カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

宗教改革はいつ始まったのか ー マルチン・ルター(1)

2020-03-15 13:13:26 | 神学

 新型コロナウイールス感染拡大問題で、主日のミサは中止となっている。お聖堂のご聖体訪問は可能なので一応おしゃべりに集まる。昨日は当地は牡丹雪が初雪だったのに、桜が咲くという。
 キュンクのルター論である。このおしゃべりの会(神学講座2020)にもルター好きの人がいる。ルターの神学だけでなく、クラナッハ(父)の絵が好きだとか、バッハの音楽が好きだとか言う人たちだ(1)。

 


 本章の副題は「パラダイム変換の古典的事例としての福音への回帰」である。ルターは、伝統的な教会と神学から別れ、福音に回帰し、新しい義認論というパラダイム変換を引き起こしたという主張がなされる(2)。とはいえ、キュンクによると、ルターは宗教改革では特に新しいことをしたわけではなかった。神学のパラダイム変換を実現した「時代の男」だったという(3)。

Ⅰ なぜルターの宗教改革に至ったのか

 宗教改革はすぐそこに来ていた(4)。だが時代はまだ熟していなかった。宗教改革という世界史的パラダイム変換を準備したものは何だったのか。キュンクは背景を4点指摘している。

①ローマ教皇の世界支配の頓挫、東西教会の分裂、教皇庁の分裂(アヴィニョン・ローマ・ピザ)、仏・英・西での国民国家の勃興
②改革を目指した公会議(コンスタンツ・バーゼル・フィレンツェ・ラテラノ)の失敗
③貨幣経済の登場、印刷術の発明、教育と聖書への憧れの普及
④教皇庁の中央集権制・非道徳性、聖ペテロ教会新築のための贖宥状の販売

 アルプス以北でも、教皇庁の支配は機能麻痺を起こしていた。

①反動的教会制度(利息の禁止・教会は免税・教会が司法権を持つ・聖職者による教育の独占・秩序無き喜捨の奨励・多すぎる教会の祭日)
②教会法を使って教会と神学が幅をきかせすぎた
③大学の学問の自覚が高まり(パリ)、教会に批判的になる
④領主司教や修道院の世俗化、聖職者独身制の矛盾の露出
⑤先進的な教会批判者たちの登場(ウィクリフ・フス・マルシリウス・オッカム・人文主義者たち)
⑥中世的な教会と社会の危機の高まり(民衆の迷信依存・うわべだけの典礼と民間信仰(謝肉祭・聖人崇拝)・働かない修道士や聖職者への憎悪・搾取された農民の絶望感)(5)

 これらはパラダイム変換登場の準備・背景ではあったが、まとまった動きには成っていなかった。1人の修道士の登場を待っていた。新しいパラダイムを、信頼に足るパラダイムを、提示したのが、チューリンゲンのアイスレーベンで生まれた、マルチン・ルター(1483-1546)である。

Ⅱ 基本的な問い ー 神の前でいかにして義認されるか

 ルターは1505年に22歳で修道院入りした。では「罪人の義認」という新しい理解がルターのなかに何時生まれたのか? これは「宗教改革の勃発」の日付をいつに求めるかという重要な問題らしい
(6)。日付も大事だが、もっと大事なのはその内容だ。

 ルターが宗教改革で問題にしたのは、(日本の教科書がよく言う)「教会の堕落」ではない。「救済」が問題だった。ルターは修道院で「生の危機」の中にいた。どれだけ熱心に修道生活に没頭しても(唱祷・ミサ・告解・大斎・悔悛)、自分の救いと滅びへの問いかけを静めることが出来なかった。かれはあるとき突然ロマ書のなかに「義認」という考えを見いだしたようだ。神の前で義とされること、それは人間が敬虔だからではなく、ひとえに神の恩寵による。この恩寵は、人間がただ信仰において神に信頼するときにのみ許される。ルターは三つの対神徳(信・望・愛)(7)のなかで信仰を最重要視した。信仰によって罪ある人間が神の義を受けると考えた。これは神学的には決定的に重要な指摘であり、発見だった。
 この義認論の覚醒のあとに「教会批判」が出てくる。教会批判の中から義認論が生まれたのではない。かれは、福音から逸脱し、世俗化し、律法化されてしまったサクラメント、教職制、伝統的教えを徹底的に批判した。
 だが、ルターはカトリックを「批判」はしたが、「断絶」したわけではないという。ルター神学のカトリック神学との「連続性」と「非連続性」の両方を見なければならない。

Ⅲ カトリック的ルター

 ルターの義認論は、それ以前のカトリック神学と結びついている。連続性があるという。キュンクは4点あげている。

①カトリック的敬虔
伝統的カトリック信仰はルターを危機に陥れた。そして、聖書と神の救済意志をルターに教え、指し示したのは、ルターの修道院の上長ヨハンネス・フォン・シュタウピッツだった。
②中世的神秘主義
ルターはクレルヴォーのベルナールの神秘主義に詳しかった。ルターには、神の前で謙遜になること、小さなものとなること、神にのみ栄誉が帰せられる、という「感覚」があった。ルターの義認理解は中世の神秘主義を受けついでいる。
③アウグスチヌス神学
ルターの恩寵の理解はアウグスチヌスとは異なりよりより「人格的」だが、同時に人間の「罪」への視線はアウグスチヌスから受けついでいる。ルターの宗教改革はロマ書1章17節の「神の義」についての独特の理解から始まると言われている。義とは、神の無慈悲な審判ではなく、神の贈り物として理解した。これはアウグスチヌスや中世の神学の遺産である(8)。
④オッカム主義
ルターはその義認論において、オッカム派(唯名論)のペラギウス主義(極端な自由意志論)を批判した。アウグスチヌスと同じだ。だがオッカムの唯名論的神理解の影響も大きいとキュンクは言う。たとえば、恩寵を神の一方的な好意と捉える見方はオッカム的だという。

 つまり、ルターを反カトリックだと「一括して断罪する」ことはできない。ルターの中に中世的・カトリック的伝統が残っているという。

 だがやはりカトリック神学から断絶している思想こそルター神学の特徴だ。ではそれはなにか。キュンクは「贖宥論争」のなかに非連続性をみる。

Ⅳ 宗教改革の火花

 キュンクは、「贖宥論争」を、宗教改革の、必然的原因ではないが、偶発的なきっかけでもなく、「触媒」だった、と述べている。つまり、ものを分解する要素として機能したと説明している。贖宥(9)、つまり、赦された罪の免除なんて、本当に可能なことなのか、誰がそんなことをする権利があるのか。これは当時、すぐれて「神学的」問題だったが、同時に「政治的」問題でもあった。よく知られているように、ルターが問題として取り上げたのは、教皇レオ十世がローマの聖ペテロ大聖堂建築のためにマインツ(ドイツ)の大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクに命じた大々的な贖宥状販売キャンペーンだった。
 ルターによれば、悔悛はサクラメントの中に限定されない。それは生活全体の中でなされるべきだ。罪の赦しは神のみが出来る。教皇の権能ではない。教皇のための壮大な教会を建てるために、高価な贖宥状を買って魂の救いを買い取るなんて、罪人に対する神の自由な恩寵という思想となんと食い違っていることか。「95箇条の提題」である。

 ルターはこの提題をアルブレヒト大司教に送りつけた。1517年10月31日(または11月1日)にヴィッテンベルクの城門の扉に貼り付けたとされているが、これは現在は広く知られているように、ただの伝説にすぎないことがわかっている。だが、1517年が、ルターが教皇と司教の権威を震撼させた偉大の記念の年であることに変わりは無い。この年を宗教改革の開始日とする議論は多い。

 ルターはこの提題を送りつけた初期の段階では「教会と決裂する」意図は持っていなかったという。だが時間の経過の中でかれは「意図せざる改革者」になってしまったという。ルターはこの提題にラテン語で「解説」を付け加えたが、やがてドイツ語で直接民衆に話しかけ、説明していくようになる。
 1918年にルターへの異端審問が始まる。マインツ大司教とドミニコ会からの告発、アウグスブルクへの召喚と尋問。

 この異端審問は、「二つの異なったパラダイム」の全面対決であった。トマス主義者である教皇特使カエタヌスと改革者ルターの対決だ。この対決は、「中世的パラダイムへの回帰」か、「宗教改革的・福音主義的パラダイムへの改宗」か、の二者択一だ。主張撤回か火あぶりかの二者択一の中で、ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ(10)のためにアウグスブルクを退去する。

 ルターは教皇や司教に屈服しなかった。教会会議の開催を教皇に要請した。1919年「ライプツィヒ論争(討論)」がおこなわれる。ルターの論敵はカトリック神学者J・エックだ。3週間以上にわたる論争の中で、エックはルターの教会批判を受け入れる代わりに、論点を教皇の首位権に移していく。そして公会議の不可謬性問題が登場する。ルターは、教皇の首位権(至上権)を否定し、さらに、火あぶりにされたヨハン・フス(10)にも福音的な面があったと述べて、エックの罠にはまる。公会議の不可謬性を否定してしまったのだ。ルターはここでローマの制度的基盤を否定したことになる。偽装したフス主義者だとレッテルが貼られる。
 この異端審問は悲劇的な結末を迎える。翌年1520年「教皇大勅書」が出される。破門と焚書の脅迫だ。危機は先鋭化し、ルターはついにこの勅書を火に投じた。ローマの裁治権や法体系を否定したのだ。1521年ローマはルターに破門状を送る。

長くなったので続きは次稿に譲りたい。


1 ルターは自分でも作曲したというから驚きだ。ルター派の教会(教団)は日本にはいくつかあるようだが、カトリック司教協議会は2017年に日本福音ルーテル教会と一緒に「宗教改革500年共同記念」をおこなっている。
2 Martin Luther 1483-1546  アイスレーベンで「農民または鉱夫の子」として生まれる。「落雷体験」がきっかけでアウグスチヌス会修道士となる(1505 22歳)。1517「95箇条の提題」。1521破門勅書。1525ドイツ農民戦争でミュンツァー(急進派)を批判。自由意志論争でエラスムスと絶交(宗教改革は「エラスムスが卵を産んで、ルターが孵した」)。1530アウクスブルク信仰告白(ルター派の信条)。1541カルヴァンがジュネーブで市政掌握(教会共和国樹立)。1546シュマルカルデン戦争(宗教戦争)。1546アイスレーベンで死去。生涯の活動の地ヴィッテンベルクで埋葬。信仰義認論が神学の中核で、位階制・修道制を否定。「二王国論」(国家と教会)をとる。
 「義認」(義化)とは何度説明されてもしっくりこない言葉だが、ルターにとっては中核的概念だ。この概念についての教説がカトリックとプロテスタントを分裂させてきた根本的契機だ。だからその日本語訳も義認・義化・宣義・称義・成義など多岐にわたる。カトリック教会では「義化」と訳すのが普通だ。英語ではjustification,ドイツ語ではRechtfertigung。辞書的には普通は「神と人との関係が義と認められること」と定義される。この場合の「義」とは「神との正しい関係」のことで、では「正しい」とは何かが問題となる。教科書的には「行為義認論」対「信仰義認論」と言われるように、「律法にかなう生き方」を「正しい」と考えるユダヤ人キリスト教の行為義認論と、「信仰を通して神から授けられる賜物(恩寵)」を「正しい」と考えるパウロ的・ルター的信仰義認論に区別されるようだ。プロテスタントの義認論の神学的テーマの中心は①信仰と行為②福音と律法③義認と完成(救いの確認)だという(『キリスト教組織神学事典』)。カトリック神学は秘跡論が中心なので、ルターのサクラメント論も義認論と並んで議論する必要がある。といっても現在は、この義認論がカトリックとプロテスタントを分断しているのではなく、むしろその解釈において両者は近づいてきているというのが一般的な理解のようだ。
3 訳者の片山寛氏は「訳者あとがき」で、なぜ「ルターではなくカルヴァンを、バルトではなくブルトマンを」選ばなかったのかと嘆いている。キュンクは、色々批判しながらも、ルターやバルトに好意的である。福音の理解の仕方に親近感を感じるのであろう。
4 宗教改革はいつ始まったかという問いは、教科書的には、ルター派で言えば1517年、改革派でいえば1541年と言えそうだが、あまり意味のある答えではない。
5 まるで世界史の教科書みたいな整理である。それにしてもキュンクの舌鋒は鋭い。ちなみに、山川の世界史は社会経済的背景の変動には触れず、「異端運動」を宗教改革の先駆けと位置づけて説明するにとどまっている。あとはもっぱら16世紀ドイツの話である。執筆者の意図がよくわからない書きっぷりである。
6 キュンクは、最近の研究ではどちらかと言えばより遅い日付、つまり、1518年前半に傾いていると言っている。つまり「95箇条の提題」の後ということになる。
7 対神徳とはわかりづらい用語だが、virtus theologica または  theological virtue の訳語。神学的な徳のこと。Ⅰコリント13:13からキリスト教特有の徳とみなされている。倫理的な徳や知的な徳とは異なり、神により恩恵から魂に注入されるとされている(注賦的徳)。なお、四つの枢要徳(正義、知恵、勇気、節制)cardinal virtues とは別である。
8 「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです」(協会共同訳)
9 さすがに最近は、免罪符とはいわず、贖宥状をいう言葉が定着してきた。贖宥とは、「すでに赦された罪に伴う有限な罰の免除」のこと(岩島忠彦・岩波キリスト教辞典)。罪の赦しそのもののことではない。なお、贖宥はカトリック教会では「免償」とも呼ばれる(indulgence)。トリエント公会議は、金銭による贖宥状の販売は禁止したが、その正当性を主張した。現在でも、特に死者のために贖宥を得ることは大事な信心業(祈り・善行・巡礼)として守られている。
10 選帝侯 Kurfuersten とは、神聖ローマ皇帝の選出に独占的権限をもつ諸侯。選挙候ともいうらしい。7人。なお、「諸侯」とはprinces(英)、Fuersten(独)の訳語で第一人者という意味。国王に次ぐ位置を占めて分国を支配した。帝国教会の司教、大修道院長も諸侯の地位を得るようになる。やがて整理されて領邦君主となる。
11 Jan Hus 1370-1415 ボヘミア(チェコ西部 スラブ人だがドイツ文化圏)の神学者。宗教改革の先駆者。ウイクリフ(英 1320-1384)の改革思想に共鳴。聖職者の土地所有や贖宥状販売を批判。焚刑に処される。やがてフス戦争(1419-36)が起こる。

 

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