怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

酒井順子「無恥の恥」

2024-07-05 11:36:43 | 
一応肩書としてはエッセイストの酒井さん。冒頭ですべてのエッセイは自慢話と断言しています。
エッセイを生業としているのですが、それだけに自慢好きな人間であり、他人の自慢には敏感という。

紫式部が日記の中で清少納言を悪し様に評しているのも、自分が自慢したくて仕方ないからこそ自慢話が鼻についてしまうというのは分かる気がします。
この本の中でもエッセイストの大先輩というべき兼好法師の徒然草が多々取り上げられているのですが、兼好法師自身も自慢が満載。でもあからさまに自慢していることが分かると恥ずかしい。
でも最近は自慢と恥の感覚がかなり違ってきたみたいで、その辺のあれこれを縷々書いているのですが、通読して思うのは男と女の恥の感覚の違い。女性はこんな感覚だったのかと言うことを齢70にして目から鱗では、今更と言うか手遅れなんですけどね。
戦後ルース・ベネディクトが「菊と刀」を著し、日本人の行動規範のもとになっているのは「恥の感覚」と喝破したのだが、その恥の感覚も時代とともに大きく変わってきた。
最近ではSNSによってその感覚が激変したと書いてあるのだが、それについて書いた「中年とSNS」と「若者とSNS」は酒井さんの知らないうちに大変な勢いで拡散して、バズったことになる。それだけなるほどと思った人が多かったのだろうが、酒井さん自身はSNSをやっていないので状況がわからないまま大いに戸惑ったとか。
ここで取り上げられているSNSはフェイスブックなのですが、不特定多数の見えない人に対してエッセイを書くことについては何ら恥しくないのに特定少数にすることは躊躇すると言うか恥しい。ストリッパーが人前で裸になることは仕事なのですが、それは不特定多数の観客に対してのもの。自分の友人知人といった特定少数の前では恥ずかしい。同じようなことは確か井上ひさしもどこかで書いていて、ストリッパーも楽屋で着替える時には恥ずかしいので見られたくないとか。ファイスブックは自分の知り合いに繋がるので、自分の友人知人の前で裸になると同じような行為と思われて恥ずかしいはずなのですが、ファイスブックでは友人知人が色々なことをアップしている。最初のうちは旧交を温めて盛り上がっていたのですが、他人の知らずにいた精神生活を見てしまい恥ずかしさを感じてくる。今まで自慢欲求を封印してきた中年世代がフェイスブックの中で恥ずかしげもなく欲求を解放している。もっとも日本人の恥の感覚は強固で、その自慢バブルもやがて沈静化してきました。
因みに今どきの若者はネット社会で生きていて「見られている」ことを絶えず自意識に持っている。日本人は古来「親しき仲に言葉は不要」という路線で来ていたはずなのに、若者は「言葉にしなければ何事も伝わらない」という認識で、親や友人にやたら感謝の言葉を発表している。昭和世代としては結婚式とか葬式以外の場で子どもがあからさまに親に感謝している姿は恥ずかしい。
ところで私もこんなブログを書いていますし、フェイスブックも適宜アップしています。一応ブログはほとんど分かっている人には分かっているのですが、匿名で登場人物も実名は使っていません。フェイスブックの方は自己紹介で実名も出していますのでそれなりに気を遣っているはずですが、どちらもあまり自慢話をしている自覚はないながら、それっぽいところもあって、ちょっと歪んだ形での自慢話なのでしょうか。どうして書いているのかと言われるとあまり明確な答えがないのですけど、しいて言えば日記代わりの「ボケ防止」と答えています。時折心の片隅でこれはどう書いてアップしようかと考えることは脳トレになるのではと思っているのですけど。それでもフェイスブックでの投稿にいいねがたくさんつくとにんまりしてしまい、今度はもっと受けるように書いてみようとなるので、承認欲求が満たされることを求めているのは確かです。
この他にも恥の感覚をキーワードにして、鋭く今の日本の世情を分析しているのですが、これが面白い。結婚相手では小倉千加子さんの「結婚とは、男のカネと女のカオの交換である」という言葉を引きつつお金持ちと美人の結婚についての必然性を述べていますが、逆の女性のカネに恋するイケメンというパターンは難しい。自由恋愛、自由結婚の世では「よくあんなのを選んで一緒にいるよね」と言われても自己責任。夫婦になると言うことは他人から見たら「恥ずかしい」とされる相手の部分をも、自分の中に取り込んでいくこと。夫婦が似てくるとはそう言うことで、それは総じてうまく行く夫婦…
そう言われると我が身を振り返ってしまいますが、まあ、長くいると価値観が似てくるのは取り込まれてしまったと思いつつ何とか続いている理由か?
死に支度では人は死ぬとひたすら見られる立場になると言うのですが、死ぬ前はあれこれ恥ずかしいことが気になって整理して処分なりしようと思う人が多いのですが、死んだらどんなに恥ずかしいことを知られても蘇ることはないのですから、残されたものが勝手にしてくださいと言うのが今のところ自分の考え。それでも残されたものに迷惑はなることがないようにボケる前には整理しなくてはとも思っていますけど、それこそ自己責任で勝手にしなさいですね。
小林聡美とのボーナス対談もついて300ページにも満たない文庫本ですけどいろいろ考えさせられたのはさすが酒井さん。恥の感覚は形を変えつつ日本人の基底にしっかり残っています。
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真山仁「ブレイク」

2024-06-28 08:13:05 | 
真山仁が地熱発電をテーマに書いたもの。

日本は地熱発電の資源埋蔵量は世界第3位とか。さすが火山大国日本。
しかし実際の発電量は世界第10位。恵まれたポテンシャルを活かしきれていない。
この本では地熱発電推進に情熱を傾ける若手議員の仁科、地熱発電開発企業の開発責任者の玉田、与党エネルギー族の重鎮だった安藤大志郎とその息子の安藤幸二、官邸を取り仕切る総理補佐官の伊豆とかが地熱発電を日本に根付かせようと奮闘する様を描いています。
3.11東日本大震災以降原子力発電はなかなか再稼働も進まず、新設などは夢物語となってきている。一方で地球温暖化の議論は化石燃料での発電に対して厳しい制約条件となっている。
しかし原発はだめ、火力発電所もだめでは、この国の電力はどう賄えばいいのか。太陽光にしても風力にしても安定的な供給は無理でベースロード電源が必要となる。
ここで俄然注目されるのが地熱発電。CO2を排出することなく、燃料を輸入に頼る必要もなく、ランニング経費は至って安く24時間365日安定的に稼働できる。しかも日本にの資源量は世界第3位!まさにいいことばかりなのだが、進んでいない。有望な候補地は国定公園内など自然保護の必要がある場所が多く、温泉に影響があると言うので地元は反対する。さらに稼働に至るまでの建設期間が長く初期投資は多額になる。加えて風力とか太陽光の発電には利権が絡み地熱発電に目を向けさせない。
そんな中で地熱発電を推進する人たちを描くのだが、この地熱発電でブレークスルーする技術があり、私もこの本で初めて知ったのですが、「超臨界地熱発電」とか。もっともまだ世界で成功している例はなく研究段階なのですが、地下4~5kmにある400度あまりの超臨界水をくみ上げ発電に利用すると言うもので、大きな出力をえることが出来、火山のふもとで開発する必要はなく温泉湧出地域からも離れた立地が可能になる。超臨界水は強酸性で高温なのでくみ上げるには特別な耐熱、耐圧、耐久性が必要なので課題は山積みですが、既に5か所の候補地を選定して調査している。
なかなか素材としては興味深くてどんどん読み進めてしまいましたが、どうも小説としてはいろいろな材料を詰め込みすぎて散漫になってしまった感あり。登場人物ももっと絞って深掘りしてみた方がよかったのでは?
小説は紆余曲折を経て全国5か所で超臨界地熱資源開発が進み、いよいよ工事が着工するところで終わっている。今の日本のエネルギー事情は本当に憂慮すべきものだと思うので、可能性を秘め必要とされている地熱発電について考えてみるにはタイムリーな小説だと思います。
もう1冊はおなじみ宮部みゆきの三島屋変調百物語の8「よって件のごとし」
聞き手はどことなく頼りなげな三島屋の小旦那富次郎。

最初の話「賽子と虻」では年齢不詳で笑うことが出来なくなった餅太郎の冒険譚。玉の輿に乗ったはずの姉おりんが妬み嫉みからか虻の呪いをかけられ瀕死の状態に。姉を救おうと餅太郎は呪いの虻を飲み込んで、異界へ。そこは産土神ろくめん様の屋敷で八百神が集い日々ばくちに興じている。なんとなく「千と千尋の神隠し」を彷彿させられます。そこで美しい娘弥生に出会うのですが、ある事件からで神すむ郷は崩壊してしまう。なんとか餅太郎は無事人間社会に戻れるのだが、弥生はどうなり、餅太郎が住んでいた畑間村はどうなって父や兄、そして姉はどうなったのか。編み込み草鞋が出来たら三島屋で取り扱うとなったのだが、その後の進展はなし。どうもまだ後で何か出てきて謎が回収されそうですが少なくとも8ではそのままでちょっと不完全燃焼のままでした。
第2話「土鍋女房」は船頭が川の神の大蛇と結ばれる話で、民話でよくありそうです。
第3話は「よって件のごとし」。宇洞の庄の夜見の池と底でつながっていた羽入田村の黄泉の池。そこには地の底から腐れ鬼が出て来て人を襲い、嚙みつかれた人は「ひとでなし」となり同じように人を襲う。ゾンビの跋扈する世界ですね。助けを求めてきた花江とともに八郎兵衛、真吾、父の宗右衛門などが、羽入村へ行き「腐れ鬼」「人でなし」と戦う。必死の戦いの末に八郎兵衛たちは残った村人を連れて宇洞の庄へ戻ってくる。魔界からの脱出譚です。
最初の聞き手のおちかは臨月となり女中のおしまは、世話をするためにおちかのもとへ。兄も三島屋へ戻って来るのですが、まだまだ続くので早く続きを読みたいものです。
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百田尚樹「橋下徹の研究」

2024-06-24 07:39:40 | 
百田尚樹さんの出世作の「永遠のゼロ」は非常に面白く一気に読んだ記憶があります。
日本軍と言うか日本社会の宿痾ともいうべき「熟練」を全く評価しようとしない体質を鋭くあぶりだしています。養成に手間と時間のかかる優秀な飛行機乗りを誰でもすぐにできるかのように使い捨てる現場を知らない上層部の机上論。その体質は今でも色濃く残っていて、ベテランだからこそこなすことが出来たこともコストの安い非正規に置き換えればいいと言う定員管理が横行していたのは私の以前いた職場。その理不尽さを小説としてうまく昇華させていて、さすがの才能に瞠目しました。
でも河村市長を取り込んで(抱きつかれた?)の保守党を結成した今の彼の政治的立場と言動にはほとんど同意できません。
百田さんは以前は維新の政策を支持していて橋下徹さんとは共感することが多くて親しく会食なども何度かしていたとか。私は橋下さんの部下としては絶対に仕事をしたくはないですし、大阪都構想などの維新の政策にも同意できませんので、二人は同じ穴の狢と思っていました。
ところが次第に百田さんが橋下氏の発言に違和感を感じ反対意見を述べると嵐のような反論が来るように。最初は百田さんと言っていたのに、いつの間にか呼び捨ての百田から百田のおっさん、ただのおっさんと呼称が変わってくる。論争を通してテレビのコメンテーターとしてマスコミに引っ張りだこで発言を続けている橋下徹氏に危険なものを感じただろう、論争の主にツイッターでのやり取りを中心に整理して橋下徹の人間性と理不尽さを追求したものです。

百田さんが論争してきた事柄としては「ウクライナ」「靖国神社」「上海電力の太陽光発電参入」などですが、驚くのは橋下氏が反論、罵詈誹謗を発信するツイッターの数の多さ。絶えずスマホを手にSNSを渉猟し1日に何回となく発信する。膨大な量のツイートは編集者がコピーして整理しているのですが、それをまとめるのも大変でしたでしょうが、読むだけでも辟易としてしまう。異様なほどの負けず嫌いで自分に対する批判については脊髄反射的に反論を重ねなければ我慢できない性格なのだろう。そういうところがテレビ受けするのだろうが、一時の感情に身をさらし反撃するのではなく沈思黙考して物事を整理して周囲に目を配ることも必要と思うのですが、それではテレビの短い時間では何も言えなくなって呼ばれないのか。
相手は弁護士で訴訟提起も多いので名誉棄損で訴えられるリスクを考慮して過去の発言は正確に引用し、原稿のリーガルチェックもしているそうです。
論争の行方はじっくり読んで判断してもらえばいいのですが、最後の方に橋下徹氏の人間性にも触れています。これはなかなか興味深く橋下氏には結構有効打ではないでしょうか。
橋下氏は2014年に新潮社を相手に名誉棄損裁判を起こしているのですが、発端は精神科医の野田正彰氏が新潮45に書いた「大阪府知事は病気である」と言う記事です。この中で野田氏は自己顕示欲型精神病気質の6項目のうち5つに当てはまるとしています。さらに橋下氏の高校時代の元教諭の証言を紹介しています。野田氏の記事の孫引きですが、
「地味なことはしない。伝達、伝言のようでコミュニケーションにならない。噓を平気で言う。信用できない。約束を果たせない。自分の利害にかかわることには理屈を考えだす。相手が傷つくことを平気で言い続ける。文化、知性に対して拒絶感があるようで、楽しめない。人望は全くなく、委員などに選ばれることはなかった」
大阪地裁では真実であることの証明がなく真実について相当の理由があったも認められないと新潮社に損害賠償請求の1割の110万円の支払いを命じました。
新潮社が控訴し、高裁においては、元教諭の証言を真実と信じるについては相当の理由があったと判断し、橋下氏の請求をすべて棄却。新潮社の逆転勝訴となりました。因みに上告は棄却され判決は確定しています。高校時代の同級生も同じ様な橋下評を証言しています。
ただ、「人望は全くなく、委員などに選ばれることはなかった」という点については選挙で圧倒的な強さで大阪府知事、大阪市長に選ばれている訳で、今でもテレビのコメンテータなどには出まくっていて、現状は真逆。百田さんはテレビ、マスコミに作られたものだからとしていますが、人望も素質がないものをマスコミが寵児として作り上げられるのか。私自身は橋下氏が出るテレビは見ないようにしていて、出ればチャンネルを替えるほうですが、虚像かもしれないけれどそれなりに視聴率を稼いでいるのなら、その誘因をもう少し深掘りする必要があるのでは。
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橋本治「性のタブーのない日本」

2024-06-21 11:41:17 | 
今年の大河ドラマは「光る君へ」紫式部が主人公です。
どうも平安時代の権力闘争というのは藤原家の中で誰が娘を天皇に嫁がせ寵愛を獲させるかの闘い。
武士の世界と違い力の勝負と言うか最後は戦って決着をつけると言うことではなく,とにかく娘を無事育てて天皇と結びつけ、子どもを産んで次期天皇とし、外祖父として実際の権力を掌握する。こうなると色気の勝負?ドラマを見る身としては齢70ともなると色恋沙汰はもう辟易としてしまい興味なし。
たまに見るとこんなのはあり得ないだろうと突っ込みところ満載で、文句ばかりとなっている。
では実際の平安時代の貴族社会での恋愛・婚姻事情はどうなっているのか。
橋本治さんがそこらあたりの事情を詳しく書いていて、少し古い(2015年初版)ですが最適の本になっています。

もちろん書いてあることは,神話の時代から明治以前まで網羅してあり、平安時代だけのことではありませんが、ここは平安時代の貴族の恋愛事情を中心に紹介します。興味を持ったら本を買うなりして全部読んでください。
平安時代の結婚は、女のもとへ男が3晩連続通うと言うステップを前提にしています。男は夜遅くやってきて夜が明ける前に帰って行き、家に帰ると女のもとに手紙を送る。随分面倒ですが、一日だけでやめやめたとか2日で手紙を出さずに来ないとか乗り逃げ男もいたはず。
当時は男と女が「逢う」と言うことは、夜、女のいる簾の中に入って逢う。簾の中は寝室と同じなので「こと」に及ぶと言うことです。百人一首の中で「逢う」という言葉が出てきたら、しかるべき実行行為を表している。う~ん、今ではそんなこと書いているとは思えないけど、当時の表現ではそんなことを書いていたのです。ちょっと歌の読み方が違ってきます。
夜、女の部屋へ入ってしまえばもはや着物をはぎ取ったも同然、侵入されたら終わりなのです。もちろん門前払いにすることはあるのですが、側につかえる女房が男に言い含められて手引きすることもあるとか。源氏物語の光源氏などは今の時代で考えればコンプライアンス上問題行動ばかり。セクハラなどと言う生易しいものではなく強姦で訴追されそうなことを平気でやっています。
当時の身分の高い女は男に顔を見せないことが原則で、部屋の周りに簾を下ろし、側に几帳を建てると言う密室状態にしてそこから出ません。顔を見せると言うことは裸を見せると同じで身を許していること?外部との接触を果たすのは女房ですが、その女房達も素顔を見せる訳でなく大きな袖で顔を隠しての対応。ドラマのように面と向かって話すなどと言うのはなかったはず。もちろん身分の下の労働者階級は女も顔丸出しですが、そういう女は貴族にとっては女とみなされていません。女房達も身分の低い相手に対しては石ころ同然なので顔をさらしてもいいみたいです。
当然ながら顔を見せないので、男は噂とかで勝手に恋をして夜に通う。男女とも判断の大きなポイントは和歌みたいですが、あまり美人とかどうかとかは自分で確かめられないみたいで、妄想を募らせ通って、ことに及んだ後、期待はずれだったこともあったようです。今のように照明がある訳でもなく、せいぜいが月明かり。夜暗くなってから忍んでいき夜が明ける前に帰るのですから、性交は可能でも顔を見ることが出来ないと言う変な世界ですが、そういうルールになっていたのです。
因みに当時は相続は娘に相続されるのが普通。貴族の息子には相続がないので女の家に通って家屋敷を自分のものにしたいし、女は財産はあっても自活できる生活能力がないので、生活を管理してくれる夫が必要になる。男も女も打算を腹に二股も三股状態になるのもムベなるかな。
そんなことを読んでいると今の大河ドラマ「光る君へ」はあり得ないとなります。でも真っ暗の中でうわさだけでくっついたり離れたり、お互いに顔を見せないでは映像化できないし、ドラマが成り立ちませんけどね。まあ、歴史ではなくて今の時代に合うように現代に移し替えた物語なんで仕方ない…
この本でもう一つそうだったんだと感心させられたのは藤原頼通について。道長の息子で宇治の平等院を作った人です。あの道長の全盛期から頼通の時代になると院政の時代へと変わっていきます。
頼通は30を過ぎても子どもがいなく、子作りに励もうといないので父からも母からもプレッシャーを受けます。娘がいなければ天皇の后にすることが出来ず外祖父としての権力基盤を作れません。最終的には母に使える女房との間に娘をなしているのですが、姉からも弟からもプレッシャーを受け大変なストレスだったと思います。そのせいか頼通はあまり女に興味がなかったみたいで寵愛する若者がいたとか。結果、摂関家の主流に属する后を持たない天皇や摂関家主流に属さない女性から生まれた天皇が誕生し、主導権が摂関家から天皇自身へ移行してしまった。天皇が譲位して上皇になると天皇の父として朝廷を動かすシステムを作れることになり、摂関家は人事権を失ってしまいました。
院政の時代は男色の時代の始まりとなる時代で、武士の時代へとつながっていきます。権力闘争の中心に戦いがあり男たちはこれを前提に存在し、女の地位は低くなって子どもを産むものになっていきます。
明治時代前の日本は、キリスト教的な倫理観とは無縁で性についてタブーはない私の知らない世界でした。
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加藤雅俊「1日1分で血圧は下がる」

2024-06-16 09:17:39 | 
テレビを見ているとCМで血圧130以上の人は要注意扱いで何とか茶を飲みなさいと言っている。
日本では140:90を超えると高血圧と診断され要医療とされてしまうのだが、これには批判もいろいろある。
日本で高血圧と推定される人は約4300万人で降圧剤の消費量は世界の生産量の約5割とか!
日本は世界有数の長寿国のはずなのに血圧異常の人がこんなに多いのはおかしいのでは。降圧剤のおかげですと言うのはちょっと信じられない。
一昔前には血圧の基準は年齢+90だったのだが、加齢によって血管は弾力性はなくなり血圧が上がっていくのは自然で、素人考えでも年齢関係なく一律の基準は如何なものかと思われる。
そうは言っても私も血圧は気になって尊敬する病院の熊さんの言いつけを守って、毎朝トイレの後・朝食前に血圧を測っている。
総じて冬は高くて暖かくなると下がってくるのだが、日によってよく分からないけど妙に高い時がある。先日も150:95とほんまもんの高血圧の値が出てしまいました。
そんなこんなで図書館にあったこの本を思わず借りてきました。

血圧が高くなる大きな原因の一つは、血管が硬くなること。ところが血管を柔らかくする物質としてNОが分かってきました。となるとNОの分泌量を増やしていけば血管が柔らかくなり血圧も下がるはず。
NОは、筋肉を硬直させて一度血流を悪くしてから一気にゆるめることで、分泌量が増えることが分かっている。そのためには筋肉に適切な負荷をかける運動をすればいい。
ここら辺の論理展開は池谷敏郎さんの本でも読んでいました。その本を読んで以来、私はゾンビ体操を毎日やっています。
この本ではゾンビ体操ではなくて加藤式降圧体操というものを提唱しています。
具体的には「表裏体操」と「部位別体操」
表裏体操とは変なネーミングですが要は体の表側と裏側の筋肉を一度に効率よく刺激すること。

これは体が横たわれるところが必要ですが、短時間で効果を出したければ部位別体操4種類をやればいい。それぞれのやり方、注意事項は本を読んでください。気の付いた時にちょっとした時間に場所を選ばずできるので、気が向いたらやってみようと思っています。
これで一生血圧を心配しない体になるとか。
こんなに下がったと言う体験者の声というのも載せているのですが、個人がやってみたら効きましたと言うのはどうも怪しげな健康食品のCМみたいでちょっと内容を軽くしています。大規模比較調査を実施した上でのエビデンスを示してほしいものです。
薬に頼るのは危険と書いてありますが、これについては激しく同意。血圧は体の不調を知らせる大事なサインで、薬で無理に全身に栄養がいきわたらなくなる!こんなことを書くと製薬会社が困ると思うのですが、実は著者の加藤さんは薬剤師。業界では天敵になるのでは。まあ、医師は薬の副作用には詳しくないので薬剤師に相談しなさいと言っていますけど。
第4章にはあなたの血圧知識、間違っていますと、巷間言われている血圧に関する知識を吟味して明快に否定すべきところを述べています。どこまで信じていいのかという点はありますが、血圧の基準値、脈圧、減塩、コレステロールは悪者とかについて述べてあります。年齢、体格によって適正な血圧の値が違うと言うのはすとんと腹に落ちます。本当に怖い高血圧は急激に血圧が上がるとか呂律が回らなくなった時は医者にかかったほうがいいけどジワジワ上がる慢性高血圧はそんなに怖がらなくてもいい。まあ、自分にとって都合のいいところだけつまみ食いして自分は危険な高血圧ではないと思うのはいいことなのかどうか。
第5章では血圧を下げる生活習慣となっていますが、そんなに難しいことは書いてないので出来ることはやってみようと言う気になります。
因みに血圧を家庭で測るにはきちんと説明書に書いてある通りしてくださいとのこと。ばらつきがあるのは測り方が悪い場合も往々にしてあるみたいです。
池谷先生の本も併せて読んでみるといいと思いますが、私はしばらくはゾンビ体操を続けていようかと思います。

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佐藤千也子「オッサンの壁」

2024-06-14 14:18:23 | 
情報番組のコメンテーターで時折出演していることがある佐藤千也子さん。
学歴を見たら名古屋大学の文学部卒。学部は違いますが私より10年後輩。てっきり早稲田くらいかと思っていたのですが、名古屋大学とは。政治部の記者になる人はほとんどいなかったのでは?
ところで私が就職した当時はセクハラとかパワハラなんて言葉もなく、今振り返ると男社会で体育会系雰囲気がまん延していました。
まさにオッサンの世界でした。
このところ自治体の首長でパワハラ、セクハラが問題になって辞任に追い込まれてしまった人が何人かいます。たぶん自分が見聞きし育ってきた社会習慣をそのまま時代に適応させることなく今の部下にぶつけていたのでしょう。本人にとっては俺はこうやってキャリアを積み上げてきたのだから何が文句あるの。パワハラは教育の一環だし、セクハラは親愛のしるしで問題にする方がおかしいと思ているのでは。
今は職場でもコンプライアンスの順守が言われ内部通報制とかもあるのだが、政治の世界はいまだにオッサンの世界のまま。
佐藤さんの言うオッサンとは「男性優位に設計された社会で、その居心地の良さに安住し、その陰で、生きづらさや不自由や矛盾や悔しさを感じている少数詩派の人たちの気持ちや環境に思いが至らない人たち」のことです。すいません、私もどっぷりオッサンの社会に浸って生きてきました(過去形だと思っているけどまだ現在進行形もあるかも)。
この本は佐藤さんの新聞記者としての仕事ぶりを振り返りながら男性社会である政治の世界を論じているものです。

私としてはオッサン社会への批判はよく分かるつもりなのですが、この本を読んで一番興味を持ったのは新聞記者の仕事ぶり。
最初佐藤さんは長野支局に配置されるのですが、新人は警察・消防の「署回り」が通例で、朝一番7時に長野中央署に行き宿直警察官に夜中に何があったか聞きだすのが日課。ひとたび事件事故が起きれば最初に現場に出動しなくてはいけない。当時は携帯もなくカーナビもなくデジカメもなく写真もしなくてはいけないなので忙しい。女性の場合は身だしなみにもそれなりに時間がかかるので大変。私は若いころ顔も洗わずに起きて30分以内に出勤するのが常でしたけどね。
長野支局に3年いて異動の時期になるのだがひょんなことで政治部に配属される。政治部記者の1年目は首相番。官邸で首相に張り付く役ですね。
政治部には当然ながら「夜討ち朝駆け」があって、それが毎日。佐藤さんが当時の大島官房副長官の担当だった時は高輪の議員宿舎ロビーに午前6時過ぎに到着して待っている。政治家が出勤す歳の車に記者が一緒に乗り込み車中で話を聞く取材「ハコ乗り」。乗れる記者は3人まで。新聞社、通信社、NHKの8社ほどで毎朝、ハコ乗り競争をするのだが、夜遅くまで夜回りなど当然取材はあるので寝ることが出来るのは3時間ぐらい、この生活は私には絶対できない…ちなみに佐藤さんは入浴時間を削ったので最長で5日間風呂に入らなかったことがあったとか。
政治記者は記者クラブ制度に守られ記者会見の時に肝心なこと聞かないという批判は多い。大手新聞の政治記者は「記者会見で何も知らない他紙記者に質問を通してみすみす情報や問題意識を教えてやる必要はない。本当の勝負は、記者会見という表の場ではなく、裏の懇談取材やサシ取材でやれ」と考えていたみたいです。
そんな過酷な政治記者をこなしていくのですが、当然ながらセクハラについては実際に体験し、かつ見聞している。そんな実例も紹介しているのだが、夜討ち朝駆けしているとなんかの折に二人きりになることもあって危ない目に遭うことも。そんな時には同僚とか上司の対応が非常に大切になるのですが佐藤さんはその点では恵まれていたみたい。まあ、セクハラという言葉がそんなに広まっていない頃はさもありなんですけど。
佐藤さんはそこからキャリアを重ね、ワシントン特派員となり、論説委員になり、女性初めての全国紙政治部長になり、と順調に出世しています。本人的にはいろいろな思いがあって必ずしも喜んでばかりではなかったみたいですけど。
ところで佐藤さんが政治部長になれたのは自己分析によると「逃げない女」だったからとか。政治部長として仕事をしていくうえでオッサンの壁を社外ではあまり感じなかったそうですが、社内ではいろいろあったみたいです。社内では男社会の本音で対処されることが多かったからか。でも政治部長だった2年間は安倍一強時代で対外的には「オッサンの壁」よりも「安倍政権の壁」との闘いだったと言われると一部メディアを優遇し気に入らないメディアを排除する傾向の安倍政権の不気味さを改めて感じます。
国際比較すれば後進国といえるなかなか進まない女性の政界進出ですが、女性議員の壁についても1章割いています。高市早苗、野田聖子、稲田朋美と論じていますが今話題の小池百合子とか蓮舫とか辻本清美とかも取り上げてほしいのですが、佐藤さんはあまり付き合いがなかった?
オッサンの世界にどっぷりつかってきた我が身としてはもっと目を配らないといけなかったと反省しきり「どうもすいません」としか言いようがないのですけど、新聞記者の仕事ぶりも含めて一気に読み通せました。



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玄侑宗久「桃太郎のユーウツ」

2024-06-11 13:33:09 | 
「中陰の花」で芥川賞を受賞した玄侑宗久さん。福島県のお寺の住職でもあります。
2015年から2023年までに発表されたものを書籍化したものです。

3・11以後、福島第一原発の廃炉に向けた動きは遅々延々として進まず、除染作業を進めながら処理水の海洋放出とか東北の他県と違った苦難を背負っている。
移転するなどしが地域コミュニティは崩壊してしまったこともあり、いまだ厳しい状況です。
地域コミュニティの結節点だったお寺も経営的に苦境に陥っているところも多く、そこにコロナ禍が追い打ちをかけ、以前のような葬儀、法事を行うことも出来なくなり、世俗的にはどうやって生活していけばいいのかとなってくる。お寺を維持していくには何が出来、どうすればいいのか模索の日々となります。
玄侑さんのこの連作はそんな福島の生活を背景に想像力の羽ばたきを加味したものです。
SFの趣のある「繭の家」はコロナ禍が猖獗をきたした未来に、人々は繭の家という一人用の家に閉じこもり生活する世界を描いている。一人一人が繭の家に閉じこもり孤立して暮らすのが常態になると家族とは何か、夫婦とは子育てとは?政府から支給された個人情報をもれなく把握出来る装身具をつけ、生活すべてが政府の管理下に置かれている。勝手に群れたり交流するのは不逞の輩となるのか。それでも東京では政府に従わない人々が相互扶助の精神で自由に生きている人々はいるのだがそこはある意味政府に反逆する封鎖された世界。
コロナがまだ未知の疾患で大きな恐怖の対象だったころ、家族であっても人の呼気が感じられるような距離にお互いが近づくことさえ憚られ、コロナ汚染地域と言われた都会から帰省するだけで理不尽なバッシングを受け村八分と言うか冠婚葬祭の二部さえも拒絶されると言うことは現実にあったこと。コロナに恐れおののいた人々のある意味の究極的な理想的な生きる形は繭の家かも。
「桃太郎のユーウツ」は2016年の執筆ですが、桃太郎による元総理大臣に自爆テロを敢行する設定は玄侑さんがあとがきに書いているように安倍元総理大臣射撃事件を思い起こさせる。主人公の桃太郎は幾世代にもかけてダライ・ラマの様に転生を繰り返してき、どこからか何らかの指令が届き、それを確実に実行する定めを負っている。
背景も動機も全く違うのだがユーウツな時代の雰囲気を色濃く反映していて究極としてテロの爆発まで行く展開は、文学が時代の気分を読んで先取りした予言の書になっている。その意味では大江健三郎の時代とともに疾走してる感のあった小説にも通じるところがある。
どうも閉塞感が漂う日本の今現在ですが、想像力を羽ばたかせその姿をあぶりだしている作品集です。
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エミン・ユルマズ「エブリシング・バブルの崩壊」

2024-06-05 15:21:18 | 
何かの本で読んだ気がするけど、株式アナリストは長期の見通しという時に3か月先のことをいうそうです。
今や株式会社は四半期ごとに決算発表しており、アナリストは3か月ごとにある意味業績評価されているので3か月以上先のことは論じる余地はないのか。
経済評論家などの株式市場を論じた著書はその意味では陳腐化が激しく、1年も過ぎれば役に立たなくなる類で見向きもされないはずなのだが、エミン・ユルマズさんのこの本は2022年3月発行なのだが予約するとかなり待たされてしまった。陳腐化しない価値があると言うことなのだろうか。

それでも表題にある様なバブルの崩壊という点では予想は外れている。
2022年にはさしものコロナ禍も収束して来るのですが、その間各国とも金融をジャブジャブに緩和し、膨大な財政支出をしている。
リーマンショックの時にこれでもかというほど金融を緩和し市中にはマネーがあふれてバブルへの道を駆け上がっていた。コロナ禍に突っ込んでいくと共に金融緩和は修正されることなく逆に財政支出を拡大してきた。
コロナの収束とともに積み上がったマネーは、株式、債券、不動産、さらにはコモディティ(石油、銅、小麦などの商品)などの多様な資産バブル=エベリシング・バブルをもたらした。
弾けないバブルは存在しないのだがエミンさんはこの本執筆時には近い将来のバブル崩壊を予言している。
思えば当時エミンさんだけでなくいろんな人がアメリカ経済はハードランディングするだろうとみていた。既に中国経済は変調をきたしていて、FRBは早晩利上げを止めて利下げに追い込まれるだろうと言うのがある意味市場のコンセンサスだった記憶です。
ところがアメリカ経済は予想外に好調で、失業率は低く物価上昇も止まらない。インフレ懸念から2024年になっても利下げは先送りされている。小さな景気後退はあってもバブル崩壊などと言うことはなく、上手く行けばこのままソフトランディングできるという観測です。その面では予言は大外れでした。
でもバブルが崩壊していないと言うことは、積み上がったマネーは清算されぬまま残っていると言うことで、火種はまだ残っていると言うか問題は何も解決されぬまま膨張し続けていると言うこと!大統領選も絡んだりしてこのまま何も起こらないで行くのだろうか?
各国の産業構造の違いから、リセッションはまず世界の工場たる中国からはじまり続いて日本、最後にもはやサービス産業主体のアメリカに行くと言うのですが、米中対立の余波で今の日本は有利な立ち位置にいて大崩れはしないとみている。むしろこれから有利な立ち位置から日本経済は失われた30年を乗り越え大きく飛躍する局面にきている。
そう言われると新NISAでオルカン一択は考え物で、日本株のインデックスがいいかも。
ところで中国経済については不動産バブルはとっくに弾けていて苦境に陥っているのだが、これまで見えてこなかった巨大な問題が表面化してきて、それを習近平は締め付けを強化し強権で乗り越えようとしている。習近平の目指す共同富裕は文化大革命への回帰であり、西側の価値観を否定し準鎖国への道を進もうとしているかのよう。これからは中国とビジネスをするリスクがコストとして上乗せされてくる時代になる。
最後の2章では世界標準に比して日本企業の無防備に近いサイバーセキュリティへの警鐘や暗号資産のいかがわしさについても書いてあり、これは私自身が全く無知だと言うこともありますが今現在でも十分に読むに値するところです。
世界経済の先行きには困難な問題があるのですが、エミンさんは日本経済については世界の中で非常に有利な位置にあってこれから大きく伸びることについては揺るぎない確信をもっています。
コロナ禍といいウクライナ紛争といい、ガザ侵攻といい将来何が起こるのか見通せない時代ですが、日本経済は数多の障害を乗り越えて行ってほしいものです。
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関裕二「日本古代史謎と真説」・瀬音能之「巨大古墳の古代史」 

2024-05-31 17:19:44 | 
古代史は文献資料が乏しく、正史と言える日本書紀の他には、古事記や風土記ぐらい。
これに、中国の歴史署に出てくる日本と考古学の研究成果を突き合わせていくのだが、当然ながら解釈によって違った歴史が紡がれる。
私が学んだ教科書に書かれているのとは全く違う歴史もあり得ると言うことになる。
関裕二さんは肩書的には歴史作家ですが、その分、学会の桎梏もなく自由に想像力をはばたかせて歴史を解釈しています。

「古代史の謎と真説」は今まで個別に「物部氏の正体」「ヤタガラスの正体」「応神天皇の正体」などで論じて来たことを通史的に縄文時代から平安時代までを論じています。それだけに大きな流れとして歴史をとらえることが出来、関さんの考え方がよく分かります。
考古学の最近の知見もフォローしつつ、日本書紀の虚実を暴いています。
最近はあまり目にしませんがひと頃の古田武彦の九州王朝説のような迫力があります。古田武彦の説もアカデミックな世界ではほとんど無視されていましたが、ある意味自説に整合的なところをつなぎ合わせて通説をぶった切っていました。私の読んだ記憶では当然ながら素人で文献資料を全部読みこんでいないので、引用してある日本、中国の歴史を読み込んで論理的で首尾一貫していると感じたものです。
さて関裕二さんの説の肝は日本書紀は誰が何のために書いたのかと言うこと。通説ではこれは天武天皇が命じていたので、天武天皇に都合のいいように編纂されているとされている。しかし、実際の書きあげられたのは天武天皇亡きあとで、持統天皇のもと藤原不比等が責任者になっていた。日本書紀は天武のためではなく天智天皇や中臣鎌足のため、そして藤原氏のために書かれたものだと。
不比等は藤原氏が権力を握ったことを正当化するために、歴史を改ざんし自らに都合の悪いことは書かれていない。
乙巳の変により蘇我宗家が倒されるまでの蘇我氏は天皇の外戚として実質的に日本のヤマト朝廷の最高権力者であり政権を担っていた。蘇我氏こそ律令制度を導入して日本の基礎を築いてきた。中大兄皇子と藤原鎌足のクーデターを正当化するために不比等は蘇我氏の功績を巧妙に消し去り暴虐非道の悪役として打倒されるべきものとしている。
因みに中臣鎌足は、百済の王子豊璋だとしている。乙巳の変はまさに百済救済への軍事介入の道筋をつけるのだが、白村江の敗北へと突き進んでいく。
蘇我氏を悪役とした歴史の整合性を保つために神武天皇からの記述も創作している。
この観点は理解しやすいのだが、そこから神功皇后は魏志倭人伝に出てくる台与であり、卑弥呼を倒して九州宮崎にいたのだが、当時の大和政権に息子が応神天皇として迎えられたと言われると頭の中が混乱してしまう。消されたのは蘇我氏の功績だけでなく、壬申の乱で大きな功績のあった尾張氏も表舞台には出てこない。
この視点で通説をぶった切っているのですが、文献研究・考古学研究を通じて、どれくらい検証できるかという点は措いといて、歴史の見方としては非常に面白い。関さん、新書本文庫本をたくさん出していますが、それなりに支持する読者がいると言うことでしょう。古代史は文献資料が少ないだけに解釈次第というところがあって一概に否定できない貴重な視点と思います。でも日本書紀という正史の重さは重いと思うのですけどね。
もう1冊は考古学の成果を紹介して巨大古墳から見た古代史。最新の話題である富雄丸山古墳から発見された長さ2・3メートルの蛇行剣と盾形銅鏡をカラー写真で紹介してあります。
富雄丸山古墳の築造は4世紀後半、直系09メートル、高さ14メートルは日本最大の円墳。しかしなぜ前方後円墳ではないのか。王族ではないことから前方後円墳とするに規制がかかったのか。副葬品から考えてもヤマト王権と敵対していたのではなく非常に近しい立場にあって力もあった人物が被葬者と考えられるのだが、出土品は国産品にこだわっていることから渡来系の人物である可能性は低い。ナガスネヒコなんて言う説もあるそうですが、ナガスネヒコはヤマト王権とは敵対していたのでは?これから未盗掘の粘土槨内の木棺の調査が行われる予定で、まだまだ新たな発見がありそうです。
それ以外では古墳の変遷を追う中で、吉野ケ里遺跡、妻木晩田遺跡、平原遺跡,出雲勢力圏とみて邪馬台国への道に迫っている。楯築墳丘墓は倭国王帥升の墓?沼津市の高尾山古墳は狗奴国の王の墓では?平原遺跡は伊都国で一号墓はその女王の墓?調査を進めても決定打が出ないところので想像が広がります。
発掘調査ができないのだが、古代天皇陵についての調査リポートや有力豪族の巨大古墳の発掘リポートもあり、考古学の分野ではまだまだ発掘によって何が出てのか分からない。今現在通説と思われていることも(出雲の荒神谷遺跡での大量の銅剣の発見の様に)新たな発掘調査で覆ってしまうこともあり得る。
それにしても天皇陵と言われるものについて明らかに時代的に齟齬をきたしているものもあり学術的な発掘調査は必要なのではないのか。
このほか地方の巨大古墳についても網羅的にレポートしていて、普段あまり紹介されないものだけに全国各地にこんな巨大な古墳があり、それを築造した地方豪族の力を改めて知りました。
因みに東海地方では断夫山古墳が紹介されているのですが、熱田神宮の言い伝えでは宮津媛の墓とされている。全長150メートルでこの時期では屈指の規模なのだが、出土品から築造は5世紀末から6世紀始めと推定されるので時代が合わない。天皇外戚として力を持っていた尾張氏の長が被葬者と考えられるのだが、中央政界では活躍していないので名前が残っていない。関裕二さんによれば藤原氏にとって尾張氏の活躍は不都合なので意図的に消されていたとなるのだろうか。
いたって本流の最新の考古学の成果をまとめてあり、写真・図も豊富で読みやすい。日本の100名古墳巡りの旅に行きたくさせる本です。


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内田樹「コロナ後の世界」・磯田道史「日本史を暴く」

2024-05-17 11:33:06 | 
コロナ禍前と以後では世間の在り様ががらりと変わった面がある。
個人的には葬式の在り様は大きく変わって、列席することがほとんどなくなった。連絡も事後で家族葬で行いましたと言うものばかり。
喪服の出番はなくなっています。
淋しいことだけど宴会で無礼講に騒ぐと言うこともなくなり、ソーシャルディスタンス。その前に宴会自体がなくなりました。
今コロナが5類に移行してやっと日常生活が戻ってきましたが、この間の政府の対応についてはなんだかな~でした。のど元過ぎればで過去のこととして思い出したくないのですが、安倍政権がしたことはきちっと評価しなくてはいけないのでしょう。
やっている感だけ出して、主観的願望が客観的情勢判断にとってかわり政策を進めてきた結果、明確な指示のない「自粛要請」、突然の「全国一律の学校休校」、混乱を極めた医療現場と後手後手の対応、自国では開発することが出来ずにアメリカ頼りのワクチン行政、今でも家に使わずに残っている「アベノマスク」、菅政権に続く無観客での「オリンピックの強行実施」、
右往左往した対応を政府はちゃんと検証したのだろうか。欧米に比べて死者の数が少なく感染抑制に成功しただから問題なしと言っていてはまともな評価はできない。しかしそれでは今度コロナとは違った感染症が襲ってきた時に同じ様なことをやればいいのだろうか。
安倍政権は国民を支持者と反対者に二分し、「反対者には何もやらない」ことによって権力を畏怖し、服従する国民を作り出そうとしてきた。そのことによって国民は「国」と「私」の一体感を喪失させてきた。コロナ禍においてはその一体感のなさが政府の施策への信頼性をなくし、強い規制を受け入れることが出来なかった。
内田さんに言わせれば安倍政権を総括すれば「知性と倫理性を著しく欠いた首相が長期にわたって、国力が著しく衰微した時代」なのだが、安倍暗殺の後、いまだに安倍政治の呪縛は解けずにアベノミクスの修正も出来ず政策の足かせとなっている。
社会の分断が進み、中産階級なるものが解体し、経済では一人当たりGDPはその順位を下げ続け、今や韓国に並ばれようとしている。国際社会では日本に誰もリーダーシップを求めていない状況になっているにもかかわらずなのですが。
「コロナ後の世界」ではコロナ禍を通じて炙りだっされた安部政治の体質を内田さんは厳しく論じている。

もちろん安部政治だけでなく、コロナ後のアメリカ、中国、日米関係などなどについても論じているのだが、個人的には「反知性主義者たちの肖像」でマッカーシーが何故法外な権力を持てたのかを論じたところは目からうろこでした。アメリカ社会を席巻したマッカーシー旋風と言う赤狩りは民主的国家だったはずのアメリカ合衆国でどうしてそう言うことが可能だったのか、同時代を生きていない日本人の私には腑に落ちていなかったのだが、やっと理解出来た気になりました。マッカーシーは「政府には共産主義者が巣くっている」と言う自分が喧伝している物語を一瞬たりとも信じたことがなかったから。自分の言っていることを信じていない人間は自分の言っていることを信じている人間よりも論争的な局面ではしばしば有利な立場に立つ!確信のないことを語る気後れとは無縁に断定的に語る。反知性主義者たちの本当の敵は「時間」であり、終わりなき反復によって時間を止めようとする。
論じてあることはここでは書ききれないのですが、ネットを徘徊する有象無象の議論に際して頭の中の整理をするためにも読んでみてください。
磯田さんの本「日本史を暴く」は読売新聞連載の「古今をちこち」の2017年9月から2022年9月掲載分を収録したものです。当然ながら読みやすいように1項目はほぼ3ページ。あまり深い考察まで至らないのですが、トリビアな話題が満載で、ここから興味を持った点を深掘りするといいのでしょう。読んでいると磯田さんの古文書オタクぶりが如何なく発揮されている姿がよく分かります。時間があると今日の古書店をまわって掘り出し物がないかと探している。古書店側も文章は読めても著名人のものならともかく家臣の連絡文書とか庄屋の日記的なものとかは、その歴史的価値とかはよく分からないので見る人が見ると新たな発見で価値あるものもよくあるみたいです。世界的に見てもこんなに古文書が残っているのは稀有のことみたいです。それにしても古文書をすらすら読めると言うのは高校の古典で苦労した程度の私にとっては特異な才能としか言いようがありません。
丁度コロナ禍の時期の連載なので、第4章は「疫病と災害の歴史に学ぶ」として日本史の中で疫病と災害に翻弄された人々の姿と為政者の対応を紹介しています。歴史を見ると天変地異とか悪疫がはやると古代から平安時代までは怨霊とか祟りとされるのですが、江戸時代になると天然痘の流行に対して隔離政策がとられだします。藩によって対応が違うのですが、厳格な隔離政策を取ったの藩の目的は感染症から藩主の命を守るためと言うのが時代です。
幕末のコレラ禍とかスペイン風邪の時に時の政府がどうしたのか庶民はどうしたのかを紹介しているのですが、今のコロナ禍に対する鋭い批評になっています。
磯田さんの新書は出版されるとベストセラーになるので、この本も予約してからかなり待たされて読むことが出来ました。
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