スコラ神学はトマス・アクィナスによってほぼ完成された。だがこのスコラ神学は中世の神学を支配し続けたわけではない。ボナヴェントゥラ(Bonaventura, 1221 - 1274)、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus、1266年 - 1308)と続くフランシスコ会の影響力は大きかった。アウグスティヌス神学の影響力が残っていた。スコラ神学はルネッサンス期、宗教改革期には批判の的だった。ネオトミズムとして復権してくるのは実に19世紀のことである。
Ⅵ 新しい神学ー最初は異端視されて
『神学大全』はスコラ神学の完成形だった。だがこれはキリスト教の福音をアリストテレスの概念論に引き渡してしまったことではないのか。同時代のアウグスティヌス主義を奉じる神学者からは、トマスは「モダニスト」(伝統破壊者)とみなされ、異端視されていった。トマスは死後3年でパリ司教から「異端宣告」されてしまうのだ。
もちろんこの異端宣告は、死後49年でトマスが列聖されると共に取り消される。だからキュンクは、トマスは「カトリックの代表にはほど遠い」(172頁)という。実際、『神学大全』の一部(Ⅱ部)の註解が現れるのは15世紀で、すべての註解がでるのは16世紀だという(1)。
トマスが再び登場するのは19世紀である。第一バチカン公会議(1869-70)以降、教皇たち
は自らを正当化するためにトマスを持ち出した。「ネオ・トミズム」の登場である。1879年にレオ13世はいわゆる「トマス回勅」によって、トマスをすべての学校の守護聖人に任命し、新しいトマス全集を出した。1917年には、カトリック学校の哲学と神学は「天使的博士(トマス・アクイナスのこと)の方法・教説・原理によっておこなわれる」と法的に規定された(2)。『神学大全』の註解は300を超えたという。
だが、第二バチカン公会議(1962-65)ではトマスはほとんど役割を果たさなかった。それ以降トミズム中心の学校や神学校は存在しなくなった。
ところがキュンクは、1980年代以降トマスが再び「特に推奨されてきている」という(173頁)。1992年にだされた『カトリック教会のカテキズム』では、アウグスティヌス(88回)、ヨハネ・パウロ二世(137回)とならんでトマス・アクィナスが63回引用されているという(3)。キュンクは、教会の保守化の過程でトマスが復権しつつあると言いたいのだろうか。
キュンクは、トマス・アクィナスは「壮大な新しい神学的総合を成し遂げた」と高く評価する。だが同時に問う。「トマスは本当に神学の新しいパラダイムを創出したのだろうか。答えは否である。」(173頁)。なぜか。なぜ新らしいパラダイムを提出できなかったのか。
Ⅶ 問題の多いアウグスティヌスへの依存
トマス・アクィナスはなぜアウグスティヌスやルターのように神学に新しいパラダイムを提出できなかったのか。キュンクはそれはかれが根本的な「限界と欠点」を抱えていたからだという。なかなか手厳しい。キュンクは二つの理由をあげている。
第一はトマスがアウグスティヌス神学に縛られたまま、それを「修正はしたが解体はしなかったこと」、第二はアリストテレスを導入したことによって逆に「ギリシャ的・古代的な世界観に囚われていた」からだという。
第一のアウグスチヌスへの依存とは何か。結局はアウグスチヌスの「原罪」観を引き継いでいる。「煉獄」の教理もそのままだ。また、恩寵の物象化論(「被造的恩寵」)(4)もそのままだ。恩寵はなにか「超自然的な流体または動力燃料のようなものと理解されている」(175頁)という。三位一体論の欠陥(唯一の神的本性論)もそのままだという。
Ⅷ 古代の世界観 ー テストケースとしての女性の地位の問題
第二の限界とは、トマスの神学がアリストテレスが持っていた「ギリシャ的・古代的世界像に囚われていた」ことだという。トマスの神学的説明は、形而上学的というよりは、アリストテレスの自然学から導き出されているという。たとえば、重力・光・熱・化学的生物学的性質などの概念が使われている。「現実態と可能態」などトマス独自の説明モデルも自然哲学に基づいているという。
ギリシャ的古代の世界像をそのまま引き継いでいる例は他にもある。世界のすべては4元素からできているとか、三つの「天」が存在するとかなどの説明だ。このような地球中心的な、人間中心的な、静的なコスモス理解から、キリスト教の救済秩序、世界秩序の説明モデルが作り上げられた。
トマスの神学の基礎は、「聖書と理性と古代的世界観」だ。だから、もしこの古代的世界観が崩されたら、トマスの神学も崩される。古代的世界観は近代科学の登場の前に崩れ去っていく。「この崩壊は、コペルニクス的革命の結果として、また数学と実験化学の勝利の結果として起こった」(178頁)という。
キュンクはトマス神学の弱点または欠陥を、女性の地位と役割に関するトマスの考えを例に取り上げて批判的に検討する。細かい議論なので詳細は省くが、キュンクはトマスを女性の敵だときめつけているわけではない。だが、基本的には、トマスはアウグスチヌス的な女性の「低評価」をさらに強めているという。女性を「欠損のある、失敗した男性」とみなしている。旧約聖書では女性にも預言の賜物が与えられていたのに、中世の女性は教会の中で何も発言していない、発言を許されていないという。
キュンクはさらに批判を続ける。トマスは、「女性の叙階」に否定的だった。「女性の説教」にも否定的だった(5)。民数記とかコリント前書を持ち出して、アリストテレスを持ち出して、女性の地位と役割に否定的見解を持っていた。半分冗談で言うならば、トマスは、「芸術と子どもと女性」については何も知らなかった、と言われているようだ。
こういう性差別に近いような見解は、トマス独自のものというよりは、「時代的制約」であるともいえる。だからこれをもってトマスに否定的判決を下す、全否定することは行き過ぎともいえよう。だが、キュンクはまだ追及の手を緩めない。トマスの最後の欠陥、教皇首位主義の擁護を俎上に載せる。
Ⅸ 一つの宮廷神学 ー 教皇首位主義の擁護
キュンクは、トマス神学の革新性と偉大さを十分強調した後で、それでもトマスは教皇中心主義の弁護者となり、宮廷神学者になったと批判する。オリゲネスは教会のヒエラルヒーに批判的だった。アウグスチヌスは司教主義者 Episkopalist だった。だがトマスは、教皇ウルバヌス4世、クレメンス4世と親しかったという。ドミニコ会に所属していたから当然といえば当然だが、かれは事実上宮廷神学者だったという。
トマスは、司教たちのための「司牧的 pastorales」教職とは別に、「教授的 magistrales」教職を要求した。教義のなかに教皇絶対主義を正当化する政治的・法的システムを組み込もうとした。たとえば、アウグスチヌスにとってはキリストへの信仰が教会の基礎であり、ペテロの裁判権が教会の基礎とは思っていなかった。ところが、トマスは、ペトロの人格と職務こそが教会の基礎だと主張した。アウグスチヌスにとっては公会議が最高の権威だったが、トマスは教皇が最高の権威だとした。これは教皇主義的教会論である。ただのローマ司教がカトリック教会の教皇を名乗る根拠である。この教会像こそ、絶対主義的教会システムと世俗的な教皇制を橋渡しする「イデオロギー的基盤」なのだという(183頁)。
トマスの死後28年、1302年に教皇ボニファティウス8世の「大勅書」が出される。中世の「教皇首位主義」を明確化した古典的文書だ(6)。トマス神学がベースになっているという。
キュンクは厳しいことをいう。トマス・アクィナスはアリストテレス的カテゴリーと思考によって組織的・思弁的神学を彫琢した。だがそれは「ローマ・カトリック的なパラダイムの教義学的固定化」だったという(184頁)。こういう思弁的なスコラ神学が、その実在論的立場のゆえに、やがて唯名論(7)によって批判され、宗教改革でも批判されていくことになる。
Ⅹ イスラームやユダヤ教徒の対話
トマス・アクィナスの限界はまだある。イスラムはキリスト教よりも精神的・文化的に優れているのではないか? 当時この恐怖心は強かったらしい。キリスト教の方が優れているという主張を正当化する神学が望まれた。
トマスのもう一つの限界は、イスラムやユダヤ教との「対話」が十分にはできなかったことだ。トマスは十字軍についてもほとんど語っていない。恐らくイスラムに関しての知識や情報が不十分だったのだろう。
普通、『対異教大全』はイスラムに対するキリスト教の護教論だといわれる。だがそれがいかに論理的な弁証であっても、それはキリスト教に改宗した人向けの弁証だという。イスラムに向かってではない。つまり、真の宗教間対話ではないという。
当時クルアーンのラテン語訳はあったが、トマスは恐らく読んでいない。イスラムについての知識は宣教師たちからの耳学問程度だったのかもしれない。ドミニコ会はパレスチナで熱心に活動していたが、トマスは十字軍については何も語らない。12世紀には盛んだったユダヤ人との対話も十字軍やボグロム(8)によって途絶えていたようだ。
ⅩⅠ 『神学大全』中断の謎
これは有名な話なので私でも知っているが、『神学大全』は第3部の悔悛のサクラメントを論じている途中で突然中断している。謎としていまでも理由はわからないらしい。トマスの有名な言葉が残っている。「わたしにはもうできない。なぜなら、私が書いたすべてのことが、私にはわら屑のように思えるからだ」という。かれは突然執筆を放棄したのだ。かれには何人も秘書がいた。だが4ヶ月後に死ぬまで、何も書いたり口述したりしなかったという。
かれは教皇グレゴリゥス10世の要請でリヨンの公会議に出かけた。途中でシトー会の修道院で死去する。だがドミニコ会の上長はだれも埋葬に立ち会わなかったという。
キュンクは、トマスは偉大だったという。その理由はかれが巨大な思想的業績を成し遂げたからだけではない。それ以上に、彼が自分自身の神理解の限界にも常に気づいていたからだという。キュンクは次の(トマスの)言葉でトマス・アクィナス論を閉じている。
「それゆえに人間の神認識の究極は、人間が、自分は神を知らないということを知ることである」。
注
1 この註解は枢機卿ケタヌス・デ・ヴィオによる。1518年のアウグスブルク帝国議会でマルチン・ルターの査問をした人物である。
2 カト研の皆さんは、ジョンストン師が、神学校での(1940年代)このスコラ神学に基づく授業が楽しくなかったとよくぼやいておられたのを覚えておいでだろう。師が嫌いだったのは、第一にチャーチル英首相(日本人に人気があることが信じられなかったらしい)、第二にこの手の授業だったという(Mystical Journey,2006, p.77ff.)。日本での食事はご飯とお酒だから、パンとぶどう酒の代わりにお餅と日本酒を捧げてもよいかのかと聞いたらこっぴどくしかられたというような冗談をよくしておられた。1950年代頃の話らしい(同上、p.71)。ちなみに師は、トマスを神秘家(神秘主義者)として描いており、また、オリゲネスもきちんととりあげて雅歌にかんする注釈を説明している(『愛と英知の道』2017 第3章)。
3 邦訳では『世界カテキズム』となっているが、Catechismus Catholicae Ecclesiae のことであろう。日本のカトリック中央協議会はこれの1997年「規範版」を『カトリック教会のカテキズム』として2002年に邦訳している。現在の日本のカトリック教会のもっとも権威ある規範であり、解説書と言ってよいであろう。
4 例えば恩寵の区別はあまりにスコラ的だ。「作用的恩寵・補助的恩寵・先行的恩寵・後続的恩寵・習慣的恩寵・活動的恩寵」などの区別はルターの時代には既に意味を持たなくなっていたという。
5 信徒が説教をするという「信徒説教」はこの時代大きなテーマであったらしい。異端論争のテーマであったのであろう。現在は、信徒説教を許すプロテスタント会派もあるようだが、現在のカトリック教会では信徒は説教は許されない。
6 教皇は「教会において全権を有する」、「信仰の何たるかを規定するのは教皇の仕事である」、「ローマ教皇に従属することが救いのために必要である」、などなどの命題はここに明文化されているという。
7 唯名論 nominalism とは、「普遍論争」で、「普遍」が「事物」の側ではなく「言語」の側にあるとする立場。普遍論争は、普遍が実在するかどうかをめぐる中世の論争。たとえば、「人間」とか「動物」という「普遍」が存在するとみなすかどうかが問われる。「普遍」が「実在」しなければ、「原罪」や「教会」の存在理由が問われるので、キリスト教にとっては大問題だったようだ。オッカム(1285-1347 英 フランシスコ会)によるトマス・アクィナス批判が中心で、「概念」こそ普遍だとした。言語論や記号論につながっていく。
8 「ボグロム」は普通19世紀のユダヤ人追放を指す言葉のようだが、キュンクはこの時代のユダヤ人迫害の意味で使っているようだ。