カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ブログは何のために書くのか ー 年間第15主日ミサに出て

2020-07-12 20:42:52 | 教会

 年間第15主日のミサは関口教会のミサに出た。習慣だから日曜の朝10時から与った。
ごミサが少し変わっていた印象を持った。朗読には侍者がついていて「神に感謝」と唱えてくれてホッとしたり、答唱詩篇ではシスターが答唱まで歌ったりしていた。奉献文も第2で私には久しぶりで新鮮だった。お祈りもコロナ禍のなかなので印象的だった。第1朗読はイザヤ55:1−〜11で「み言葉の力」のところ、,第2朗読はローマ8:18〜23の「将来の栄光」の話しだ。

 福音朗読はマタイ13:1−9で、「種を蒔く人」の譬えのところだ。種を蒔く人とはイエスのことだろうが、菊地大司教のお説教はこの部分をとりあげ、教会の現状と対比させながら素晴らしいお話をされた。教会活動の中でもボランティア活動や宣教活動の重要性を説かれていたように聞こえたが、私は深く感じ入ったところがあり、少し感慨を記しておきたい。

 菊池司教はこう言われた。「わたしたちは口から語る言葉、書き記す言葉、どちらにあっても自分の言葉が、神の言葉の種を蒔く土壌を準備するためなのだと、常に心しておきたいと思います。」 言葉は、種が実を結ぶような世界を作るために使いなさい、ということのようだ。

(種を蒔く)

 

 私は、このブログも何のために書いているのだろうと反省した。このブログは、もともとはマイコンの時代にカト研のメーリングリストとして生まれた。やがてパソコンが普及すると「掲示板」が一斉を風靡する時代がきてメーリングリストとしての役割は減少していった。ここからいくつかのホームページやブログが独立していった。現在のSNSの時代になっても各ブログには個性があり、私は現在はgoo blog に落ち着いている。

 世の多くのブローガーたちはブログを何のために書いているのか。私のように単に愚痴を連ねるためか。結局は自慢話のブログも多いし、お説教中心のもある。なにか宣伝しているものもあれば、ただ徒然になんとなく一日のことを私小説のように書く人もいる。ブログを書くことが生きがいだとか自己実現だとかいう人もいるようだ。ブログでお金を儲ける技術とか、viewerの数を増やすための技術を論じるブログもあるようだ。

 動機は何でも良い。ブログは読んでくれる人がいれば単純にそれだけでうれしい。やりとりのなかで気があってグラウンドする人もでてくるかもしれない。それはそうだがブログは基本は日記なのだから読んでくれる人がいなくともよいような気もする。むしろわたしは現在の多くのブログの問題点は、ブログが「だれに向かって書かれているか」が不明確なことにあると思う。想定されている読者がはっきりしないケースが多いのだ。ブログ村やblog rankingでは細かくカテゴリーに分かれているとは言え、想定されている読者がわからないことがある。私のこのブログはカト研のメンバーを念頭に置いて書いている。実際には読んでくれているカト研の友人が少ないとしてもそのつもりで書いている。

 文章は何でもそうだろうが、「一般社会に向けて」とか、「だれにでも」とかいうものはないと思う。新聞やテレビのような1対多のメディアですらターゲットは絞られているのだから、1対1が中心のブログで、「不特定多数」を対象にしたブログというのは少ないような気がする。

 さて、菊地司教のことばだ。このカト研のメーリングリストは、私のこのブログは、「神の言葉の種を蒔く土壌」づくりの準備になるようなものになっているのだろうか。ただ愚痴を連ねているだけではだめですよ、と言われたようで反省しきりです。良いお説教でした。

 

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