一応肩書としてはエッセイストの酒井さん。冒頭ですべてのエッセイは自慢話と断言しています。
エッセイを生業としているのですが、それだけに自慢好きな人間であり、他人の自慢には敏感という。
紫式部が日記の中で清少納言を悪し様に評しているのも、自分が自慢したくて仕方ないからこそ自慢話が鼻についてしまうというのは分かる気がします。
この本の中でもエッセイストの大先輩というべき兼好法師の徒然草が多々取り上げられているのですが、兼好法師自身も自慢が満載。でもあからさまに自慢していることが分かると恥ずかしい。
でも最近は自慢と恥の感覚がかなり違ってきたみたいで、その辺のあれこれを縷々書いているのですが、通読して思うのは男と女の恥の感覚の違い。女性はこんな感覚だったのかと言うことを齢70にして目から鱗では、今更と言うか手遅れなんですけどね。
戦後ルース・ベネディクトが「菊と刀」を著し、日本人の行動規範のもとになっているのは「恥の感覚」と喝破したのだが、その恥の感覚も時代とともに大きく変わってきた。
最近ではSNSによってその感覚が激変したと書いてあるのだが、それについて書いた「中年とSNS」と「若者とSNS」は酒井さんの知らないうちに大変な勢いで拡散して、バズったことになる。それだけなるほどと思った人が多かったのだろうが、酒井さん自身はSNSをやっていないので状況がわからないまま大いに戸惑ったとか。
ここで取り上げられているSNSはフェイスブックなのですが、不特定多数の見えない人に対してエッセイを書くことについては何ら恥しくないのに特定少数にすることは躊躇すると言うか恥しい。ストリッパーが人前で裸になることは仕事なのですが、それは不特定多数の観客に対してのもの。自分の友人知人といった特定少数の前では恥ずかしい。同じようなことは確か井上ひさしもどこかで書いていて、ストリッパーも楽屋で着替える時には恥ずかしいので見られたくないとか。ファイスブックは自分の知り合いに繋がるので、自分の友人知人の前で裸になると同じような行為と思われて恥ずかしいはずなのですが、ファイスブックでは友人知人が色々なことをアップしている。最初のうちは旧交を温めて盛り上がっていたのですが、他人の知らずにいた精神生活を見てしまい恥ずかしさを感じてくる。今まで自慢欲求を封印してきた中年世代がフェイスブックの中で恥ずかしげもなく欲求を解放している。もっとも日本人の恥の感覚は強固で、その自慢バブルもやがて沈静化してきました。
因みに今どきの若者はネット社会で生きていて「見られている」ことを絶えず自意識に持っている。日本人は古来「親しき仲に言葉は不要」という路線で来ていたはずなのに、若者は「言葉にしなければ何事も伝わらない」という認識で、親や友人にやたら感謝の言葉を発表している。昭和世代としては結婚式とか葬式以外の場で子どもがあからさまに親に感謝している姿は恥ずかしい。
ところで私もこんなブログを書いていますし、フェイスブックも適宜アップしています。一応ブログはほとんど分かっている人には分かっているのですが、匿名で登場人物も実名は使っていません。フェイスブックの方は自己紹介で実名も出していますのでそれなりに気を遣っているはずですが、どちらもあまり自慢話をしている自覚はないながら、それっぽいところもあって、ちょっと歪んだ形での自慢話なのでしょうか。どうして書いているのかと言われるとあまり明確な答えがないのですけど、しいて言えば日記代わりの「ボケ防止」と答えています。時折心の片隅でこれはどう書いてアップしようかと考えることは脳トレになるのではと思っているのですけど。それでもフェイスブックでの投稿にいいねがたくさんつくとにんまりしてしまい、今度はもっと受けるように書いてみようとなるので、承認欲求が満たされることを求めているのは確かです。
この他にも恥の感覚をキーワードにして、鋭く今の日本の世情を分析しているのですが、これが面白い。結婚相手では小倉千加子さんの「結婚とは、男のカネと女のカオの交換である」という言葉を引きつつお金持ちと美人の結婚についての必然性を述べていますが、逆の女性のカネに恋するイケメンというパターンは難しい。自由恋愛、自由結婚の世では「よくあんなのを選んで一緒にいるよね」と言われても自己責任。夫婦になると言うことは他人から見たら「恥ずかしい」とされる相手の部分をも、自分の中に取り込んでいくこと。夫婦が似てくるとはそう言うことで、それは総じてうまく行く夫婦…
そう言われると我が身を振り返ってしまいますが、まあ、長くいると価値観が似てくるのは取り込まれてしまったと思いつつ何とか続いている理由か?
死に支度では人は死ぬとひたすら見られる立場になると言うのですが、死ぬ前はあれこれ恥ずかしいことが気になって整理して処分なりしようと思う人が多いのですが、死んだらどんなに恥ずかしいことを知られても蘇ることはないのですから、残されたものが勝手にしてくださいと言うのが今のところ自分の考え。それでも残されたものに迷惑はなることがないようにボケる前には整理しなくてはとも思っていますけど、それこそ自己責任で勝手にしなさいですね。
小林聡美とのボーナス対談もついて300ページにも満たない文庫本ですけどいろいろ考えさせられたのはさすが酒井さん。恥の感覚は形を変えつつ日本人の基底にしっかり残っています。
エッセイを生業としているのですが、それだけに自慢好きな人間であり、他人の自慢には敏感という。
紫式部が日記の中で清少納言を悪し様に評しているのも、自分が自慢したくて仕方ないからこそ自慢話が鼻についてしまうというのは分かる気がします。
この本の中でもエッセイストの大先輩というべき兼好法師の徒然草が多々取り上げられているのですが、兼好法師自身も自慢が満載。でもあからさまに自慢していることが分かると恥ずかしい。
でも最近は自慢と恥の感覚がかなり違ってきたみたいで、その辺のあれこれを縷々書いているのですが、通読して思うのは男と女の恥の感覚の違い。女性はこんな感覚だったのかと言うことを齢70にして目から鱗では、今更と言うか手遅れなんですけどね。
戦後ルース・ベネディクトが「菊と刀」を著し、日本人の行動規範のもとになっているのは「恥の感覚」と喝破したのだが、その恥の感覚も時代とともに大きく変わってきた。
最近ではSNSによってその感覚が激変したと書いてあるのだが、それについて書いた「中年とSNS」と「若者とSNS」は酒井さんの知らないうちに大変な勢いで拡散して、バズったことになる。それだけなるほどと思った人が多かったのだろうが、酒井さん自身はSNSをやっていないので状況がわからないまま大いに戸惑ったとか。
ここで取り上げられているSNSはフェイスブックなのですが、不特定多数の見えない人に対してエッセイを書くことについては何ら恥しくないのに特定少数にすることは躊躇すると言うか恥しい。ストリッパーが人前で裸になることは仕事なのですが、それは不特定多数の観客に対してのもの。自分の友人知人といった特定少数の前では恥ずかしい。同じようなことは確か井上ひさしもどこかで書いていて、ストリッパーも楽屋で着替える時には恥ずかしいので見られたくないとか。ファイスブックは自分の知り合いに繋がるので、自分の友人知人の前で裸になると同じような行為と思われて恥ずかしいはずなのですが、ファイスブックでは友人知人が色々なことをアップしている。最初のうちは旧交を温めて盛り上がっていたのですが、他人の知らずにいた精神生活を見てしまい恥ずかしさを感じてくる。今まで自慢欲求を封印してきた中年世代がフェイスブックの中で恥ずかしげもなく欲求を解放している。もっとも日本人の恥の感覚は強固で、その自慢バブルもやがて沈静化してきました。
因みに今どきの若者はネット社会で生きていて「見られている」ことを絶えず自意識に持っている。日本人は古来「親しき仲に言葉は不要」という路線で来ていたはずなのに、若者は「言葉にしなければ何事も伝わらない」という認識で、親や友人にやたら感謝の言葉を発表している。昭和世代としては結婚式とか葬式以外の場で子どもがあからさまに親に感謝している姿は恥ずかしい。
ところで私もこんなブログを書いていますし、フェイスブックも適宜アップしています。一応ブログはほとんど分かっている人には分かっているのですが、匿名で登場人物も実名は使っていません。フェイスブックの方は自己紹介で実名も出していますのでそれなりに気を遣っているはずですが、どちらもあまり自慢話をしている自覚はないながら、それっぽいところもあって、ちょっと歪んだ形での自慢話なのでしょうか。どうして書いているのかと言われるとあまり明確な答えがないのですけど、しいて言えば日記代わりの「ボケ防止」と答えています。時折心の片隅でこれはどう書いてアップしようかと考えることは脳トレになるのではと思っているのですけど。それでもフェイスブックでの投稿にいいねがたくさんつくとにんまりしてしまい、今度はもっと受けるように書いてみようとなるので、承認欲求が満たされることを求めているのは確かです。
この他にも恥の感覚をキーワードにして、鋭く今の日本の世情を分析しているのですが、これが面白い。結婚相手では小倉千加子さんの「結婚とは、男のカネと女のカオの交換である」という言葉を引きつつお金持ちと美人の結婚についての必然性を述べていますが、逆の女性のカネに恋するイケメンというパターンは難しい。自由恋愛、自由結婚の世では「よくあんなのを選んで一緒にいるよね」と言われても自己責任。夫婦になると言うことは他人から見たら「恥ずかしい」とされる相手の部分をも、自分の中に取り込んでいくこと。夫婦が似てくるとはそう言うことで、それは総じてうまく行く夫婦…
そう言われると我が身を振り返ってしまいますが、まあ、長くいると価値観が似てくるのは取り込まれてしまったと思いつつ何とか続いている理由か?
死に支度では人は死ぬとひたすら見られる立場になると言うのですが、死ぬ前はあれこれ恥ずかしいことが気になって整理して処分なりしようと思う人が多いのですが、死んだらどんなに恥ずかしいことを知られても蘇ることはないのですから、残されたものが勝手にしてくださいと言うのが今のところ自分の考え。それでも残されたものに迷惑はなることがないようにボケる前には整理しなくてはとも思っていますけど、それこそ自己責任で勝手にしなさいですね。
小林聡美とのボーナス対談もついて300ページにも満たない文庫本ですけどいろいろ考えさせられたのはさすが酒井さん。恥の感覚は形を変えつつ日本人の基底にしっかり残っています。