怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

古代史の謎は「海路」で解ける」長野正孝

2016-11-11 08:58:56 | 
邪馬台国から倭の五王、そして継体天皇ぐらいまでの古代史については百花繚乱というか諸説さまざまあって何が正しいかよくわからないまま、古代史の学者、考古学者だけでなくいろいろな人が自分の地形とか植物とかの専門分野から推論を出してしています。
長野正孝さんも専門学者ではなく元国土交通省の港湾技術研究所の部長さんですが、船と航路からアプローチしている視点は新鮮です。
日本と朝鮮半島は古代から頻繁な往来があったのですが、その時にはどんな船を使いどんな航路で行っていたのでしょうか。
邪馬台国の頃は日本にあったのは小さな刳り船で、動力は基本は人力で漕ぐ。となると見える範囲の島伝いに行くしかなく、人間が漕げる範囲は距離にして2~30キロがやっと。その範囲で水と食料と体力を補給できる港が整備されていないといけない。簡単な帆はあったにしても風待ち、天気待ちで気候のいい時を選んで行くしかない。
そう考えると、日本国内の水運は日本海側が中心となる。冬は天候が悪くてとても駄目でも夏は穏やかで海岸沿いに2~30キロ行けば休める港がある。今でも地名に津とか泊とかいう地名が散見されている。
日本海側と比べると瀬戸内海は潮流が速くて瀬戸と名のつくところが多い。昔は今のような広島や岡山に平野はなく港となるような場所はなかったので手漕ぎでは航行が不可能だったはず。
となると神武天皇の東征は不可能だった…
瀬戸内海が航路して整備されるのは雄略天皇が啓開(初めて聞きましたが障害物を取り除く港を作り補給できるようにして航路として整備すること)してからとか。
どうやら著者のイメージでは最初は九州倭国が朝鮮、中国と交流していて、そこから日本海沿いに伝わり、5世紀には敦賀を中心にした敦賀・湖北王国に応神帝が君臨していた。
雄略帝になると瀬戸内海を九州からと難波からと両面から徐々に制覇していった。
継体帝の時に近畿水回廊を整備して瀬戸内と結びついて、ここで大和王朝と結びついたということ。ここまでは歴代天皇は大和とは無縁ということとなり、こうなると日本の天皇の起源は継体帝となるのか。
船の構造の変遷から航路の整備の状況まで技術的に俯瞰してあって、その面では非常に斬新な議論になっています。
ただ、考古学知見とうまく整合するのか、文献的にはどうなのか、異論も多いだろうし、一つの見方としか言えないのでしょうが、考えを広めるためには一読の価値ありです。
話が前後して整理されていないと思うところもあり、これぐらいは常識と思っているのでしょうが、歴代の天皇が記してある年表とか、地名がわかるようにもう少し古代の地図とかを大きく載せていただくとよりわかりやすくなったのではないでしょうか。学術書ではなくて新書で一般向けに書いたのでしょうからね。
コメント
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