カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

教皇の宮廷神学 ー トマス・アクィナス(2)

2020-03-02 10:26:39 | 神学

 スコラ神学はトマス・アクィナスによってほぼ完成された。だがこのスコラ神学は中世の神学を支配し続けたわけではない。ボナヴェントゥラ(Bonaventura, 1221 - 1274)、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus、1266年 - 1308)と続くフランシスコ会の影響力は大きかった。アウグスティヌス神学の影響力が残っていた。スコラ神学はルネッサンス期、宗教改革期には批判の的だった。ネオトミズムとして復権してくるのは実に19世紀のことである。


Ⅵ 新しい神学ー最初は異端視されて

 『神学大全』はスコラ神学の完成形だった。だがこれはキリスト教の福音をアリストテレスの概念論に引き渡してしまったことではないのか。同時代のアウグスティヌス主義を奉じる神学者からは、トマスは「モダニスト」(伝統破壊者)とみなされ、異端視されていった。トマスは死後3年でパリ司教から「異端宣告」されてしまうのだ。
 もちろんこの異端宣告は、死後49年でトマスが列聖されると共に取り消される。だからキュンクは、トマスは「カトリックの代表にはほど遠い」(172頁)という。実際、『神学大全』の一部(Ⅱ部)の註解が現れるのは15世紀で、すべての註解がでるのは16世紀だという(1)。

 トマスが再び登場するのは19世紀である。第一バチカン公会議(1869-70)以降、教皇たち
は自らを正当化するためにトマスを持ち出した。「ネオ・トミズム」の登場である。1879年にレオ13世はいわゆる「トマス回勅」によって、トマスをすべての学校の守護聖人に任命し、新しいトマス全集を出した。1917年には、カトリック学校の哲学と神学は「天使的博士(トマス・アクイナスのこと)の方法・教説・原理によっておこなわれる」と法的に規定された(2)。『神学大全』の註解は300を超えたという。

 だが、第二バチカン公会議(1962-65)ではトマスはほとんど役割を果たさなかった。それ以降トミズム中心の学校や神学校は存在しなくなった。

 ところがキュンクは、1980年代以降トマスが再び「特に推奨されてきている」という(173頁)。1992年にだされた『カトリック教会のカテキズム』では、アウグスティヌス(88回)、ヨハネ・パウロ二世(137回)とならんでトマス・アクィナスが63回引用されているという(3)。キュンクは、教会の保守化の過程でトマスが復権しつつあると言いたいのだろうか。

 キュンクは、トマス・アクィナスは「壮大な新しい神学的総合を成し遂げた」と高く評価する。だが同時に問う。「トマスは本当に神学の新しいパラダイムを創出したのだろうか。答えは否である。」(173頁)。なぜか。なぜ新らしいパラダイムを提出できなかったのか。

Ⅶ 問題の多いアウグスティヌスへの依存

 トマス・アクィナスはなぜアウグスティヌスやルターのように神学に新しいパラダイムを提出できなかったのか。キュンクはそれはかれが根本的な「限界と欠点」を抱えていたからだという。なかなか手厳しい。キュンクは二つの理由をあげている。

 第一はトマスがアウグスティヌス神学に縛られたまま、それを「修正はしたが解体はしなかったこと」、第二はアリストテレスを導入したことによって逆に「ギリシャ的・古代的な世界観に囚われていた」からだという。
 第一のアウグスチヌスへの依存とは何か。結局はアウグスチヌスの「原罪」観を引き継いでいる。「煉獄」の教理もそのままだ。また、恩寵の物象化論(「被造的恩寵」)(4)もそのままだ。恩寵はなにか「超自然的な流体または動力燃料のようなものと理解されている」(175頁)という。三位一体論の欠陥(唯一の神的本性論)もそのままだという。

Ⅷ 古代の世界観 ー テストケースとしての女性の地位の問題

 第二の限界とは、トマスの神学がアリストテレスが持っていた「ギリシャ的・古代的世界像に囚われていた」ことだという。トマスの神学的説明は、形而上学的というよりは、アリストテレスの自然学から導き出されているという。たとえば、重力・光・熱・化学的生物学的性質などの概念が使われている。「現実態と可能態」などトマス独自の説明モデルも自然哲学に基づいているという。
 ギリシャ的古代の世界像をそのまま引き継いでいる例は他にもある。世界のすべては4元素からできているとか、三つの「天」が存在するとかなどの説明だ。このような地球中心的な、人間中心的な、静的なコスモス理解から、キリスト教の救済秩序、世界秩序の説明モデルが作り上げられた。

 トマスの神学の基礎は、「聖書と理性と古代的世界観」だ。だから、もしこの古代的世界観が崩されたら、トマスの神学も崩される。古代的世界観は近代科学の登場の前に崩れ去っていく。「この崩壊は、コペルニクス的革命の結果として、また数学と実験化学の勝利の結果として起こった」(178頁)という。

 キュンクはトマス神学の弱点または欠陥を、女性の地位と役割に関するトマスの考えを例に取り上げて批判的に検討する。細かい議論なので詳細は省くが、キュンクはトマスを女性の敵だときめつけているわけではない。だが、基本的には、トマスはアウグスチヌス的な女性の「低評価」をさらに強めているという。女性を「欠損のある、失敗した男性」とみなしている。旧約聖書では女性にも預言の賜物が与えられていたのに、中世の女性は教会の中で何も発言していない、発言を許されていないという。

 キュンクはさらに批判を続ける。トマスは、「女性の叙階」に否定的だった。「女性の説教」にも否定的だった(5)。民数記とかコリント前書を持ち出して、アリストテレスを持ち出して、女性の地位と役割に否定的見解を持っていた。半分冗談で言うならば、トマスは、「芸術と子どもと女性」については何も知らなかった、と言われているようだ。

 こういう性差別に近いような見解は、トマス独自のものというよりは、「時代的制約」であるともいえる。だからこれをもってトマスに否定的判決を下す、全否定することは行き過ぎともいえよう。だが、キュンクはまだ追及の手を緩めない。トマスの最後の欠陥、教皇首位主義の擁護を俎上に載せる。

Ⅸ 一つの宮廷神学 ー 教皇首位主義の擁護

 キュンクは、トマス神学の革新性と偉大さを十分強調した後で、それでもトマスは教皇中心主義の弁護者となり、宮廷神学者になったと批判する。オリゲネスは教会のヒエラルヒーに批判的だった。アウグスチヌスは司教主義者 Episkopalist だった。だがトマスは、教皇ウルバヌス4世、クレメンス4世と親しかったという。ドミニコ会に所属していたから当然といえば当然だが、かれは事実上宮廷神学者だったという。

 トマスは、司教たちのための「司牧的 pastorales」教職とは別に、「教授的 magistrales」教職を要求した。教義のなかに教皇絶対主義を正当化する政治的・法的システムを組み込もうとした。たとえば、アウグスチヌスにとってはキリストへの信仰が教会の基礎であり、ペテロの裁判権が教会の基礎とは思っていなかった。ところが、トマスは、ペトロの人格と職務こそが教会の基礎だと主張した。アウグスチヌスにとっては公会議が最高の権威だったが、トマスは教皇が最高の権威だとした。これは教皇主義的教会論である。ただのローマ司教がカトリック教会の教皇を名乗る根拠である。この教会像こそ、絶対主義的教会システムと世俗的な教皇制を橋渡しする「イデオロギー的基盤」なのだという(183頁)。
 トマスの死後28年、1302年に教皇ボニファティウス8世の「大勅書」が出される。中世の「教皇首位主義」を明確化した古典的文書だ(6)。トマス神学がベースになっているという。

 キュンクは厳しいことをいう。トマス・アクィナスはアリストテレス的カテゴリーと思考によって組織的・思弁的神学を彫琢した。だがそれは「ローマ・カトリック的なパラダイムの教義学的固定化」だったという(184頁)。こういう思弁的なスコラ神学が、その実在論的立場のゆえに、やがて唯名論(7)によって批判され、宗教改革でも批判されていくことになる。

Ⅹ イスラームやユダヤ教徒の対話

 トマス・アクィナスの限界はまだある。イスラムはキリスト教よりも精神的・文化的に優れているのではないか? 当時この恐怖心は強かったらしい。キリスト教の方が優れているという主張を正当化する神学が望まれた。
 トマスのもう一つの限界は、イスラムやユダヤ教との「対話」が十分にはできなかったことだ。トマスは十字軍についてもほとんど語っていない。恐らくイスラムに関しての知識や情報が不十分だったのだろう。
 普通、『対異教大全』はイスラムに対するキリスト教の護教論だといわれる。だがそれがいかに論理的な弁証であっても、それはキリスト教に改宗した人向けの弁証だという。イスラムに向かってではない。つまり、真の宗教間対話ではないという。
 当時クルアーンのラテン語訳はあったが、トマスは恐らく読んでいない。イスラムについての知識は宣教師たちからの耳学問程度だったのかもしれない。ドミニコ会はパレスチナで熱心に活動していたが、トマスは十字軍については何も語らない。12世紀には盛んだったユダヤ人との対話も十字軍やボグロム(8)によって途絶えていたようだ。

ⅩⅠ 『神学大全』中断の謎

 これは有名な話なので私でも知っているが、『神学大全』は第3部の悔悛のサクラメントを論じている途中で突然中断している。謎としていまでも理由はわからないらしい。トマスの有名な言葉が残っている。「わたしにはもうできない。なぜなら、私が書いたすべてのことが、私にはわら屑のように思えるからだ」という。かれは突然執筆を放棄したのだ。かれには何人も秘書がいた。だが4ヶ月後に死ぬまで、何も書いたり口述したりしなかったという。

 かれは教皇グレゴリゥス10世の要請でリヨンの公会議に出かけた。途中でシトー会の修道院で死去する。だがドミニコ会の上長はだれも埋葬に立ち会わなかったという。

 キュンクは、トマスは偉大だったという。その理由はかれが巨大な思想的業績を成し遂げたからだけではない。それ以上に、彼が自分自身の神理解の限界にも常に気づいていたからだという。キュンクは次の(トマスの)言葉でトマス・アクィナス論を閉じている。
「それゆえに人間の神認識の究極は、人間が、自分は神を知らないということを知ることである」。

1 この註解は枢機卿ケタヌス・デ・ヴィオによる。1518年のアウグスブルク帝国議会でマルチン・ルターの査問をした人物である。
2 カト研の皆さんは、ジョンストン師が、神学校での(1940年代)このスコラ神学に基づく授業が楽しくなかったとよくぼやいておられたのを覚えておいでだろう。師が嫌いだったのは、第一にチャーチル英首相(日本人に人気があることが信じられなかったらしい)、第二にこの手の授業だったという(Mystical Journey,2006, p.77ff.)。日本での食事はご飯とお酒だから、パンとぶどう酒の代わりにお餅と日本酒を捧げてもよいかのかと聞いたらこっぴどくしかられたというような冗談をよくしておられた。1950年代頃の話らしい(同上、p.71)。ちなみに師は、トマスを神秘家(神秘主義者)として描いており、また、オリゲネスもきちんととりあげて雅歌にかんする注釈を説明している(『愛と英知の道』2017 第3章)。
3 邦訳では『世界カテキズム』となっているが、Catechismus Catholicae Ecclesiae のことであろう。日本のカトリック中央協議会はこれの1997年「規範版」を『カトリック教会のカテキズム』として2002年に邦訳している。現在の日本のカトリック教会のもっとも権威ある規範であり、解説書と言ってよいであろう。
4 例えば恩寵の区別はあまりにスコラ的だ。「作用的恩寵・補助的恩寵・先行的恩寵・後続的恩寵・習慣的恩寵・活動的恩寵」などの区別はルターの時代には既に意味を持たなくなっていたという。
5 信徒が説教をするという「信徒説教」はこの時代大きなテーマであったらしい。異端論争のテーマであったのであろう。現在は、信徒説教を許すプロテスタント会派もあるようだが、現在のカトリック教会では信徒は説教は許されない。
6 教皇は「教会において全権を有する」、「信仰の何たるかを規定するのは教皇の仕事である」、「ローマ教皇に従属することが救いのために必要である」、などなどの命題はここに明文化されているという。
7 唯名論 nominalism とは、「普遍論争」で、「普遍」が「事物」の側ではなく「言語」の側にあるとする立場。普遍論争は、普遍が実在するかどうかをめぐる中世の論争。たとえば、「人間」とか「動物」という「普遍」が存在するとみなすかどうかが問われる。「普遍」が「実在」しなければ、「原罪」や「教会」の存在理由が問われるので、キリスト教にとっては大問題だったようだ。オッカム(1285-1347 英 フランシスコ会)によるトマス・アクィナス批判が中心で、「概念」こそ普遍だとした。言語論や記号論につながっていく。
8 「ボグロム」は普通19世紀のユダヤ人追放を指す言葉のようだが、キュンクはこの時代のユダヤ人迫害の意味で使っているようだ。

 

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スコラ神学の完成 ー トマス・アクィナス(1)

2020-03-01 17:36:32 | 神学

 神学講座2020の4人目はトマス・アクィナス(Thomas  Aquinas)である 。
今日は四旬節第一主日だったが、コロナヴィルス騒ぎでごミサの出席者はいつもより少なかった。神父様も、主日ミサは休まず挙げるが無理してご聖体に与らなくともよいと言っておられた。
 この第4章のタイトルは 「トマス・アクィナス ー 大学の学問と宮廷神学」となっている。知らない人のいないトマス・アクィナスである。カトリック教会では最も影響力の大きい、または、大きかった神学者であろう。山本耕平は「最大のキリスト教哲学者・神学者」と評している(岩波哲学・思想事典)。

 だが、キュンクのトマス・アクィナス論は少し異なり、興味深い。トミズム(トマス主義神学)をただ解説したり、賛辞を並べているだけではないのだ。特に、トミズムと新トミズム(スコラ神学、新トマス主義神学)の区別、スコラ神学批判が背景にあることが聞こえてくる。

 トマス・アクィナス(1225-1274)はシチリア公国(ナポリ)出身だが、ローマで活躍する。だが、それ以前にパリおよびケルンで勉強しており、その時の影響は大きいらしい(1)。所属はドミニコ会。ベネディクト会ではない(2)。時代は十字軍とイスラムで揺れていたが、なぜか十字軍への細かい言及はないようだ。

 トマス・アクィナスの神学はアウグスティヌスとアリストテレスの二本立てだ。だがそのあまりにも鋭い主張により、かれの神学は「異端宣告」されていた。もちろんやがてこの異端宣告と破門は解除されるが、かれの神学は対抗宗教改革を目指したトリエント公会議においてさえ(1545-63)主導的ではなかった。ネオトミズム(新トマス主義)として復権するのはなんと600年後の第一バチカン公会議(1869-1870)なのだ。レオ13世の「トマス回勅」(1879)がスコラ主義を不動の神学にする。だがさらに100年後の第二バチカン公会議(1962-65)ではスコラ主義は実質的に影響力を失う。トマス・アクィナスの神学史上の評価は難しい。キュンクはかれをどのように位置づけるのだろうか。


 

Ⅰ 生活世界と生活様式の変化

 アクィナスの神学はアウグスティヌスの神学とアリストテレスの哲学なしには存在しない。アウグスティヌスの神学は5世紀から13世紀までの中世の神学を支配した。アリストテレスはキリスト教中世に発見されることで、トマスの哲学に決定的な影響を与え、神学を学問として成立させた。
 トマスの世紀は13世紀だったが、この世紀は教育の中心として「修道院」が解体消滅し、「大学」が学問の中心となった。大学での学問としての神学、これがアクィナス神学の特徴だ。

 トマスは、1225年に、ローマとナポリの中間に位置するロッカセッカという城で生まれたという。貴族の名門だ。しかし皇帝と教皇の間の戦争が勃発したためナポリに移住する。わずか五歳で修道院に預けられる。トマスはナポリでアリストテレスの自然学の存在(3)を知っただろうが、アリストテレスの著作はまだ教会では禁止されていた。19歳でドミニコ会に入会する。
 ドミニコ会は当時フランシスコ会と並ぶ托鉢修道会だが、「説教者修道会」(Ordo fratrum Praedicatorum OP と略す)だ。説教者修道会では異端に対抗するため、聖書をよく学ぶ。トマスは自分を終生「聖書の教師」と呼んでいたという。禁欲的で、信心深い修道士だったのだろう。このトマスがどうして「信仰深くない」アリストテレスと和解することが出来たのだろうか。

Ⅱ 危険なアリストテレス

 トマスの生きた13世紀は「第二のルネッサンス」(「12世紀ルネッサンス」)の流れのなかにある。中心はパリだ。アリストレレスが翻訳される。今までのアラビア語からの重訳ではなく、ギリシャ語から直接ラテン語へ翻訳された。中世におけるアリストテレスの発見は普通アルベルト・マグヌス(1200-1280)とトマス・アクィナスに帰される。トマスはパリでマグヌスに出合う。生涯の師だ。やがて師と共にケルンに行き、叙階される。
 アリストテレスはまだ教会の禁書命令を解かれていない。アリストテレスは危険と見なされていた。かれは経験的なもの、見える現実に集中し、神や啓示はおろそかにされた。神の摂理による歴史ではなく、歴史の暗黒部分の不可避性を説いていた。教会は許さない(4)。だが中世の第二のルネッサンスを生きる知的好奇心を持つ若者を抑えることは出来ない。トマスも例外ではなかった。

 トマスは神学者でありかつ哲学者であった。アリストテレスの「復元」を意図したのではなく、「変換」が意図された。トマスはアリストレレスにならって、「下からの、経験的な思考」を自分の自然学的・哲学的思考の方法とした。かれのアリストテレス註解である。アリストテレス的な哲学的思考方法と、アウグスティヌス的な神学的思考方法を明確に区別すること、これがトマス神学の基礎を構成していく。

Ⅲ 神学 ー 理性的な大学の学問

 長く教会を支配してきたアウグスティヌス神学はこの時代危機に瀕していた。信仰について従来の権威に頼るだけでは信徒を導いていけなくなっていた。聖書・教父・公会議・教皇たちが従来言ってきたことは実は互いに矛盾していることがいろいろな事件のなかで明らかになってくる。もっと明確な、一貫性のある説明が必要になっていた。それは「理性」を用いた説明、「概念分析」を用いた説明でなければならない。トマスは論理性と客観性をもって神学を再構築した。

 トマスの神学は、従来の修道院的・観想的な神学とは異なる。それは「理性的な大学の神学」という形をとった。トマスの神学は、「スコラ」において、つまり、「学校」において、学生や同僚たちに向けて語られた。一般信徒にむけての神学という性格は弱かった。すべてラテン語で著されている。それは「スコラ的」である。分析的で、明確な概念規定と形式的区別(無数の区分と下位区分)をおこない、異論と答えがあり、弁証・討論の手段を持っている(6)。

 トマス神学はこのように「スコラ的」だったが、それは学問のための学問ではなかった。かれは神学者であり、「神について責任を持って語る」ことを忘れることはなかった。つまり、トマス神学は「新しい哲学的・神学的な総合」(164頁)を作り上げた。それは二つの「スンマ」(大全・総合)から成っている。一つは異教に対するスンマ(異教大全)であり、他はキリスト教信仰に関するスンマ(神学大全)である。
 なぜ、この二つなのか。なぜこのように二つに「分割」、分類するのか。それは、オリゲネスも、アウグスチヌスも認めなかった二分割である。

Ⅳ 理性の力の発見

 トマスというといつも「知と信」の区別とか「理性と信仰」の区別をしたとか、「恩寵は自然を完成する」と言ったとか、決まり文句のように出てくる。お経のように唱えるだけではなく、中身はなんなのか。キュンクはどのように説明しているのだろうか。

 理性と信仰の区別はトマス以前からもずっとなされていたはずだ。ではトマスの独自性はどこにあるのか。従来の神学は「信仰の傍らに理性の権限」を証明していた。信仰が第一だった。トマスは逆だ。「理性の傍らに信仰の権限を rationem fidei 」証明する必要があると考えた。これは「知と信」の関係を根本的に考え直すことを意味していた。

 トマスは哲学は神学の傍らで独自の存在意義を持つと考えた。教会が認めていたからではない。教会はむしろ否定的だった。だがトマスは「創造の秩序からして」、人間に理性を備えさせてくれたのは神であり、神は「学問の主」であり、学問は「神の娘」であると考えた。これは当時の神学全体の「方向転換」を意味していたという(165頁)。哲学的な真理は啓示された真理と同一だという従来の思想からの脱却を意味する。キュンクはトマスの貢献として具体的には以下の3点を指摘する。

①被造的なもの、経験的なものへの方向転換
②理性的分析への方向転換
③学問的研究への方向転換

 これはつまり神学に「方法的基盤」を持たせることだ。神学に「理性的基盤」を持たせることだ。これがトマスの学問論を作っていく。

①人間は二つの認識方法を持つ: 自然理性が可能にする事柄と、恩寵による信仰が可能にする事柄を厳密に区別すること
②人間の認識レベルには二つある:人間が「下から」経験の地平で認識する事柄と、「上から」聖書を通して認識する事柄である 自然的真理と超自然的真理の区別と言っても良い
③従ってこれらに対応する二つの学問がある:哲学と神学である 前者のために「アリストテレス註解」があり、後者のために「聖書註解」がある

 トマスにおける人間の理性への信頼。神の存在、属性、摂理さえ自然的真理であり、神の啓示が無くとも理性からのみ認識できると考えた。すさまじい思想である。

 では信仰はどうなのか。信仰は、啓示の真理を受容するために要求される。三位一体とか、神が人になったとかいう真理は人間の理性を超えている。これらは、理性的には証明できない超自然的真理だ。だがこれらは、理性的に反証されうるような非理性的な真理とは混同されてはならない。

Ⅴ 二つのスンマと一つの形成原理

 トマスは、神認識に関するこの二つの方法、理性と信仰、哲学と神学を統合している。アウグスティヌス的な「我、信ず、認識せんがために credo, utintelligam 」に対して、トマスは「我、認識す、信ぜんがために intelligo, ut credam 」の主張を前面に出してくる。
 この統合は、しかし、並列的で「平屋」ではない。「2階建ての建物」であって、信仰が二階にあり、認識は2階から出発する。だから、600年後に、第一バチカン公会議(1860)における信仰と理性の関係に関する規定は「新スコラ主義的」「新トマス主義的」におこなわれることになった。トマス・アクィナスは、「神学のために中世的・ローマカトリック的なパラダイムの成熟した古典的完成形を作り出した」(168頁)のだという。このパラダイムはキュンクによれば以下のようになる。

①信仰より理性
②比喩的・霊的な意味より文字通りの聖書の意味
③恩寵より自然本性
④キリスト教的モラルより自然法
⑤神学より哲学
⑥本来的にキリスト教的なものより人間的なもの

 ここから導き出されたのが、二つの巨大なスンマ(総合的表現)である『対異教大全』と『神学大全』である。なぜ一つのパラダイムから二つのスンマが生まれるのか。それは、二つのスンマは異なる目的に仕え、異なるレベルで遂行されているからだという。

『対異教大全』
 この書はイスラム(ユダヤ教徒や異端者も含む)と対決しているキリスト者向けに書かれたという。ギリシャ的・アラビア的世界観に対抗する護教的・宣教的な総合的展望の書だという。イスラムに対して、旧・新約聖書をベースには議論が出来ない。聖書の理解が異なる。だから、「自然的理性」に遡って議論する必要がある。理性の判断にはすべての人間が、イスラムでさえも、賛同するはずだからである(5)。

『神学大全』
 この書は、神学の「初心者」にむけて書かれているという。「聖なる教え」について教会の中で教育的目的を持って書かれた手引き書だという。理性的な議論(「討論」と呼ばれる)が中心だが、聖書の使信が、キリスト教信仰が、常に前提とされているという。ギリシャ哲学的な概念を用いながら、キリスト教的な神について人格的に語っている。ここでは、神は、「至高の存在」「存在そのもの」「最大の真」「真理そのもの」「最高善」などと呼ばれているという。


1 といっても、ドイツ語にもフランス語にも全く興味を示さなかったらしい。ラテン語だけで十分だったのであろう。
2 修道会の話はカトリック信者以外にはあまり興味をひかないだろう。現在は修道会は活動修道会と観想修道会に区分するのが普通のようだ。昔の観想修道会は黙想中心だし、教育や宣教に力を入れる修道会は活動修道会になる。修道会はベネディクト修道会が最も古いと言われるが、当初は大規模土地所有と寄進に依存し、観想中心とはいえ堕落するのは時間の問題だったのだろう。改革を目指して托鉢修道会が生まれてくる。文字通り托鉢で生きていたようだ。ドミニコ会、フランシスコ会、カルメル会などだ。
 といっても托鉢修道会も変貌し(堕落し)、神学研究は大学に移っていく。最近久しぶりに面白い本を読んだ。『聖者のかけら』(川添愛著、新潮社、2019)。「歴史ミステリー」と帯には書かれているが、13世紀の、トマス・アクィナス(ドミニコ会)・ボナベントウラ(フランシスコ会)登場直前の13世紀イタリアにおけるドミニコ会とフランシスコ会の争いを場面にしたスリラー風の歴史小説だ。トマスもチラリと登場する。タイトルは曖昧だが聖フランシスコの聖遺物をめぐる話だ。小説好き、歴史物好きには好まれるだろう。
 今日の日本では教育・宣教に力を入れるイエズス会の名前はよく知られていよう。カトリック信徒にはこれらの修道会の性格の違いは神父様やシスターを通してなじみ深いが、信者以外の人にはその違いははっきりしないかもしれない。重要なのは、歴史的経緯は抜きにして建前だけで言えば、違いは「創立者の霊性」の違いであり、教義の違いでは無いことだ。したがって修道会はプロテスタントに見られるような宗派や会派や教団ではない。インド・アジア・日本における仏教の発展と変貌の歴史を考えると、その類似性と違いが思い起こされる。
3 自然学または自然哲学とは物理学に発展する以前の自然に関する定性的学問のことを指すらしい。アリストテレス風に言えば、哲学は自然学・論理学・倫理学の三本立てから成っていたようだ。
4 教皇ウルバヌス4世は1263年になってもまだアリストテレスの著作を学ぶことを改めて禁止したという。
5 本書の訳者である片山寛氏は、キュンクのこの評価に関して異論を唱えている(342頁)。専門家のなかで定着した評価とは言えないのかもしれない。
6 「討論」とは一般的なdiscussionという意味ではない。中世の大学で用いられた授業の形態のことで、「項」がとる「形式」のことをいう。スコラ哲学を読んだことのある人には繰り返しになるが少し触れておきたい。討論はつぎのような形式をとる。弁証法である。

第x項  A は B であるか (例えば第2問第1項は 神在りと言うことは自明であるか )
 A は B でないと思われる。そのわけは、
1 (異論1)・・・
2 (異論2)・・・
3 (異論3)・・・
しかし反対に、(反対異論)・・・
答えて言わなければならない (主文)
・・・・・・・・
それゆえ、
1 についていわなければならない。 (異論答え1)・・・
2 についていわなければならない。 (異論答え2)・・・
3 についていわなければならない。 (異論答え3)・・・

 こういう対話形式のやりとりを討論という。こういうやりとりが何十問と続くのだから本当に読みづらい。「項」と「主文」だけを読めばよさそうだが、「異論」や「反対異論」や「異論答え」のなかにトマスの主張が入っていて全面否定ではないので、結局は読む羽目になる。私は、「~についてトマスは何と言っているのだろう」と疑問に思うときに読む程度の忍耐力しか無い。(山田晶訳『神学大全 Ⅰ・Ⅱ』中央公論新社 2014)

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