅行したが、シュトゥットガルトでロシア軍によるワルシャワ陥落の報に接した。この頃、ショパンは作品10の練習曲を作曲していたが、その12のハ短調は激しい感情に見舞われ産み出された作品であることが聴く人には分かるであろう。これは一般に「革命」の名で呼ばれている。

ペーター・シュライアー

2007-07-29 09:20:51 | 音楽一般
今日は、ドイツのテノール歌手ペーター・シュライアーの生誕日です(1935年)。
私が、最初にシュライアーの歌声に接したのは、カラヤン指揮の「マイスタージンガー」だったでしょうか、それともベームの指揮する「トリスタンとイゾルデ」だったでしょうか。その頃だったと思います。もちろんドイツ・リートの分野でも多方面に渡る録音を残していて、私は特に彼のシューマンが大好きです。「ミルテの花」からの数曲を含んだレコードは、彼の声の質とマッチした選曲と思われ、シューマン歌曲のレコードとして第1に推したい名盤と思っています。彼のその声から受ける印象は、とても誠実な人柄だということです。だから、当然のことながら、バッハなどの宗教曲にも、ヘフリガーと同様、なくてはならない人のように思われます。実際、すぐれた録音を遺しています。彼は指揮者としても活躍し、バッハの世俗カンタータを多く録音していますが、宗教カンタータでなく世俗カンタータであるのが意外に思ったものでしたが、これはレコード会社の考えからきたのでしょうか。
私は、もう30年近く前のことになりますが、シュライアーさんに会い、直接サインを貰いました。ウェーバーの歌曲集の発売を記念してのレコード店でのことです。カラヤン氏の時と違い、話しかけてはいけないということも言われなかったので、覚えたてのドイツ語を一言言ったら、顔を向けてくれ表情をくずしたことを今でも思い出します。

画像は、シュライアーさんのサインの付いた「ウェーバー歌曲集」のレコード・ジャケット。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

2007-07-28 08:59:46 | バロック
今日は、ドイツの作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハの亡くなった日です(1750年)。
大バッハについては、ベートーベンの言葉「バッハは、小川(バッハ)ではなく、大海(メーァ)である」がよく音楽史における彼の評価を表しているように思います。しかしそのバッハが亡くなる前年には、バッハ死去の場合の後任のトマス・カントル職を決める試験が行われたということだ。というのは、バッハは晩年そこひを患い、視力を失いかけていてほとんど仕事が出来ない状態だったからである。(小さい時に暗い所で、楽譜を長時間見ていたのが原因とされている。)それにしてもまだ健在の時に後任を決めようとするとは!翌年になり、2度イギリスの眼科医により手術を受けるが、効果はなかった。バッハは、この手術で体力を消耗してしまったということだ。この眼科医は後にヘンデルの手術も行ったがこの時も失敗している。音楽史上に名を残す音楽家の手術に2度も失敗したのである。
バッハ晩年の大作「音楽の捧げ物」と「フーガの技法」は高貴な作品である。この2作で十分に音楽史に名を残すと言っても良いのでは。後者は残念ながら、未完に終わった。失明のために筆を進ませることができなかったのである。楽譜の最後に、「このフーガで、BACHの名が対位主題に持ち込まれたところで、作曲者は死去した」と次男のエマヌエルが書いている。この作品は楽器が指定されていないことでも知られている。今では、チェンバロ、オルガン、室内楽、弦楽四重奏などで演奏され、我々は聴くことができるがバッハの意図したのはどれだったのだろう。
バッハは、死後忘れられ、1829年のメンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」の復活上演を持ってバッハ復活の年と言われている。それはその通りであるが、実はモーツァルトにもベートーベンにもバッハに刺激を受けた作品があることを忘れてはならない。モーツァルトは、平均律から5曲を弦楽四重奏曲に編曲している。ベートーベンも同じく平均律中の作品を弦楽五重奏曲に編曲している。しかしメンデルスゾーンによるバッハ復活は、その後の音楽家たちに大きな刺激になったことは事実である。シューマン、ショパン、ブラームス、マーラー、20世紀音楽の旗手シェーンベルクにさえも、その影響は大きいことがわかる。そのような意味で、ベートーベンが言った「大海」の意味は全くその通りなのであった。

エンリケ・グラナドス

2007-07-27 08:27:56 | 音楽一般
今日は、スペインの作曲家エンリケ・グラナドスの生誕日です(1867年)。
グラナドスは、歌劇をいくつか書いていますが、ピアノ曲と歌曲がとりわけ有名です。それらはスペイン民族色が色濃く出た作品と言っていいでしょう。スペインは、どのような国かを知るためには彼の「スペイン舞曲集」や「スペイン民謡による小品集」それと「昔風のスペインの歌曲集」を聞くのがよいように思われます。グラナドスはカタルーニャ地方のレリダの生まれですが、スペインのいろいろな地方の民族的特色が作品には表現されています。私は、西洋の音楽を聴く時、各国の民族的・伝統的な旋律に触れられることは素晴らしい・楽しみなことの一つです。そこにはどれが優れているとかということはありません。イギリス・ロシア・ハンガリー、など(すべてを挙げなくてはなりませんが)の伝統的音楽を聴く時、私はその国の自然・言語・国民性などを思い、それぞれに興味が湧いてきます。そしてさまざまなこと、例えば歴史・言語・風土など、を知りたく思います。そのようなことから、単純に世界は一つ的な考えは、私の好む所ではありません。
スペインを代表すると言ってよい音楽家のグラナドスですが、彼の最後は、同じくスペインを代表する画家ゴヤに纏わる彼の歌劇「ゴイェスカス」のニューヨークのメトロポリタン歌劇場での初演の後、突然訪れました。第一次世界大戦中のことでした。(3月24日の項を読んでいただければ幸いです)


ワーグナー・舞台神聖祝典劇「パルジファル」

2007-07-26 08:02:34 | オペラ
今日は、ワーグナーの舞台神聖祝典劇「パルジファル」が初演された日です(1882年、バイロイト)。
ワーグナーの最後を飾るオペラで、そこに込められた意図はなかなか分からないように思います。私もいろいろ勉強しなくてはとこのオペラに接するたびに思います。
第1幕終わりの合唱は圧倒的に素晴らしいものだと思います。また第3幕の「聖金曜日の奇蹟」も。これらに接し、なおかつワーグナーの偉大さを理解しないものがいるならば私はそれを悪意からとしか取れません。ワーグナーは、この偉大なオペラ(私にはまだ十分にその全貌、意図するところをつかめていませんが)を我々後世の人類に残してくれて、70歳でイタリアのヴェネツィアで亡くなりました。最初にヨーロッパ旅行をした時、サン・マルコ広場に面したお店にワーグナーがよく通ったということで、レリーフが飾られていたのを見ました。いつか画像として貼り付けたいと思っています。

2007-07-25 08:12:13 | 音楽一般
日本のアルプス山脈はもちろんヨーロッパのそれから取ったのであろうが、このヨーロッパ・アルプスを歌ったものが、R.シュトラウスの「アルプス交響曲」である。交響曲となっているが、交響詩と分類していいだろう。彼の交響詩の掉尾を飾るものだ。「英雄の生涯」「ツァラトゥストラ」ももちろん素晴らしいが、雄大さではやはりこれに勝るものはないのではないか。主題としているものがアルプスだけあって。今、ケンペによる演奏を聴いているが、「夜」「日の出」と始まるこの曲はいくつかの部分に分かれている。今のCDの時代はこれがとても便利である。22のトラック番号がついている。だからいつでも聞きたいところを聞けるのだ。もちろん最初から聞くべきものであるが、ちょっとこの部分を聞いて見たいというのができるのだ。最後まで聞けないので、次はやはり雄大な山頂からの眺めを味わってみたい。「山頂にて」に飛んでみよう。




ジュゼッペ・ディ・ステファノ

2007-07-24 08:31:12 | 音楽一般
今日は、イタリアのテノール歌手ジュゼッペ・ディ・ステファノの生誕日です(1921年)。
今、ヴェルディの「椿姫」から彼の歌唱を3曲聴きました。イタリア民謡を歌ったものをこれまで多く聴いてきましたが、オペラでもその美声を発揮しているように思います。3大テノールはもちろん素晴らしいですが、ステファノの歌ったカンツォーネは、イタリアの風土からの歌声のように響いてきます。サンタ・ルチア、オー・ソレ・ミオ、帰れフィレンツェへ、など、私は彼の歌う昔のLP盤のイタリア民謡をまた聴いて見たくなりました。



ドメニコ・スカルラッティ

2007-07-23 09:21:53 | バロック
今日は、イタリア・ナポリ楽派の作曲家ドメニコ・スカルラッティの亡くなった日です(1757年)。
ドメニコ・スカルラッティは、同じくナポリ楽派の創始者であるアレッサンドロ・スカルラッティの子で、バロック後期時代の作曲家です。彼のソナタは、チェンバロ用の練習曲と言ってよいものですが、何と500曲を越える膨大なものです。CD時代の今日、私たちは幸運にもこれらすべてを聴くこともできますが、私は今のところ所持していません。彼のごく一部を聴くだけです。彼のこの膨大なソナタ集は、ロココ趣味にも通じるということですが、いつか全貌を聴ければと思っています。
彼の生年の1685年ですが、この年は歴史に残る音楽家が2人誕生しています。大バッハとヘンデルです。そしてバッハの亡くなったのは、1750年。1600年ごろ始まったバロック時代は、約50年ごとに、初期・中期・後期(=盛期)と様相を変えて行きますが、その後期の区切れ目がこの年に当たります。もちろんちょうどの年数で区切られるはずもないのですが、大まかに捉えた場合は、このようになると言ってよいでしょう。ついでに言うと、バロックの前のルネサンス時代も同様に、1450年頃スタートし、50年ごとに、初期・中期・後期と移り変わり、1600年頃終焉を向かえ、バロック時代へと入っていきます。とても覚えやすいです。1750年のあとは、美術で言うならば、ロココ時代となるのでしょうが、音楽上はあまりこの言葉は使われていないように思います。代わりに古典派の時代などと呼ばれ、次はロマン派の時代と音楽史上偉大な19世紀を迎えることになります。

ヘルマン・プライ

2007-07-22 18:53:33 | 音楽一般
今日は、バリトン歌手ヘルマン・プライが亡くなった日です(1998年)。
ヘルマン・プライは、ドイツ音楽を中心に様々な分野で活躍していますが、シューベルトのリートに対する情熱が一番プライの本性を表しているのではないかと思う。フィッシャー・ディースカウと比べられると言っていいだろう。両者とも数多くのシューベルトのリートを歌っているが、プライが遺してくれたものに、特別感謝したいものがある。それは、シューベルトのリートを後の人がオーケストラ用に編曲したもので歌ったものだ。レコードで2枚出している。ネットで見ると、日本のオケとも演奏しているが、ずいぶん前にドイツの楽団と録音したものだ。私は、この中で、シューベルトのリートが、リスト、ブラームス、モットル、ワインガルトナー、レーガーなどの音楽家に数多く編曲されていることを始めて知った。シューベルトの音楽がいかに後世の作曲家などに大きな影響を与えたかが分かるように思う。私は、やはりその中の「セレナーデ」を第一に押したい。この曲は、ピアノ伴奏でももちろん最高の歌曲であることは変わりないが、オーケストラ伴奏で聴くのもとても良いものだ。他の歌手はこのような試みにチャレンジしていないのではと思う。これら2枚のレコードは私にとって資料的にもとても貴重なものなのである。